書き捨て山

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仲間

 俺に「仲間」は一人もいない。職場において明確に敵対している人間が存在しているし、そうでない人間であっても仲間だの何だのと呼ぶに値する存在など日常生活においては皆無だ。前に勤めていた会社でもそうであったし、前の前の職場でも変わらない。というよりも、学生時代にまで遡っても、仲間同士でつるんでいたような記憶があるのはせいぜい中学生くらいまでだ。

 世間では仲間は多いほうが良いとされている。テレビや漫画などではそのような人間関係は無条件に礼賛されているし、それに異を唱えるような言説など終ぞ聞いたことがないほどだ。仲間がいない者をぼっちなどと呼び、そのような人間は精神性や人格、はては能力などに欠陥があるかのような物言いがされる。ともすれば、劣等や異常などといった言葉をあてがわれることすら珍しくはない。

 孤立や孤独とは、要するにそれ自体が罪悪や問題だという見方が社会においては大勢だ。仲間とは素晴らしい間柄であり、それを築ける人間は素晴らしく、それはどのような場面においても礼賛されるべきものなのだと、世間においては盛んに喧伝されている。それについては疑問を挟む余地などなく、それに異を唱えるものは最悪社会から排斥されかねないほどだ。

 しかし、それは本当に正しいのだろうか。仮にこの国の9割9分の人間が仲間は多ければ多い方がいいとか、そのような関係性が持てないものは人として健全でも健常でもないと思っていたとしても、それが即ち真理や真実であるということにはならないだろう。いや、仮にそれが疑う余地もなく正しいとしても、それに与しない選択をしてはならないという道理はないだろう。我意を通すのは飽くまで個人の勝手だ。

 自分の意見により誰かに迷惑をかけたり気概が及んだりでもしない限り、どのような思想や意見を持とうが他人にとやかく言われる筋合いなどない。人は正しいものを拒絶する自由を持ちうるし、それが心からの望みだというのならば、それを貫徹すべきだ。俺は個人的に仲間など少なくとも大人の男には不要だと考えているし、その概念そのものが人間にとって害悪を及ぼしかねないとさえ思っている。

 

 

 そもそも仲間とは一体なんだろうか。余りにも自明なこととしてその言葉や概念が取り扱われ、世の中で流通しているせいで、それが具体的に何を指すのかが曖昧なままになっている感がある。仲間だ。仲間だろ? 仲間なのに……。人がそのように口に出したり思ったりする時、どのような人間関係を個々人は思い浮かべているのだろうか。それは想像するしかないことではあるが、自分自身の内においては別だ。

 我々は普段、どのような意味で仲間と言う言葉を用いているだろうか。それは普遍的な常識や慣習、通年といったものではなく、飽くまで私的で個人的な範疇において、仲間という間柄をどのようなものだと想定しているだろうか。彼は仲間だ、と思う場合でも奴は仲間じゃない、と思う時でも、厳密で明確な前提としての仲間という言葉の意味を定めもしていないのが実情だろう。

 ただ何となく、仲間かどうかを判断して我々は他者を認識し、また分類している。冒頭で俺は、自身の身の回りに仲間など存在しないと述べたが、それですらもあまり深く考えずに書いたことだということは白状しておきたい。この、何となくというのが実に厄介で、ほとんど完全に意識することなくそれは内的な現象として心のなかで起こり、思考に結びつき、結果態度や行動として表される。よく考えれば恐ろしいことだ。

 これが仲間ではなく、味方という言葉であったならば、多少話は簡単になるだろう。味方かどうかは極端な話損得勘定や利害関係で明らかに決まってしまうからだ。そこには曖昧さや不確かさといったものが入り込む余地が無い。何となく仲間ということはあり得ても、何となく味方というのは無思慮でない限り有り得ない。味方かどうかは他人を判断する上で、有効な指標や尺度足り得るだろう。

 翻って仲間という言葉に再び目を向ければ、それが味方という言葉と比べ何故杳としたニュアンスを含んでいるかが分かるようになってくる。仲間は味方とは異なり、実利や実益と言った側面を敢えてぼかした関係性だと考えて良いだろう。自分にとって必ずしも得をしない関係性においても、たまたま身近にいたり同じグループに属していたりする時に、損か得かは脇に置いておき、少なくとも敵でないという意味合いを持って使われるのが「仲間」なのだろう。

 

 だが、人間関係における利害得失というものは、本当に取り敢えず脇に置いて置くべきなのだろうか。打算なく付き合いができることを、さも美徳のように言うような風潮があるが、これには辟易させられる。それはもっとも重要なことを度外視する単におろかなことでしかないのではないか? 俺にはそう思えてならない。それは美しくもなければ尊くもない。

 仲間という関係性やそれによる繋がりや連帯は、重ね重ね述べるが曖昧すぎる。何故、何のために相手に利することをやらなければならないのか。相手に尽くし、取り計らい、献身しなければならない理由や動機などを、本当にあやふやにしたままで良いのだろうか。判然としないままの人間関係が、何となくただ延々と続いていくことは、本当に素晴らしいといえるのだろうか。

 良いように使われているだけなんじゃないか? 仲間であることを前提とした、なにがしかの人間関係におけるやり取りを見ていて、俺はそのような疑問が頻繁に湧いてしまうのだ。それは自分が誰かと関わっている最中においてはもちろん、フィクションなどの他者同士の間柄を客観的に傍観している時にも、感じるのだ。具体的な例を挙げるなら、主人公にその仲間が全身全霊で力になっているシーンなどだ。

 仲間同士の助け合いと言うと大変美しく感じられはする。だが、そこにギブアンドテイクという価値観をほんの少しでも挟み込めば、それは単にどちらかがどちらかに一方的に尽くしているだけでしかないこともままあるのではないだろうか。俺が問題にしているのは、誰かと誰かの間におけるギブとテイクの比率についてだ。それは本当に釣り合っているのか、ということだ。

 完全に1に1報いるなら何も問題はないが、それは幻想もいいところだろう。結局のところ、どちらかが持ち出しになるような場合が大半だと思う。つまり、どちらかが結果的に損をし、片方に時間や労力、金銭などを毟られたり集られたりしているだけだ。にもかかわらず、得をしている側がその実態を隠蔽するために、その関係性を仲間という美名を冠することで正当化しているにすぎないのだ。

 

 

 仲間という言葉や概念が大っぴらに出てきた時、少なくとも現実の人間関係においては重々警戒するべきだ。仲間だから何かして欲しい、するべきだと宣うような輩は、内心では他人を自らが得をしたいがために利用しようという魂胆でいるのだと、決めつけてかかったほうが良い。実際、俺自身の人生を振り返ってみれば、俺に仲間面して近づいてきた者どもは、基本的にはそのような算段があったと断言できる。

 人が人を使役することは避けられないだろうし、それ自体を悪だと断ずるつもりなどない。ただし、それは主従関係や上下関係、損得勘定や利害関係などに基づいた取引でなければならない。利用者と被利用者は、客観的な事実を明確に理解した上で、結びつくのが自然だと俺は考える。お互いが完全に納得した上で一方が一方に利したり、使われたりするべきだろう。

 さらに言えば、誰が誰に対して何のために尽くし、献身・奉仕するのかについて、曖昧なままにしておこうなどという魂胆は、はっきりと悪だと断言して良いのではないか。それは使う側が使われる側を言いように乗せ、騙しているだけなのだから。思い返せば、俺は幾度となく他人に利用されたし、こき使われたし、騙され奪われてきた。そしてそれは、明白な搾取や収奪といった形ではなく、ある程度巧妙に偽装された関係性のもとで行われていた。

 何故俺がお前のためにそんなことをしなければならないのか、俺がお前のために動かなければならない理由を言えよ。そう面と向かって言えるのが望ましい。それを明らかにしたくないと言うなら、俺はその相手の為に何かをする義務などはじめから無いのだから、取り合う必要は本来ない。畢竟、「仲間」という関係を結ぼうとするような奴は、大抵ナアナアで済まして他人を利用しようとしているだけだと見ていい。

 やはり、大の男には仲間という概念自体が不要だということだ。赤の他人にいいように使われることを本心から願うというなら話は別だが。殆ど無償で人生のリソースを割き、危険を冒して俺が何かをしなければならないような、尊い人間などこの世には存在しない。仲間だろ? などと言って近づいてきたり何かを俺にさせようとする人間は、結局「俺はお前にとって尊ぶべき存在なんだから、俺のために尽くせよ」と暗に言っているにすぎない。要するに、ナメてかかっているわけだ。俺に対して、そんなことも察する能力がないと高を括って、尚且つまるで道具のように「活用」しようと企んでいるのだ。

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