壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

じゃんぼ刈る

 1000円カットで髪を切るということだけでも、俺にとってはオオゴトだ。俺の食費は1日当たり多くて500円ほどであり、1000円とは2日分の食費に該当する。この出費を考えると、ただ単に散髪を行うだけでも金銭的に大変惜しく、俺にとって床屋に行くのは可能ならできるだけやりたくないことの一つだ。髪を切る代金をできるだけ節約したいがために、俺は限界まで髪の毛は伸ばしたままにしている。

 また、子供の頃から散髪という行為それ自体が億劫で好きではなかった。地元の方言で散髪と言う行為や床屋、ひいては髪の毛のことを「じゃんぼ」と呼び、親などから金を渡されて「じゃんぼ刈ってこい」と言われれば、俺は問答無用で床屋に行かなければならなかった。床屋で髪を切るのは5分10分では済まないから、俺にとっては時間の無駄と言うか、それは単につまらなく楽しくない用事にしか思えなかった。

 金と時間が惜しいことの他にも、俺にとって散髪が嫌いな理由として、鏡と向かい合わなければならないから、ということもある。俺は自分の顔貌について、憎悪に近い感情を抱いている。床屋の店内は明るく、大きな鏡の前で自分の顔を大写しで見なければならないから、俺にとっては髪を切っている時間は大変苦痛に思える。自分の顔などとても見られたものではないのに、散髪中はずっと鏡に映る己と対面し、髪を切り終われば理髪師に出来上がった髪型に問題がないか鏡をよく見て確認するように迫られる。これもまた俺にとっては不愉快かつ不都合なことであった。

 俺が散髪や床屋を嫌う主な理由は上記の3つであるが、それでもやはり散髪は数カ月に一度は避けては通れない。会社などで髪を短く切るように強要されるし、事務仕事であれ肉体労働であれ、髪が長過ぎると色々と差し支えるため、諸々の事情により散髪をどうしてもしなければならない段になると、日曜日の貴重な時間とナケナシの財布の金を支払い、自分の顔を凝視する苦行を涙を飲んで甘受して「じゃんぼ刈り」に行くのであった。

 1000円カットは美容院とは異なり、理髪師の腕前があまり良くない。担当する者の当たりハズレにより、髪型のクオリティにはかなりの差が出てしまう。今日のジャンボで俺の髪を切った人間は、あまり良くない部類であった。普段は簡潔に注文を言えば色々と察してくれるのに、今日俺が当たった理髪師は中々要領を得ず、幸先からして悪かった。散髪の前に霧吹きで髪に付ける水の量もイヤに多く、手際も悪いように感じられた。一から十まで、俺にとっては大変不満に思えてならなかった。

 

 

 悪い理髪師に当たったし、散髪の注文も正確に伝わっていないように思え、俺はにわかに不安を感じた。なにせ俺にとって代金として支払った1000円は中々の大金なのだ。それをドブに捨てるような結果になるならば、それは俺にとっては大変な痛手であり、笑い事では済まされない。一度散髪をしたら最低でも3ヶ月は持たせたいという思いもあり、散髪が成功しないのではないかという懸念は俺に脂汗をかかせた。変な髪型にされでもしたら、取り返しがつかないのだ。

 目下髪を切っている男の腕前は全く心もとなく、信用に値しないように感じられた。俺は払ってしまった1000円がたまらなく惜しく思えたし、カットに失敗したら一体どうしてくれるのだろうか、などといった思いが頭の中を駆け巡った。悪い手際でチマチマと理髪師が俺の毛髪にハサミを入れるのを、俺は苦々しい思いを抱きながらただやり過ごすしか無かった。

 やはりきちんとした床屋か美容院にでも行けばよかったのだろうか、などとガラにもなく思った。数千円払ってでもキチンとした技術を持った人間に髪を切ってもらった方が、身だしなみを整えるという観点ではずっといいし、様々な面でもそれは必要な出費なのではないだろうか、といった思考が頭髪を切られるがままの俺の頭の中に浮かんできた。

 しかし時すでに遅しだ。もう散髪は始まっているし、今更一切をなかったことにする術などない。また、仮にそれが可能であったとしても、俺の経済力ではマトモな床屋や美容院になど通えるはずもない。金銭的な事由により、結局俺に与えられた選択肢など1000円カットのうちでどの店にするかという範囲の中にしかない。現状の俺が俺であり続ける限り、俺はこれからもずっとこの手の煩悶に頭を悩ませることだろう。

 理容椅子に腰掛けながら、俺はやるせない思いを抱きながらも、段々とバカバカしくも思えた。俺が仮に無産者でなく会社勤めもしていなかったなら、第一この瞬間を散髪というイベントに費やしていただろうか。俺が髪を切らなければならないのは、働いている職場における都合を考えた上でのことだ。結局、上役などが俺に髪を切れと命令したから休日の貴重な時間を散髪に充てているのであり、半ばこれは強要されてやらされているにすぎないのだ。

 

 要するにこれは、俺にとって不本意なことでしかない。俺が自身の髪型に細心の注意を払う人間であったなら、確かに理髪師の腕前の巧拙は重大事であり、その最終的な仕上がりの如何に一喜一憂させられるのは仕方がないことだろう。しかし、そうではない。俺は最低限出歩ける髪型でありさえすれば、その詳細について頓着などしないし、極端な話、安く済みさえすればどうでもいいのだ。

 それならば、俺の髪を切っている人間の手際の悪さなど何だというのだろうか。そのようなことを思案しながらも、ふと気がつけば理髪師は俺の髪を切り終えていた。出来栄えは可もなく不可もなくといったところであり、結局のところ蓋を開けてみれば結果は俺の杞憂でしかなった。思い返せば前の散髪も前の前の散髪も、もしかしたら似たような取り越し苦労をしていたかもしれない。

 金を払い、時間を費やしたのだから、それらをどうしても無駄にしたくないという思いをどうしても払拭することが出来ない。仮に変な髪型にさせられたとしても、それは結局のところ俺にとっては痛くも痒くもないはずだ。にもかかわらず、それを何故か危惧したり問題視したりする自身の精神について、俺はどうにも解せず、不可解に感じられた。

 今日の「ジャンボ」により、俺の悪癖が浮き彫りにされたと言って良いかもしれない。貧乏性と言うか何というか、とても良くない性向だと自分でも思っているのだが、この性分をどうにも改変することが出来ずに今日に至っている。それが様々なところで露呈することで、俺は無用な苦痛や苦悩を被って、無闇矢鱈にただ一人きりで難儀しているのだからよくよく考えてみれば滑稽だ。

 そもそも、職場で髪を短くしろなどと無理強いされなければこの文章すら書いていないのだ。髪を切りに行き、不必要な不安や後悔の念に駆られ、結局それらも馬鹿げた気苦労にすぎず、一連の感情や思考の流れを文章にして書き起こすという行為も元を辿れば誰かに散髪を強要されたことに端を発する。俺の意思や選択などは入り込む余地など一切なく、これは言わば外的な要因によりやらされていただけのことでしかないと言っても過言ではない。

 

 

 終わってしまえばそれまでのことだ。とどのつまり、自分の考えや意見など何一つなく、俺は動かされ思わされ、やらされ書かされていただけだ。自分のあずかり知らぬ都合や意図によって、俺はただ操られているだけで、それによりもたらされる結果や被る様々な事柄について、改めて考えてみれば俺には関係もなければ責任もない。

 一体なぜ俺は思い煩うのだろうか。自分の裁量や責任でもってやっていることであるならば、その成否により自身の値打ちなどが決まってしまうから、深刻にならざるをえないかもしれない。あらゆる全ての結果について、自らが背負わなければならない状況や局面というのは、決して多くはないと俺は考える。自分が望んだわけでも選んだわけでもない事柄の成り行きについて、真剣にならなければならないというのはおかしな思い込みにすぎない。

 俺は完全に自主的に散髪に行ったわけでもなく、好き好んで1000円カットの店を選んだのではない。担当を務める理髪師を俺が直々に指名したのでもなく、その者の手により仮に変な髪型にされたり失敗したりしたとしても、俺にとっては大したことでないときている。一体何処に、気を揉む必要があるというのだろうか。考えてみると何もないのだ。

 にもかかわらず、俺はまるで義務でもあるかのように散髪中は心中穏やかではなかった。生きている最中に起こる全ての事、身に降りかかる一切合切について、俺は無意識のうちにシリアスになるように仕向けられているようにさえ感じられる。俺の精神はまるで、プログラミングされた機械や調教された動物のように、条件付けされた挙動をしているのだ。それが何に因るのかなどどうでもいいが、とにかくそのような悪習が俺の内面にあるということだけは確かだと言える。

 事実や結果に責任を負わなければならないという考え自体が間違っているのだ。一から十まで自らの権限や裁量で選択したり行動している人間などこの世には存在しない。人生とは畢竟ままならぬものであり、自身の思いや願いとは無関係に大概のことは進められ、起こり、我々はそれらをただ受けることしか出来ない。よって取らなければならない責任など、始めから無い。そのため、生きる上で自分の身に降りかかることについて、シリアスになる必要など、実はまったくないのだからもっと鷹揚に構えるべきなのだ。