壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

 食事は俺にとっては頭痛の種だ。子供の頃から食べるという行為については常に考えさせられてきた。現在は主に食費とそれに要する手間暇について悩まされているし、子供の頃は専ら太りやすい自分の体質と旺盛な食欲に苦しめられてきた。性質は異なるが、ともに飯に関する憂いである点においては共通している。そのような事情のため、飯を食うことについての喜びや楽しさを語ったり描いたりしているドラマなどを観ていると、まるで異世界モノのコンテンツであるかのように感じる。

 俺の食欲は人並みだが、おそらく常人と比較して少なくとも3倍は太りやすい体質である。それは、物心ついてからの自身の人生で最も理不尽に思えることの一つであった。もし俺が並外れて食いたがる性格で、好き放題に貪った結果として自分の肉体が肥え太るのだとしたらまだ納得がいく。しかし現実にはそうではなく、1日3食通常通り食べるだけで俺は誰もが認める肥満体になるのであった。子供の頃から、ずっと体型のことで悩まされてきた。

 しかし、そのことについて俺よりもさらに気がかりにしていたのは、むしろ母親であった。百貫デブなどという俺が子供だった頃の時代においても古すぎる罵倒を俺に向かって頻繁にした母は、「食べる」という行為それ自体への罪悪感を俺に植え付けた。成長期や思春期に満足に飯を食うことを躊躇うようになった俺は、当然身長も伸び悩み、結果として小柄な人間にならざるを得なかった。そして俺の身長が低いことも母は大いに不満を抱いた。

 かくして母は俺の太った体型を散々なじりはするが、身長は伸ばさなければならないという矛盾を抱えるに至った。そしてそれは俺への大変理不尽な仕打ちとなって現れた。食うなと言ったり、もっと食えと言ったりで、俺は自身の内面で惹起する食欲と太れば親に責められるという罪悪感の板挟みになり、遂には食事という行為を恐れるようになった。今日でも何かを口に入れれば太ることへの恐怖の念が湧いてくる。

 もっとも、現在は親元を遠く離れた場所で暮らしているため、多少太ったところで親に責められることはあまりない。もし太ったまま帰郷すれば母に通り責められるが、それさえ我慢すれば俺は別に太ってもかまわない状況にはある。しかし、今の俺は肥満体ではないし、体型に気を遣ったりそれについて頭を抱えたりするようなことは殆どなくなった。目下俺が飯のことで気にかけるとしたら、冒頭で述べたように金と時間にまつわる事柄についてなのだ。

 

 

 外食は言うに及ばず仮に自炊に徹するとしても、食費というものは経済的に大変な負担となる。飲酒の習慣があった頃は、一日あたり2000円弱は費やしていた。今にして思えば、大変な無駄であるし、健康への被害なども考えるとバカバカしくて話にもならない。ともあれ、現在の食費は一日500円以内で抑えるように心がけているし、日によっては400円ないし300円ほどであることもままある。

 仮に毎日飯を食うのに500円かけたとして、ひと月の食費は約15000円となる。俺にとって、と言うよりも独身男が働ける忍耐や精神を維持するには、これ以上食費を削る訳にはいかないだろう。これよりも食費を抑えることは可能ではあるが、健康を害するのは必至である。骨や歯を弱くする訳にはいかないし、体調不良で仕事を休むと給料を減らされてしまう。医者にかかったり薬を買ったりするのに余計な出費が増えるようなことがあるとしたら、本末転倒である。

 長い間の一人暮らしと自炊生活により、自分が何を最低限食うべきかは心得ているつもりだ。一般常識や栄養学などに絶対に従わなければならないという法はない。万人に当てはまる健康的な食生活などは存在しないと俺は思っている。また、俺は自分の体を頑健な状態に保つには、どうすればいいかを経験則として知っていると自負してもいる。俺がそれに則って生活すれば、先に述べたような食費となる。

 具体的に言うと、主食に加えネギ1本と卵を1個摂取していさえすれば、俺の肉体と精神は健康な状態と維持することができる。主食は米でも蕎麦でもうどんでもよく、ネギと卵もどのような調理法をしても構わない。自分の中でそのようにルールを設けて毎日栄養を摂ることになるが、少ない食費の中で前述の条件を満たす食事となると、自然と決まりきったものを食べることになる。

 主食が米のときは刻んだネギと卵に納豆を加え、それらを丼に全て投入して混ぜたものを食事とする。これが基本的な晩飯となる。米ではなく主食を蕎麦とする場合、これも刻みネギを薬味として1本分用い、加えてめんつゆに生卵を投入して食すことになる。基本的に主だった食事は一日に一回だけで、その一回も上記のどちらかが主となる。500円で腹が膨れ、かつ必要な栄養を摂れる方法となると、自然とこれらのうちのどちらかになる。

 

 言うまでもなく、飽きる。俺は好きで生卵及び刻みネギ入り卵かけご飯を食っているわけではない。また、やりたくて蕎麦を浸すめんつゆの中に大量のネギと生卵を入れているのでもない。本音を言えば他の料理を食べたい時もあるし、納豆や蕎麦を食いたくないと思う日さえある。しかし、食わないと腹が減ることはもちろん、働くための体力や集中力を維持するためにも、たとえ嫌でもそれらのどちらかを無理矢理にでも腹に収める必要があるのだ。

 俺は何のために飯を食うのかと、時折食事の最中に自問することがある。それは前述の通り働くためなのだが、ではなぜ働かなければならないのかという話になる。働くのは生活を維持するためであり、それは究極的には生きるためだ。生きるために飯を食うのだという、愚にもつかない答えが自然と導き出される。俺の胸中の中で愚問に愚答が返されるという帰結に、俺は一人寒々しさを感じる。

 生きていて、最後に食事を楽しんだのは一体いつごろだろうか。かつて日常的に飲酒をしていた頃、金曜日には奮発して半蔵門の酒屋でエビスビールと富士ハムの豚バラ軟骨を買ったものだ。ビールを専用のタンブラーに注ぎ、骨付きの豚バラ肉の燻製をかじる喜びを味わった日々が、今となっては遠い昔のように感じる。ビールはロング缶で6本一組、豚バラ軟骨は一袋に2本入りのものを買い、合計で2300円の出費だった。

 昔の俺は週の終わりの節目として、その贅沢を自らに許していた。エビスビールの芳醇な香りが鼻孔を満たし、滑らかな口当たりが俺に充足感を与える。そしてそれに燻製された軟骨付き豚バラ肉の旨味が加わるのだ。開けた袋から僅かに出した豚バラ肉に、俺は直接肉に齧りつく。軟骨を噛み砕く時に覚える顎の疲労感さえ心地よく感じられた。

 それも今は昔のことで、現在においてはそんな贅沢など望むべくもない。生ビールどころか安物の缶チューハイすらも飲むことは出来ず、喉を潤すために飲める液体と言えば水道水という有様だ。かつて飲み食いしていたもののことを思い出すと、節制している現在の食生活がより一層ひもじく感じられる。そしてそれと同じく、確かに自分が定期的に行っていたはずの体験が、妄想や伝聞の類いにしか思えなくもある。

 

 

 俺にとって食の喜びなど完全に過去のもので、それは自分には完全に無縁の代物だ。労働に耐えうる肉体の維持という実利的な理由のためだけに、俺は栄養を取っているだけにすぎない。そこには一切の楽しみがなく、つまらなくさらに言えば苦痛でしかない儀式のようにすら思える。しかし、それを今すぐ変える方法を俺は持ち合わせてはいないから、俺は今日も明日も主食に加えてネギ一本卵1個の食生活を継続するしかない。

 最早食事は栄養補給の手段と考えたい。食べることは所詮、文化的な享楽など入り込む余地など一切なく、ただ全ては働くために必要な行為でしかないのだと開き直ってしまった方がいい。食事など、精をつけ強壮を保ち、日々の労働に従事するためだけに必要な健康を得るためだけの儀式にすぎない。

 日に最大500円しか遣えないのだから、太る心配も一切しなくて済む。献立に悩む余地すらないから、買い物や支度に余計な時間をや手間暇、労力を割く必要もない。考えてみればそれはそれで悪いことばかりではないように思えなくもない。毎週2300円無駄遣いすることもないのだから、貯金も少なからずできるという利点もある。酒害の心配とも無縁だ。

 食べるという行為、ひいては栄養を摂取することに人生のリソースを割かずに別の何かに充てることができると考えれば、それなりに有意義であると言える。食を楽しまなければ人生は無意味で価値がないというわけでもないのだから、もういっそのこと義務的な栄養補給以外の摂食行為など極力生活から排除するのも良いかもしれない。

 元々酒も肉も、凝った料理も俺にははじめから不必要だったのかもしれない。さらに言えば、栄養を取らなければ働ける肉体を維持できないというのも、単なる思い込みにすぎないのだとしたら、ネギと卵を買う費用も削減することが可能となる。俺は食べなければならない、というしがらみから開放されることを志向するべきなのかもしれない。そしてそれを成すための道程としての現在の生活があるのだとしたら、先程までとは打って変わって、今の暮らしが有意義に思えてくる。