書き捨て山

雑記、雑感その他もろもろ

人の気持ち

 自分を半殺しにした連中の気持ちを、俺は推し量らなければならないのだろうか。そこまではいかなくても、自分に危害を加えようとしたり、悪心を持って俺に何かを言ったりやったりするような輩が一体何を考え、感じ、胸中にどのようなものを抱いているかどうかについて、俺は配慮しなければならないのだろうか。他人の気持ちというものについて、俺はどのように対処すればいいのか、この歳になっても皆目見当もつかない。それだから俺は、未だに世渡りや処世の術といったものに要領を得ないのかもしれない。

 2年ほど前だったろうか、明け方ごろの歌舞伎町の路地で俺は泥酔したまま千鳥足で徘徊していた。行く宛もなく彷徨っていたと言った方が適切かもしれない。なぜそうしていたかについては、本題とは無関係であるため省略する。ともかく俺はくだんの条件下でそのようにしていた。そんな俺に目をつけた二人組のチンピラが、俺のことを執拗に追いかけ回してきた。俺はわけも分からず町中を逃げ回ったが、足がもつれて自分から前のめりで転倒し、追いつかれて捕まってからは意識がなくなりどんな目に遭わされたか定かではない。

 気がつくと俺は、身ぐるみを剥がされて道端で血まみれになり倒れていた。現金やクレジットカード、身分証明書の類いなどを全て奪われ、俺は途方に暮れた状態で警察に金を借り満身創痍のままホウホウの体で帰宅した。完全に俺は被害者であり、歌舞伎町で俺を襲った連中は加害者であると言える。カツアゲの対象として俺は連中にとって最適な存在だったのか、もしかしたら俺の方から奴らに何かをしたのか、今となっては杳として知れない。

 どのような事情や背景、または理由があったにせよ俺は多くを失い身も心も傷つけられた被害者だ。そんな俺が自分を痛めつけたり財産を掠め取った連中がどのような魂胆を持っていたかについて考える必要性が果たしてあるだろうか。その二人組はもしかしたら、どうしても止むに止まれぬ事情があり、なりふり構わず金が必要であったがために苦肉の策を講ずる他なく、涙を飲んで俺を襲ったかもしれない。しかし仮にもしそうだったとして、それが俺にとって何だというのか。

 学校や様々なメディアを介して唱えられる言説の中において、「人間は他人の気持ちを考えなければならない」などとよく言われる。しかしそれは本当に絶対不変の真理なのだろうか。それは万人がどのような人間に対しても、どのような状況であっても遵守しなければならないことなのだろうか。悪辣な人非人どもの考えや気持ち、腹の底を忖度しなければならないのだと言われたとしたなら俺は、果たしてその通りにするのが当然なのだろうか。

 

 

 仕事などで俺は日常的に手酷い仕打ちに遭わされている。BtoCの電話はいつになっても嫌なものだ。会社と会社の間のやり取りであるなら、会社外の人間も商売や業務の上で必要なことしか言ってこない。しかし、客という立場を踏まえた人間というものは、どこまでも尊大で増長した物言いをするものだ。「お客様は神様」というフレーズを誤って解釈した愚劣な人間の相手をさせられるのは、本当に心が荒む汚れ仕事だと言えるだろう。

 傲慢極まりない者どもの心無い言葉に俺はどれだけ精神を傷つけられ、不快な思いをさせられたか、一々列挙するだけで無限に書き連ねられるほどだ。仔細は割愛するが、俺は仕事でそんな客どもの相手をさせられ、手前勝手な要求を躱したり無理難題に対応を扠せられたりするのは日常茶飯事である。客という立場にたてば人間というものは、どこまでもどこまでも醜悪で下劣になれるのだと実感させられる。

 とは言うものの連中は所詮、電話口の向こうにいる存在でしかない。通話が切れてしまえば大概は一期一会のやり取りでしかないから、割り切ってしまえばそれまでの話だと言えなくもない。だが、それは人間の心理や精神といったものを余りにも単純化して捉えた見方にすぎない。やられたり言われたりしたことは、終わってからも記憶としてはいつまでも残り、中々忘れられないものである。

 なぜあの人間は、俺に対してあんなことを? そうあれこれ考えずにいられない。終わったことや過ぎたことを「無かったこと」にはできない。俺が恨み深い性格だというのもあるが、元来人間というものは大なり小なりそのような性質を持っているものだし、それがなければ誰も悩んだり苦しんだりはしないだろう。行きずりの相手の悪意や害意に我々は逐一頭を悩ませるものだ。

 蔑み、罵り、嘲り、貶し。睨み、舌打ち、嫌がらせ……。あらゆる他人の言動の背景にどのような勘定があるのだろうかと、あれこれ考えてしまう。人の気持ちというものを否が応でも推測してしまうのは人の悲しい性である。そんなものを一個だにしないようになれるとしたら、俺はどれだけ楽に生きられるようになるだろうかと、時たま考えてしまう。

 

 肉体的にせよ精神的にせよ、何らかの形で自分に害をなそうと試みている他者の「気持ち」になど、想いを馳せて一体何の得があるだろうか。単純な損得で言うと損しかないように思えてならない。要するに敵の気持ちをその対象の立場に立って考えると言う行為なのだから、それは言うまでもなく単に無益なことでしかない。己の利益に焦点を合わせれば、敵の心などどうでもいいとするのが自然かつ当然と言える。

 昔働かされていた職場でも、俺は上役の者どもに自分たちの「お気持ち」を配慮してどんな局面でも滅私奉公して献身しろなどと命令されたことがある。そしてその時にそれと同時に、その連中に「お前の気持ちなんか知らねえし」とも言われた。連中の考えや思いは俺のそれとは比べ物にならないほど価値があり、俺は自らの内面も奴らのそれを最優先して思考したり行動したりしなければならないのだと言う。

 俺はそれに何も言い返さなかったが腹の底では「それならば俺もお前らの『気持ち』など知った事か」と毒づいたものだ。お前の気持ちを俺は絶対に顧みないが、お前は俺のそれに対してはそうしろ、などと不遜極まりない主張を臆面もなくする人種というものが世の中にはあまりにも多すぎる。少なくとも俺は、その手の連中とかなり頻繁に遭遇し、辛酸を嘗め煮え湯を飲まされ、だまし討ちを食らわされてきた。

 一体何様のつもりなのだろうか。と言うよりも、そんな要求がまかり通ると考えられる精神構造が一体どうなっているのか、俺にはまったくもって不思議て不思議て仕方がない。どのような理屈を前提にしてそのような物言いができるのか気になってしまい、結局は「人の気持ち」を推し量ってしまうというのは我ながら何とも悲しいサガである。

 そのような性分が笑い話で済めばいいのだが、そうでない局面があまりにも多いから俺はそれにより生きづらさを被っているのだ。これについてはやはり改善されなければならないだろう。結局のところ、それで精神的に苦痛を被り、余計な苦悩を抱えることに何の利得もないのだから、そのことを踏まえて自身の思考や感情の流れを御するしかない。

 

 

 仮に味方であったとしても、自分以外の人間の気持ちというものをどこまで重んずる必要があるのか。それは自分に得があるかどうかという一点においてのみ判断すべきだと言える。思考や感情、行動の規範とすべきなのは偏に損得勘定であり、目上だろうが目下だろうが、敵であれ味方であれ自らに利する者の気持ちは尊重し、そうでない者のそれは深く推察する必要ないという結論に俺は至った。

 テレパシーという能力がなぜ当たり前のように万人に備わっていないのかと、俺は時々疑問に思うが、それは畢竟人間という種には必要がないからなのではないだろうか。人間は備わっていない能力に関する事柄については、そもそも為す必要がないと俺は考えている。テレパシーがフィクションの中だけの特殊な能力であるということは、つまりそういうことなのだと思う。

 人の気持ちなど考えても仕方がない。そしてそれは他者だけでなく、自分自身のそれについても同様だ。気持ちや思いといったものをあまりにも重く捉えすぎているために、我々は人間関係の軋轢や自身の内面における無用な葛藤が生じるのではないだろうか。自分が抱いたり感じたりする感情についても、あまり重大に考えず、時には蔑ろにするくらいの、ある種の軽々しさが人間を楽にするのではないだろうか。

 思いや気持ちというものをどんなものよりも重要だとするのは、それが誰のどのようなものであったとしても、人の精神を束縛し自由を奪う。第一それを何かよりも優先しなければならないという言説の正当性は、一体どのような理由によるというのだろうか。誰もがただ何となく「人の気持ち」というものは大切であり尊重されるべきだと信じているだけだ。他人のものであれ自分の物であれ。

 善悪や好悪、敵味方ひいては自他の区別すら問わず、人の気持ちなどそもそもそれほど絶対視する必要などないのではないだろうか。あやふやで曖昧な「気持ち」などよりも、実際に何を優先し、何を得るべきで、また何を失うべきでないかなどといった、実利的な視座から物事を考えたり判断を下したりするべきだろう。人の気持よりも優先しなければならないものは、決して少なくはないはずだ。それがたとえ自分自身の何らかの私情であったとしても。

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