書き捨て山

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道具人間

 俺は利用される道具でしかない。被雇用者として生きていると、様々な場面でそのことを実感させられる。他人の私利私欲のためにタダ働きを強制的にやらされることなど日常茶飯事で、そのことを不服に思うことさえできない。いわゆる社会人というものはそれを常日頃こなすのが当然であり、それが嫌だとかやりたくないなどと言うと人間失格の烙印を押されかねない。

 他人に使役されなければ生きていけないのは単に恥ずべきことだ。生まれてきてからずっと、俺は自分以外の誰かに雇われ使われることを前提にして生きてきた。無産者として死ぬまで働くことを義務付けられて、俺は家の中や学校などで躾や教育を施された。そうでない生き方を志向することなどあり得ず、それが嫌だと思うことも許されないような環境で育ってきた。

 その結果として今の暮らしや人生がある。言うなれば俺は生まれついての底辺労働者であり、現在置かれている状況は宿命以外の何物でもない。俺の意思や選択など、全くまるで無関係にこの人生が仕立て上げられたと思うと、それを指して「我が生涯」などと呼ぶことすら抵抗がある。利用され、使役されるだけの存在が人格を尊重され、個人としての人生を歩むだなどと、土台おかしな話だ。

 社畜などという言葉があるが、思い上がりも甚だしい。それ以外にもよくなされる物言いの一つとして、下層の労働者を家畜や奴隷に例えるものがあるが、それらは全くもって不適切な表現だと言える。なぜなら先に挙げたような存在は、一般的にきちんと価値がある高価なものであり、容易に失えるような代物ではないからだ。家畜にしろ奴隷にしろそれは、使い捨ての道具ではなく、大枚をはたいてようやく手に入れられる財産だ。果たして、労働者というものははそれらに該当すると言えるだろうか?

 我々の価値は自身が思っているよりもずっと低いのだと底辺労働者は自覚しなければならない。中流以上の人間だとまた事情は異なってくるだろうが、下層の労働者など100円ショップで売られているような消耗品の道具程度の価値しかないのが実際のところではないだろうか。そのような現実を認めなければ我々の生活は一向に変わらないように思える。屈辱を受け入れ、現状を正しく認識するのは辛いことではあるが不可欠だと思う。

 

 

 使われるということは他人に所有される道具として振る舞うということに他ならない。そのことをかなりボカして我々は日々を生きている。意思や意見を尊重されることがなく、時給いくら月給いくらといった端た金で酷使される存在以上の何かでは有り得ない。その現実をはっきりと認識する機会は、そう多くはないだろう。それは被雇用者側の尊厳を傷つけることでもあるが、それよりも雇っている側にとっても都合が悪い事実であるから、それについては曖昧にされているのではないだろうか。

 お前は俺の私物だから不満も文句も言わず思わず、死ぬまで全身全霊、全ての時間を捧げてこの俺に尽くせ、などと会社の上役や雇用者は口が裂けても通常言わない。どんな人間であっても、自分が悪者になることは極力避けようとする。また、それを自覚していたとしても、それであることを状況が浮き彫りにならないようにあらゆる言動によりその事実は隠匿されるだろう。

 俺は他人を我欲のために酷使する人間のその欺瞞が何より気に入らない。仮に俺が使う側だったなら、この世の他の誰よりも横暴で悪逆を極める人使いでもって、使われる者を思う存分虐げるかもしれない。しかし、そのことを隠したり誤魔化したりなど絶対にしないと神に誓って言える。他者を使役することは言い逃れようがない悪行であり、それに手を染めるなら悪びれずにただやるだろう。

 他人の時間を自らの欲得や都合のために掠め取ることは他者の人生を搾取することでしかない。それの意味について、世間では深く考えることも論じることも推奨されていない。それは飽くまであやふやにされ、使う側も使われる側も明確にそれを意識しないようにして、どうにか丸く収まっているような感がある。ナアナアなままにしておくことで、無用な軋轢が生じないようになっているのだ。

 俺はそれが嫌だ。単に赤の他人にこき使われ、自分の人生が無駄に消耗するのが惜しいだけではない。無論それも重要だが、他人の時間を明確に掠奪する大悪行を公然とやっておきながら、自分がまるで悪人でないかのように振る舞う神経が嫌いだし、それが当然のようにまかり通る世間の風潮が嫌で嫌で仕方がない。私利私欲のために他人を犠牲にするならするで、もっと堂々と潔く悪人として徹するべきだ。

 

 お前は俺の道具だから大人しく使い潰されろ、と面と向かって言ってきた人間など終ぞいない。しかし、実質そのような扱いや態度で俺に接してきた者は両手で数えても足りないほどいた。連中は使われるが分からしてみれば単に加害者以外の何者でもないが、自分がそれであると見なされることを一人の例外もなく避けようとしたし、そう見なされれば憤るのが常であった。

 他人を道具のように使役しながら、その悪行が被害者に意識されると怒り出す身勝手さは、極めて醜悪だ。使うことが問題なのではなく、それを美辞麗句や詭弁によって隠蔽しようとする浅ましい精神が全くもっていけ好かない。俺も事を荒らげるのは避けたいから実際には言わないが、可能なら言ってみたいものだ。お前からしてみればこの俺など使い捨ての道具にすぎないだろうに、恩着せがましい口を利くな、と。

 敵対することを何故人は恐れるのだろうか。利害関係や主従関係により、一方が一報を搾取されたり酷使したりしているという動かし難い現実があるにもかかわらず、会社などではそれがまるでないかのように巧妙な形で偽装される。使役される人間が自分の意志で進んで、好んで、望んで、目上や雇い主に献身したり奉仕したりしているという体でことが運んでいることにしたがる人間には、心底辟易させられる。

 しかし、その欺瞞も使う側が使われる側を「使えない」と判断されれば用いられなくなり、剥き出しの本音が露わになる。その瞬間を俺は何度も経験した。その時に露呈する使う側から放たれる本心からの言葉は、俺には却って心地よく思える。仲間だの何だと言っていた人間が、結局のところ都合のいい存在でないとなれば態度を急変させてあらゆる侮辱や罵倒を食らわせてくる。初めからそう言えばいいのにと思う。

 

 

  利用する側とされる側の間には、親愛や和睦の情など芽生える可能性などない。使役される側の能力の如何にかかわらず、その前提は覆らないだろうし、それをはっきりと自覚するべきだろう。俺は使役される存在として、他人に屈して道具として徹するのだと明確に意識しなければならない。思えば、そのような認識が欠けていたから色々な問題を抱える羽目になっていたような気がする。

 低賃金労働をする無産者として生きる限り、他人にとって都合のいい道具以外の何かであることなど有り得ない。それは人間にとって本来なら屈辱的なことであり、好ましくない。それをどのような瞬間においても明確に意識しつつも、それから脱するために自分がどのような行動をすべきかを考えていかなければならないだろう。

 他人に利用される道具として産まれ、今日まで生きてきた。そのことを疑問に思い、不服に感じ、どうにか変わりたいと願う気持ちが、どうにも欠けていたように思う。また、そのような気持ちを抱かないように周りの人間に精神や思考を操作されていたようにも思う。嫌そうな顔をするな、と親や上司、雇い主などの多種多様な人間によく言われたものだ。俺に足りなかったのは、正しくそれだったのだ。

 使えない人間を目指したい。他人に利用されるのを肯定するような精神は持つべきでない。そのような気持ちを忘れて生きているから、毎日がハッキリとしない霞がかかったような感じになってしまっていたのだ。不平不満こそが人生を切り開く為の端緒となるのだ。どのような局面においても、満たされない不本意な心を失わずにいたいと俺は思っている。

 他方、使役され続けて時間や労力を延々と提供する存在を常に必要とし求めている者は当然、その気持ちや精神を挫き、削ごうとするだろう。改めて考えれば極めて単純にして明快だ。これは奪い合いのゲームである。他人を使う側は如何にして従順な人間を確保するかが肝心であり、逆に使われる側はそれにどのようにして抗うかという話になる。処世とは結局のところその両者の戦いであり、社会の実相はシンプルな理屈で動いている。現実とはいつも無味乾燥で身も蓋もないが、それから目を背けることはあってはならない。

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