壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

余暇

 2週間以上先の診察になるが、歯医者の予約を入れた。本当なら今週末に医者にかかりたいのだが、どうしても近所の歯医者の予約が取れず、結局その条件で妥協することになってしまった。初診だから診察料が余計にかかってしまうだろうし、費やす時間も決して少なくはないだろう。そんなことを考えていると、歯のことなど放ったらかしにでもして、休日を気ままに過ごす方を優先したいという衝動に駆られてしまう。

 医者にかかると金がかかるが、それよりなにより診療や診察に要する時間が俺にとっては無駄にしか思えないから、歯医者だろうが内科だろうが、病院というものが基本的にどうしても好きになれない。せっかくの余暇がつまらないことのために浪費されてしまうのだから無理からぬ話だろう。その用事さえ無ければ、俺は土曜や日曜日における時間全てを自分の思うままに使えることができるのに、やむを得ぬ事情がありその通りにはいかないのだ。

 俺は金以上に時間が惜しい。タイム・イズ・マネーなどという言葉があるが、それは不十分な文句だと思う。金と時間が等価でありこれらが交換可能な代物だというなら、そのフレーズは正しいといえるだろう。しかし実際にはそうではなく、過ぎ去った、ドブに捨ててしまった時間を金で買い戻せる人間など存在しない。どのような瞬間であっても、それは何物にも代えがたいということに、我々は日常的な感覚においてはあまりにも無自覚である。

 時間とは言うなれば人間存在にとっての全てだと言っても過言ではない。時間なくして人間は生きて存在することはできない。一個の人間として存続している状態など最早どうでもよく、死んでもいいと心の底から思える人間だけが時間というものをぞんざいに扱える。個人としての生に僅かでも執着があるならば人は、時間というものを命そのものとして見なさなければならない。

 しかし我々は、その何よりも大切なはずのものを余りにも雑に取り扱っている、というよりもそうせざるを得ないのが実情だろう。俺の人生は俺だけのものだと主張し、産まれてから死ぬ瞬間まで人生の全ての時間を自らのためだけに使える人間が、この世に一体どれほどいるだろうか。仮にいるとしてもそれは、幸福かつ裕福な有産階級に属する者どもであろうし、世間の大半の人間はそうではない。余暇の時間を有効に使えるかどうかなどとは些細なことで、誰かに雇われて賃金労働をせざるを得ない時点で、何よりも大事なはずの人生における貴重な時間を相当安く他人のために無意味に空費しているのだ。これは仕方がないことだとされ、余人は深刻になって考えないが、俺は働かされることで人生を無駄にしているのだと意識してしまうから、そのことで時折気が狂いそうになる。

 

 

 そもそも有意義で価値ある人生なるものを俺は送り得る可能性を本当に有していたのだろうか。医者にかかる時間がどうのというのは、その疑問を前にしては瑣末事にすぎない。前提として、万人が自分の人生を満足がいく形で完遂できる、あるいはするべきだという命題があってはじめて、時間を無駄にしたとかしないとか言う話になるのであり、その前提が揺らいだり否定されたりしたら、その手の葛藤はそもそも成り立たないだろう。

 余暇が潰れたり、不本意な仕事のために忙殺され時間を無意味に浪費することは、本当に問題だろうか。そもそも自分が天から与えられた寿命を一から十まで完全に有効に活用できて当たり前だと考えることは、自惚れが過ぎるように感じられてならない。そもそも生涯におけるあらゆる全ての瞬間において、完全に我意を通せたとして、本当に満足や納得がいく一生になる保証などどこにもない。

 上手くいった人生や、首尾よく事を運べた自分といったものをどうしても夢想してしまうと同時に、そんな可能性など実ははじめから万に一つも無かったのではない、とも考えてしまう。成功した自分が生きているパラレルワールドを想像することは容易く、俺は悪癖としてそれを日常的にやってしまうが、その妄想が俺を無意味に苦しめたり痛めつけたりしているのではないかとも、ふと思うことがある。

 はじめから起こり得ない、有り得ないものが失われたり損なわれたりすることへ不満や不安を抱くことは、なんと馬鹿げたことだろうか。どう転んでも俺の人生ははじめから大したものにはならず、意義も意味も何も生じ得ないとしたら、無駄にしたり溝に捨てたりした時間など端からなかったのだと言える。掴み損ねた好機などそもそも存在すらしなかったのだと断じてしまえば、却って気が楽になる。

 活用され有意義に過ごされるべきだった時間、そんなものが一体何処にあるというのか。人生とは即ち膨大な時間の寄せ集めであるが、人生それ自体に無条件で無制限に価値があるとするのは、前述の通りとてつもない驕慢や病的な自己愛の発露であると言わざるを得ないだろう。己など、所詮大した存在ではないのだから、どのような時間の過ごし方をしても大差はないのだと構えて万事に臨めば、貴重な週末を医者にかかって費やすくらい別にどうということもないのだ。

 

 そもそも確実に暦通り休むことができるからこそ俺は歯医者に診察の予約を入れることができたのだ。休日が不規則であったり、そもそも世間並みの日数休めなかったとしたら、医者どころではない。俺は一時期においてはそのような境遇にあった。週に6日も明け方から夕方まで働かされ、それでいて賃金は法定賃金を下回る劣悪極まりない職場で使役されていた日々のことを、俺は唐突に思い出した。その時期と比べれば、土曜日の1、2時間を歯医者にくれてやるくらい全く惜しくもない。

 俺の生まれや育ちの悪さについて文章の中で言及するのはこれで一体何度目だろうか。流石に自分でも飽き飽きしているから仔細については割愛するが、俺の人生において、貴重で掛け替えのない機関や瞬間など振り返れば何一つなかったような気がする。そんな俺が人生において割かれるある時間について、無駄にするだのしないだのと気を揉むことの愚かしさと言ったらない。

 丸一日確保されるべき余暇の一部が不本意な使われ方によって欠落することへの懸念など、噴飯モノだ。そもそも俺の生涯など塵芥ほどの値打ちもないのだから、休みの日や仕事終わりの自由な時間がどのように使われようが全く気に留める必要などないと考えるほうが正当であり自然だろう。結局のところ人間は自惚れや自意識過剰によって無駄に悩んだり苦しんだりするのかもしれない。

 どれほどの時間であっても、全く惜しまなくなったなら、人生とはどれだけ気楽だろうかと俺は思う。生の本質は失われも損なわれもしないのだと構えられれば、何の憂いも煩いもなく、余計な気苦労とも無縁になることは請け合いである。その境地こそが俺が目指すべきものであり、断じてたかだが一日の休日の内容について一喜一憂するべきではないと分かる。

 休みの日を惜しむという迷妄から解かれれば、そうでない日や時間といったものに対する固定観念もまた瓦解していく。働いている時間そうでない時間を明確に分け、前者を忌み後者に固執すると言うのは根本的に誤っている。自宅などの特定の場所で過ごす時間をことさら神聖視したり特別視したりすると、逆にそうでない時間は問答無用で価値のない唾棄すべきものとなる。それらの峻別など単にそう見做しているだけで、実際はある時間が尊くそれ以外はそうでないなどとは言えないはずだし、その考えが人生に有益な何かをもたらすとは到底思えない。

 

 

 有意義だとか完全無欠といった概念は、却っていつも俺を苦しめる。ある時間に価値があって、そうでない時間は無駄で価値がないとする思想が人間にもたらすのは、無意味で有害な喪失感といった錯覚だ。それにこだわり続ける必要性など、言うまでもなく全くないのだから、そんなものは捨てて顧みなくなった方が、俺の人生においてはずっといいと思う。

 自分自身にまつわる全てを無意味や無価値とする前提に基づいた人生観を持つべきだ。それは言うなれば正しい絶望、正しい虚無感とでも表現すべきものであろう。有意義な生涯や素晴らしく望むべき生き方といったものへの志向やそれを前提とした姿勢が辛苦の根源だということは分かりきっているのだから、それを否定し覆し、それとは対極の前提を設定して生きるべきなのだ。

 有意義な生涯を送れる人間ももしかしたらいるかもしれないが、少なくとも俺はそうではない。それは人生における何処かで犯した何らかの蹉跌によるものではなく、先天的に定められている運命のようなものだ。何度も述べたように、俺の生において正しい、首尾よくやり仰せられた可能性といったものなど端からなく、結局どう転んでもはじめから上手く行かないようになっていたのは自明だ。

 それならば、一体何を憂い惜しむべきだろうか。それらを抱く理由や正当性などといったものなど、実のところ一つもありはしないのだ。休みの日に医者にかかるくらい、別にどうということはないと考えて然るべきだ。思い煩うなと、ただそれだけのことを俺は自分自身に強く強く言い聞かせたい。俺などはどうせ、大した存在ではなく碌な人生では元々ないのだから。

 自惚れというものは畢竟、己への謬見であり修正されるべきものだ。それにより人は無用な気苦労を被り、人生を単なる苦役や受難として認識するようになる。それを好き好んで甘受するというのなら話は別だが、俺はもう御免被りたいしその考えに拘泥する理由など最早一つもない。その幻想は甘く、しかし有毒な代物でありそれを俺はすでに欲する段階ではない。

 余暇を惜しんだり特定の時間を過度に尊び後生大事にするようなことが今後二度とないように、ゆめゆめ自らに言い聞かせ忘れないように心がけて生きたものだ。