書き捨て山

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操作したがり

 他人を操作したがる人間が多すぎる。家でも学校でも会社でも、どこもかしこも一体何様のつもりなのだろうか。自分の意に沿わないという理由で他人を攻撃したり否定したりする悪漢どもの、なんと多いことか。俺としては、そのような手合いは社会から排斥され、刑務所可病院にでも隔離されて然るべきだと思う。だが現実においてはその手の人種が世の中を我が物顔で渡り歩き、肩で風を切って威風堂々と我が世の春を謳歌しているのは、誠に嘆かわしいばかりだ。

 自分以外の個体が思い通りにならないことの、一体何が不服なのだろうか。俺には皆目見当もつかない。他人を自分の意のままに操ることの快感が、そもそも俺には理解できないから、俺を操作できないと憤る者どもの気持ちというものを、推し量ることすら不可能なのだ。それをしたがる人間の欲求というものが、得体の知れない恐ろしい感情のようにしか思えない。それは正体不明にして奇々怪々の茫漠とした妖怪のようだ。

 金が目当てで、そのために他人を操ろうと企んでいるならまだ分かるが、そうではない。いわゆる「操作したがり」は操ること自体が目的だから、却ってタチが悪い。実利の為に他人を利用する類いなら、まだ理がある。ところが、操作したがりには理屈も論理も存在しない。ただ他者を己の延長として見做し、その「思い」が無下にされれば気に入らず、不服だと宣うのだから単なる我利我利亡者とは一味違うのだ。

 金や利益を目的にしている人間は、ある意味気持ちがいい。自分の感情や気分よりも、金銭を優先するような人間には尊敬すべき点があると俺は思う。その原理原則に従って行動しているのだから、対処・対応も簡単にして明快だから付き合いやすい人種であるといえる。だが、そのようなタイプは現実にはなかなか存在しない、稀有な人間だ。

 現実の社会で跋扈しているのはそのようなリアリストとは似て非なる者どもだ。銭ゲバは金という普遍的な価値がある事物のために他人を操ろうとするのに対して、操作することを目的にする者はそれによって得られる自分の満足感を動機にしている。金銭は誰にとっても価値があるものだが、その人間の個人的な感情などは当人以外には無価値なものでしかないことは言うまでもない。どちらが悪質で不条理な存在であるかは言うまでもない。

 

 

 個人の気持ちというものは一体どこまで慮られるべきものだろうか。それも他人を自分の意のままにしようなどと考える者の気持ちというものを、配慮しなければならないのだろうか。そのような人々を不愉快にさせることは果たして罪悪なのだろうか。俺はその手の人間の下でよくこき使われたものだが、連中は自分の気分が俺によって害されたと言って怒りを露わにしたが、それは正当なものなのだろうか。

 彼らに屈する俺の気持ちは無価値で、顧みられる必要はないというのだろうか。操作したがり曰く、ないと言う。お前の気持ちや都合など知るものか、と平然というのだ、このような者どもは。俺はなおのこと不思議で仕方がない。そのような言動や態度を取られて、俺は感銘を受けたり屈したりして連中の言いなりにならなければならないというのか。彼らの頭の中においては、どうやらそうなのだろう。

 自分の気持ちは大切だが、目下や格下だと自らが見做した存在のそれなどは知らない、というよりも踏みにじり蔑ろにしても一向に構わないどころか、そうして当然だというのが、操作したがりの思考だ。俺はそのような手合いは本当に死んで欲しいと思う。一日も早く自殺でもして、この世から消えてくれればどれだけ世間はましになるだろうか。

 自分を尊重しない人間に献身し奉仕する義務が、俺にあるというのか。それも嫌々、涙をのんで屈辱に顔を歪めながら従うだけでは駄目で、俺は敬服し崇敬の念を抱きながら例の操作したがりに平身低頭、滅私奉公で命が続く限り尽くさなければなならない。腹の底からその感情が正当だと思える人間の精神構造が俺には理解でない。まるで俺とそいつらが、一心同体の運命共同体であるかのようではないか。それも主従関係ありきの。

 実際その手の者どもにとって、同輩以下の人間など自身の心身の拡張なのだ。肥大化した自意識を、人間関係のある別の個体に拡大して認識しているからこそ、前述のような傲慢不遜の考えが当たり前のようにできるのだ。そしてそれは、金銭などの利益のためによるものではなく、自らを拡張すること自体が目的であり個人的な欲望の充足のために行われる行為なのだ。

 

 重ねて述べるがそれは金のためではない。会社などの組織においては操作したがりの言動は一見、仕事上の成果や利潤の追求のためのものであるかのように見せかけて行われる。しかしそれは本当はどうでもよく、自分の個人的な欲望を満たすという本当の目的を隠蔽する目眩ましでしかないのだ。

 俺は社会に出てからずっと、それに気が付かずにただ単に会社や職場に不利益を与える行為を自分がしているから、上役などの怒りを買っているのだとばかり思っていた。だが、実際はそうではなく、もっと裏に隠された本当の動機というものが厳然と操作したがりの腹の底にはあったのだ。

 家庭でも会社でも、他人を操作したいなどという欲は邪悪でしかない。自分以外の個体を我がままに操りたいという願望は、健全とは対極にあるものであり、操られる側にとっては100%有害なものでしかない。それを正当化できる根拠などどこにも、一つもありはしない。そのことが操作したがりには絶対に理解できない。自分の意を汲んで他人が動かないことは、連中にとっては決して許すべきでない悪事なのだ。

 人間でなくても、特定の何かが思い通りにならないことで激憤に駆られるのは、単に幼稚なだけだ。それは全くもって正しくない。本来なら、そんな願いを聞き入れてやる筋合いなどないのだが、その手の人種は上下関係を振りかざして我意を通そうとしてくるから厄介だ。立場上彼らに従わない訳にはいかないから、結局は連中に屈服していいようにされてしまうのが実に悔しい。

 しかし、抗うことが出来なくても自分が他人の身勝手で個人的な願望のためだけに、不当な操作を被っているということを念頭に置いていくことは可能だ。すぐに操作したがりの魔手から逃れることは能わずとも、それから離れる機会を虎視眈々と伺いながら雌伏の時を送ることは十分できる。操作したがりは身も心も他人を自分の物にしなければ気が済まないが、くだんの人々の魂胆や腹づもりを常に忘れずにいれば精神の所有権だけは彼らに握られることはない。

 

 

 誰それの手となり足となりと言う表現は、決して単なる例えではない。他者を操作したがる者どもにとって、目下や格下は文字通り自身の心身の延長でなければならない存在なのだ。これは極めて危険な思想であり、餌食にされ利用される者にとっては奴らの存在は害悪以外の何物でもないのだが、そのような人間は社会において排斥されるどころか、様々な場所に居座り一定の地位を築き上げ、猛威を振るっているのがこの世の現状だ。

 我々はそれからどのようにして身を守るべきだろうか。その答えを残念ながら俺は持ち合わせていない。というよりもその手の人間を完全に社会から隔離する制作の一つでも無ければこの問題は解決しないだろうし、現実的にそのようなことは絶対に起こり得ない。せいぜいそのような人間が権勢を振るう場所に近付かないようにしたり本性を表したら可能な限り距離を置くくらいしか手がない。

 少なくとも、そういう御仁の気持ちに沿う必要など一切ないということだけは心に刻んでおくべきだろう。操作したがりはさも自分のために他人が尽くすのは当然で、自身を敬われるべき存在だと自負している。それに気圧されて靡いてしまわないように気をつけることで、連中の毒牙にかからないように気を確かに持つことで精神だけは防衛できるだろう。

 単に言いなりにするだけでは奴らは決して満足しない。彼らの最終的な目標は格下の精神を完全に自らの支配下に置くことだ。それが達成されなければ、連中の目的は頓挫されたも同然だ。物理的に奴らに報復したり反抗したり出来ないとしても、一矢報いることくらいは可能である。面従腹背の姿勢を貫くことで、操作したがりの邪悪な願望を打ち砕くことはできる。

 正当性のない身勝手で個人的な欲望を満たす手助けをする義理などない。結局のところ、従わせ操作しようと企んでいる者どもは、俺のことを心底見下し侮り見縊っているにすぎない。そんな連中の気持ちを思いやる義務も必要もなく、むしろ悪人の願いや欲望など踏みにじって然るべきだと思う。

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