他力斎

雑記、雑感その他もろもろ

想像力

 想像力は人間が人間として生き、振る舞うための力の源泉である。それさえあれば人間は、どのような苦境や貧苦のただ中にあっても、決して打ちひしがれることも屈することもなく力強く生きることができるだろう。それを涵養するために人は、可能な限りの努力をするべきだろうし、それを阻むものには徹底的に拒絶し、否定しなければならないと俺は常々考えている。

 頭の中で思い描く力を、誰も奪うことは出来ない。暴力や強制力のある命令、物質的な欠乏など、それは簡単に跳ね除けてしまいうる。イマジネーションは人間を強靭にし、また賢明にもするだろう。それにより人は苦しみの中に楽しみを感じ取り、屈辱の中に至福を見出すことができる。想像する能力があれば人間はどんな環境でも自由を失うことはない。

 そして人の想像力を養うことが真の教育であり啓蒙である。文字を読むのも人と関わり見聞を広めるのも、全ては自身の内面を豊かにするために必要な試みである。自らの興味や関心のある情報にたどり着くためにあらゆる労力を惜しまずに邁進することが望ましい生き方だと俺は思う。それを求めることにこそ、人生において至高の価値を持つのだと信じたい。それに比べれば、年収の多寡や社会的地位の貴賎などは霞んでしまうだろう。

 しかし、俺の人生はそれを培うという点においてあまりにも乏しいものだった。子供の頃はテレビゲームばかりやっていたが、想像力を育むという観点で言えば、それは間違いなく有害な代物であった。ゲームに限らず、映像が用意されそれをただ享受するだけの娯楽の大半は、想像する力を鍛えるという側面では良い影響を与えないのは自明であろう。子供の頃の俺の周囲に、それを止めさせようとする大人は大勢いたが、その能力の発達について危惧を抱きゲームから俺を遠ざけようとした者は皆無であった。

 子供の頃「ゲーム脳の恐怖」という本が、メディアでは盛んに取り上げられていた記憶がある。それはいわゆるトンデモ本の類いであったが、夢想する能力を養うことが幼年期や少年期のみに限らず人間が生きる上で常に重要であり、ゲームがそれについては有益でないということは確かだろう。だが、子供の頃の俺からゲームを取り上げようとした連中は、「何となく」で俺にゲームを禁じたにすぎなかった。連中は想像力云々だの逞しく生きるためにどうのこうのといったことは毛ほども考えていなかったに違いない。そして、何となくの提言や強制に大人しく従う人間など存在しないだろう。もし仮に、先に述べたような正当な理由を主張できる大人が俺のそばに居てくれたら、俺はその言に従ったかもしれない。

 

 

 仮に俺がテレビゲームに興味を持たない子供であったとしても、大人たちは俺の想像力を鍛えるような何らかの手ほどきや導きなど、決してできなかっただろう。結局、ゲームをしてもしなくても、社会的に低い階層に属する人間の想像力というものは押しなべて貧困であり、それには大人と子供も同じである。我々は一人の例外もなく、その能力を増強する手段や方法を持たなかった。今にして思えば、それこそが我々の人生における一番の問題であり、欠落であったように思う。

 想像、夢想、妄想……、どのような表現をしても同じである。それを自由闊達に自身の頭蓋の内側で展開する能力に善悪や貴賤などは一切ない。その能力の次第により、人間の資質や能力はかなり大きく左右されると俺は思う。それは単なる現実逃避や視野狭窄をもたらす側面も確かにあるが、冒頭で述べたような良い側面も決して無視することは出来ないはずだ。

 中流未満の階級において、この能力は低い傾向があるのではないかと俺は考えている。収入が低いものは想像力が貧困であるというのは決めつけではないだろう。その想像力の低さによって、学習能力や物事に対する積極性などといったものも低下するだろうし、それによって収入などの金銭面にも負の影響を与えるのではないだろうか。

 俺は子供の頃に親から勉強をしろだとか習い事を辞めるななどとは言われたが、想像力を鍛えろとは一言も言われなかったし、周りにいた親以外の大人連中もそのような物言いなど一切しなかった。頭の中で自由に考えを巡らせ、思い描く力というものは、下層社会においては軽視されている、というのが俺の個人的な経験に基づいた印象だ。逆に塞ぎ込んで深く考え込むような性格や傾向は、根暗だとか「おかしい」といった風に思われたり実際に言葉にして面と向かって言われたりして咎められることさえあった。

 想像したり思考したりする習慣や、それを必要とする趣味や享楽といったものには、ことごとく無縁なのが下流社会に身を置く者たちの生活であり人生そのものであると言える。それどころか、その階層においては考えないことや思い描かないことこそが却って美徳として称揚される言っても過言ではない。それは現実の生活から人間を隔離し、社会や世間に反抗的な精神を生み出す兆しと見なされ白眼視されることさえままある。それは正しいと言えるだろうか?

 

 いや、もしかたしたら存外そのような作用もあるかもしれない。下層階級の人間自身の生来の性向として想像力が乏しく、それを伸ばす資質が欠けているのは確かだろう。しかしそれだけではなく、社会全体の顕在化されない要請として、下流に属する人間にその能力を持たせないような何らかの働きかけがされているとしたら? ゲームや低俗なテレビ番組、ケータイやネットなどといった様々な娯楽群が我々に与えられているが、それらは社会に歯向かう能力を削ぐ効果があり、明確な意図があって我々に提供されているのではないか、などと妄想をたくましくしてしまう。

 想像力を奪う、もしくは与えないということは言い換えれば精神的な去勢である。何かに立ち向かったり耐え忍んだりするには、その能力の有無や多寡が肝心になる。なぜなら、継続的に努力したり己を取り巻く環境や自分自身をより良いものに変えようとする意志を保ったりするには、例の能力が必要となる。それを支えにして、人間は先を見越して計画を立てながら何かを成すことができるのだから。

 裏を返せば、思い描ことが全く出来ない人間は家畜のように従順で、現状維持だけで精一杯の人物にしかならない。俺はそのような類いの大人を様々な場所で見てきたが、それは大抵下層階級の者たちで、無知と貧困を常とした人生を誰かや何かに服従しながら唯々諾々と営んでいる。そして俺自身もまた貧苦や窮乏の渦中にあり、イマジネーションの不足を生活の様々な局面において痛感している次第である。

 現在俺は東京において一人で暮らしているが、電話で故郷の母親と会話しなければならない時に、地元に帰れだの帰らないだのといった話を頻繁にする。その時に母は、自分たちが暮らしている町は東京のそれと比べても大きな違いはないのだから、などといった物言いをする。その発言一つとっても、母の想像力の欠如を感じさせられる。地元というのは津軽弘前という町だが、そこでの生活と東京におけるそれと比較して「変わらない」などと、一体どの点において言えるというのか。一々あれが違うこれが異なると挙げてもキリがないくらいであるが、母の想像はそれらのうちの一つにさえ届くことはないのである。

 俺は別に自分の母親が物を知らないとか見識が狭いなどと言いたいのではなく、下層階級の人間の精神構造の一例としてこの話を挙げたまでのことだ。東京で暮らしたことがない人間だから東京の生活がどのようなものか分からないというのは仕方がない。しかし、自らの生活圏の外の全く未知の事柄であっても、人間はある程度は推し量る能力があって然るべきであるし、それが出来ないなら問題だと思う。兎にも角にも、少なくとも俺の生活には口出ししないで貰いたいものだ。

 

 

 ところで俺の家族というより一族全体を見回してみても、生まれ育った場所から離れたところで生きている者はごく僅かだ。その大半は津軽地方の何処かで産まれ、育ち、生涯を彼の地で終える。津軽平野の外というのは彼らにとっては全くの別世界であり、文字通り想像を絶する領域に他ならない。俺の身内だけでなく、死語かもしれないがいわゆるジモティと称せられた人種は、地方では圧倒的な多数派で、それはそれである意味では幸福なのかもしれない。

 ここまで書いていて俺は、声優志望だった自分の妹のことを思い出した。妹は中学生くらいまでは東京に出てアニメ声優になるなどと妄言を吐いていたが、結局地元で就職して現在も親元で暮らしている。そんな妹が一度だけ母に連れられて上京してきたことがあった。しかし、2日ほど東京に滞在しただけですっかり飽きてしまったようで、皇居が目の前にあるにもかかわらず一切興味を持とうとしなかった彼女の姿が俺には極めて印象深かった。

 日本の歴史や現代において天皇が東京に御わすことの意味やその一事についての背景などといったものについて、少しでも考えを巡らせ、思いを馳せる能力が彼女にあったなら、それはありえないことだ。第一そもそも妹にとっては、上京などそうおいそれと出来ないはずなのに、皇居という都内における最重要な場所を目前にしてもそれに興味を示さないなど、正直俺には信じがたい。また、そしてそれは畢竟、そのまま我が妹の人間としての限界を表しているように思えてならなかった。

 イマジネーションは人間の内面に、興味や好奇心の日を灯す。それを端緒にして、我々は何かをしようとしたり知りたいと欲したりするのだ。人間の言動の動機づけや原動力となるきっかけが、まず頭で考え想像することであることは自明であり、それができるかどうかはかなり大きな分かれ目であると言える。俺の妹に関する先程の話においても、皇居を前にして何も感じずに考えようともしないような人間が芸術関係の職業に就き成功するなど夢のまた夢、と言うより万に一つも有り得ないと言わざるを得ないだろう。

 しかし、ただ単に割に合わない卑しい労働に従事するだけなら、考えたり想像したりする能力などなくていいというより、むしろ邪魔にしかならないのかもしれない。多くを考え、思い、感じる必要など下層階級にはないというのは、不都合であるが事実でもある。家族にしろ他人にしろ、俺がこれまで働いてきた工場や倉庫、多種多様な現場で邂逅した人々、何よりも自分自身を省みても、くだんの力などやはり宝の持ち腐れでしかないのかもしれない。人並みにも満たない階級の人間にとって、そんな資質など仮に有していたとしてもそれは、生活上害をもたらすだけの無用の長物以外の何物でもないと結論付けるしかないのは、余りにも悲しい現実だ。

 下層階級に求められるのは労働と消費のみだ。何も考えずただ働き、金を使い、時間を割き、頃合いのいいところで結婚して家庭を築き、子供を授かりそれをまた自らと似た下流の人間に育て上げる。産まれてから死ぬまでの間に、我々に要求されるのは偏にただそれだけのことで、余計なことを考えるのはやはり悪なのかもしれない。少なくとも社会を維持するという観点で言えば、それぞれの階層に属する人間が自分の分を弁えることは当然しなければならないことで、卑しい身の上でありながら妄想する能力に長けているとしたら、それは結局良いことではないのかもしれない。

 だが、だから何? それがどうしたと、敢えて虚勢を張りたくもなるが。