書き捨て山

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この身は誰のものなのか

 健康ファシズムという言葉がある。これは、社会全体が負担する医療費用などをできるだけ削減するために、個々人が心身ともに頑健であり続けることを要求と言うか無理強いするような傾向や風潮のことだ。病気になるような不養生や嗜好を忌避あるいは否定し、めいめいに可能な限り健康を維持させようとする思想は、想像するだけ大変窮屈な感じがするし、個人的には嫌いな考えだ。

 これに基づくならば酒も煙草も出来ないし、日常的に運動をしなければならないだろう。俺は前者はともかく、後者が子供の頃から苦手というよりもやりたくなかった。用事もないのに動き回ったり、一円にもならないのに玉を蹴ったり投げたりするようなことは昔から大嫌いなタチで、親をはじめとした周りの大人達がそれを強要する度に俺は反感を覚えたものだ。

 俺は田舎の遅れた場所に生まれ落ちてしまったため、冒頭で述べたような思想とは厳密は異なるが、いわゆる体育会系の思想が蔓延した環境に置かれて育てられた。健康ファシズムであれ体育会系であれ言い方や細かい理屈が異なるだけで、大元にあるものは同じだろう。それは即ち、頑健な肉体を持った個人であれという前提だ。これらは健全な肉体を肯定し、それでない肉体を問答無用かつ無条件で否定するという点で、完全に同一だと見なすべきだ。

 健全さは公私の利益に最終的には結びつくだろうし、健康への追求の本当の目的はそれにあるだろう。ただ単にスローガンのように健康第一と言うなら、何故そうであらなければならないのかという話になる。そしてその問いに対しては、健康であれば実利的な面でプラスになるから、という答えが自然と用意されるだろう。我々が丈夫な体を持つことを礼賛するのは、要するにそれが個人や社会にとって得になるからだ。少なくとも頑健であることで損を被る局面はなかなかないだろう。

 社会全体が負担する医療費を削減するために一人一人が健康に気を遣えという要求もまた、プラクティカルな観点から出てくる発想だと言える。それはさらに言えば、個人の肉体というものは当人だけの占有物ではないという考えも内包している。「みんな」が医療費を余計に負担するのは悪だからお前は健康でいろ、などといった意見の背景にあるのは、肉体の所有権が個人ではなく社会全体にあるのだという主張に他ならない。

 

 

 もし仮に完全に肉体が俺のものであるならば、これをどうしようが他人にどうこう言われる筋合いなど一切ない。どれだけ酒や煙草でそれを汚そうが、出不精の肥満体になろうが、覚醒剤などで脳を破壊しようが、まったくもって個人の勝手だ。法律も老婆心も無関係で、やりたい放題できるはずだ。先に述べたような風潮などどこ吹く風で、自分の体をどのように損なおうが害そうが好きにできて然るべきだ。

 だが、実際にはそうではない。健康ファシズムに同調するかどうか、体育会系の思想に染まるかどうかは別としても、肉体というものが様々な意味合いや側面において、単なる私物ではないというのは不都合であるが事実だと認めるしかない。自分の体であっても、勤務時間中に酒を呷ったりは出来ないし、風呂にも入らず不潔な状態のままにもしておけない。違法薬物や大麻などを摂取して正気を失えば警察に捕まるし、TPOを弁えない格好をしていると誰かから咎められる。

 俺は成人してからずっとアルコール依存症だったが、そのことに周囲の人間は決まって文句を言ってきたものだ。肉体が自分だけのものであれば、他人共の言うことなど聞き入れる必要など本来はない。しかし結局、俺は連中の言うことを完全に無視するというわけにはいかなかった。始業前までには酒を抜けだの、場合によっては翌日仕事がある日は飲むなだのと言ってくる者どもは、何人いたか分からない。

 彼らは俺の身を案じたり心配してそのような忠告や助言をしたのでは断じてない。それは単に仕事に差し支え、俺の体臭がキツくなって不快だから、などといった理由による。連中は自分の都合のためだけに俺の生活習慣に口を出していたに過ぎない。俺の体内にアルコールが入っているかどうかについて、他人が物言いを付けることができるのは、職場や他の従業員の迷惑にならないように、俺が我意を曲げてでも自らの肉体を他人の要望や要求に合わせなければならない義務を負っているということを意味している。

 つまり、自分の願いや思いだけを肉体に反映させることは、現実には許されていないのだ。それを否定する者がいるとしたら、公共の場で全裸になってみるがいい。その行為はわいせつ物陳列罪という歴とした違法行為であり、警察などをはじめとした他人によってすぐに阻止されるだろう。自分の意思だけで肉体を自在にできないから、そのような事態に陥るのだ。

 

 人生は気の持ちようだ、などといった言説が世間では流布されているが、そうは問屋が卸さない。あらゆる事柄が心の如何によって上手くいくなど幻想でしかない。また、それは身体的な面でも言えることだ。精神により自分の肉体を完全に制し御することができると考えるのは、実は大変な思い上がりである。我が身が思い通りにならない理不尽さや絶望と言ったものを曲りなりにでも味わったことがあるなら、そのような楽観的な考え方など到底出来ないものだ。

 あるとき俺は、自律神経失調症により肉体に様々な異常が現れたのだが、それに対して気の持ちようだなどとはとても言えなかった。そんな場合、根性論や精神論などは噴飯物としか思えなくなる。不安感や焦燥感に駆られ、脂汗や動悸が収まらず、神経が高ぶるせいで眠ることはおろか横になって目を閉じていることすらままならない。そんなとき、俺は自らの肉体に他者性を感じずにはいられなかった。

 落ち着け、リラックスしろなどと、いくら念じても念じても、一向に俺の体は言うことを聞かなかった。俺はその時心身を静めるために入浴したが、そのとき心臓発作を起こして危うく風呂場で死にかけた。舌の先が痺れ、手足が痙攣し、俺は全く身動き一つ取ることが出来ず、俺は絶望に打ちひしがれた。体の自由が全く利かないという経験をしたのは、この時が生まれて初めてでった。

 体が意思や精神の意に沿わない時、それは愚図の他人であるようにしか思えないものだ。肉体即自分という認識は、単なる思い込みでしかなったと俺は思い知るに至った。その経験は、自分の範疇というよりも、己の中核だと見做していた肉体というものへの信頼を揺らがせるものであった。

 他人や社会などの外部の何かを引き合いに出すまでもなく、肉体は完全に自分の占有物でも所有物でないのは明らかだ。仮に目下体が意のままに動いているとしても、それはその瞬間においてそうであるだけで、それを根拠にして我が身を我が物だと言い切るのは単なる浅薄な考えでしかないのだ。

 

 

 思い返せば、肉体とはあらゆる辛苦や悩みの根源だった。アルコール依存症であれ自律神経失調症であれ、肉体があればこそのものだった。さらに言えば、時間がないとか、自由がないといったことも極端な話肉体的な苦しみであると見做せる。体がなければ腹も減らないし、眠くもならなず、痛みや苦しみも欠乏も束縛もない。

 また、容姿の悩みも同様に肉体が原因のものだ。身長や願望のことで俺は常日頃劣等感に苛まれているが、それも体を自分だと認識しているがゆえのものだ。この身が自分の物でなかったなら、肉体即自分という図式から完全に解かれたなら、肉体に由来するあらゆる苦悩は、そもそも自分には縁のないものとなるだろう。

 何故体を自分ないし自分の物だなどと思うのだろうか。それは単なる思い込みでしかなく、何の根拠もない。自分の肉体を構成する遺伝子もまた、自分の物ではない。それは親から与えられたものでしかなく、それについて俺の意向や選択などは全く無関係であることは自明である。卵子精子を選んで肉体をコーディネートしてこの世に生まれてきたわけでもないのに、何故肉体を自分だと主張できるのか?

 肉体の起源は親のセックスである。そしてそれが起きった時と場所について、俺の意志などは全く無関係であった。偶然か必然かは明言しないが、とにかく俺の全くあずかり知らぬところで俺の肉体の起源は結ばれたということだけははっきりと断言できる。

 日々年老いて若さを失っていく肉体に不自由さや理不尽さを覚えるが、そもそもそれは自分とは本来無縁の肉塊にすぎないのではないか? そのような疑問が近頃ふと湧いてくる。それが健康であろうがなかろうが、我意に沿う形で保たれようが、何かに強要されてある状態にさせられようが、実のところどうでもいいのではないか? それについて真剣になる必要はなく、申告になる理由など本当は全くないのではないか?

 肉体を我がものとするからこそ、人生というものは悩み深く苦しいものとなるのかもしれない。その前提が覆った時、思い通りにいかないことも、誰かや何かに無理強いされることもにも、シリアスになることはなくなる。その境地に、俺は達するべきなのだろうか。

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