他力斎

雑記、雑感その他もろもろ

磯野カツオ

 子供の頃から『サザエさん』が嫌いだった。あのアニメ番組に出てくるあらゆる登場人物と全てのシチュエーションが欺瞞に満ち満ちているようにしか俺には思えない。また、あれの根底にあるのは家という共同体への歪んだ幻想であり、嫌な感じがするのだ。あまつさえ、あんなものが国民的などという美名を冠した長寿番組として毎週日曜日に全国放送されているという事実には、吐き気を催すほどの違和感と嫌悪感を覚える。

 「サザエさん一家」が日本において長い間、理想的な家族の形であるかのように見なされている風潮には、幼少の頃から今日に至るまでの間、俺を大いに困惑させている。あんな家族の、一体どこが良いというのか。あの一家は磯野家とフグ田家という2つの家の連合体であるが、この両家が一つ屋根の下で暮らさなければならない理由などどこにもない。ただ何となくこの2つの家族は共同生活を営んでいるわけなのだが、そんな状況を好ましいと感じる人間は、相当特殊な感性の持ち主ではないだろうか。

 もし、やむを得ずあのような形態を成している家庭が仮に現実に存在したとしたら、それはどちらかと言えば不幸な部類であるはずだ。あの家にはプライバシーもクソもなく、さらに言えばフグ田家は飽くまで磯野家とは別枠の存在であり、完全に混じり合っているわけではない。その一事が例の一家においては、相当な気まずさを生んでいるであろうことは、容易に察しがつく。

 周知の通り、サザエさん一家はフグ田家が磯野家に間借りしているような形となっている。フグ田家は言わば磯野家に寄生している存在であり、それをやむ無しとする正当かつ特別な事情が、本来ならば必要なはずだ。家庭というプライベートな空間に、「別の家の者」が常住している環境というのは、想像するだけでストレスフルであるが、一体なぜ磯野家の面々はそれを許容しているのだろうか。俺にはそのことが、本当に理解に苦しむのだ。

 フグ田家の家長であるマスオは自活できないほど経済力がない男ではなく、長男のタラオは障害などがあって誰かが常に面倒を見なければならないというわけでもない。フグ田家はその気になりさえすれば、どこかのマンションの一室を借りて自力で生活することは十分可能なはずだ。それをしないのは単なる怠慢以外の何物でもなく、そんな甘えを磯野家が許している状況が異常と呼ばずしてなんとする。少なくともそれは、とても褒められたようなものではない。

 

 

 磯野家の側からサザエさん一家を見た場合どうか。磯野家の家長は波平であり、彼から見ればフグ田家の長男のタラオは孫に当たる。波平にしろその妻のフネにしろ、孫と同居できるというのはそれだけでも好ましいことなのかもしれない。俺は孫どころか子供すらいないから全く理解できないが、いわゆるジジババにとって孫と一緒に暮らせるのは一般的には喜ばしいことであるとされている。その観点で見れば、少なくとも波平とフネにとってはフグ田家は居ても良い存在であると言っていいのかもしれない。孫と祖父母という間柄だけで見れば、サザエさん一家はというものは、それほど悪しざまに言うべきほどの家庭ではないのだ。

 しかし、家庭というかあらゆる集団というものは、誰の目線で見るかによりその様相はまるで違ったものになる。前述の関係性などは多面的で複数ある一つの側面にすぎないのだ。俺が問題にしたいのは、磯野カツオというキャラクターから見た場合、サザエさん一家という共同体がどのような代物であるかについてなのだ。この小学5年生の男子の視点から例の一家を捉えたなら、一体何が見えるだろうか。

 カツオは磯野家の長男である。彼からしてみれば、フグ田タラオという子供は一体どのような存在として認識されているのだろうか。単純な続柄で言えばタラオはカツオの甥ということでしかない。しかし、甥っ子がいつ何時も家の中に我が物顔で居座っている状況というのは、もし俺がカツオの立場ならとても耐えられない。甥という存在を「身内」の一員として見做せるとしたら、カツオという少年は相当デキた人間だ。重ねて言うが、俺には耐えられない。

 カツオが単にバカで何も考えていない子供なら話は別だ。姉夫婦が自分の家に住み着いていつまでも出ていかないという状況に疑問や不満を抱くには多少の知性が必要となる。それを有してないならこの形態の家族でも問題はない。しかしカツオはそうではない。カツオは並の小学5年生よりも賢い部類であり、自分を取り巻く環境に違和感を抱かないはずがない。

 ちなみに、磯野家の長女ワカメは特に何かを考えたり察したりする能力が並以上というわけでもない。これがお前の家族だよと言われれば、そのままああそうかと思うタイプだろうし、家庭内の人間関係で特に不利益を被る場面などはないだろう。だが、フグ田家の面々については、俺としては色々と言いたいことがありすぎる問題の根源とも言うべき存在だ。臆面もなく磯野家に寄生するフグ田家は、波平の甥であるノリスケとその一家とは異なり、マンションなどに入居していないから生活費という面でいれば相当な恩恵に浴している。実に狡猾な連中だ。

 

 サザエはフグ田姓を名乗っているから磯野家ではなくフグ田家に帰属する人間だ。その夫であるフグ田マスオもサザエに追従する付和雷同の存在だ。先に述べた通り、フグ田家は自活する能力があり、誰かの手を借りなければならない事情がない。にも関わらずこの一家が磯野家の家屋に住み着くのはやはり金銭的な利点が最大の動機だろう。

 フグ田タラオは磯野家の家屋を疑問を抱くこともなく「自分の家」と認識しており、それを嫌がっている素振りはまったくない。また、カツオの対しても「カツオ兄ちゃん」と呼んでいることからも、サザエさん一家の形態に疑問を抱くほどの知能を有していない。なによりタラオは3才児であり、自分の身の回りについて深く考えたりそれを変えるべく何かをするといった選択をする事もできない、無力なだけの存在でしかない。しかし俺は、タラオが単に純真無垢な存在だとは見なさない。このことについては後述する。

 フグ田家というかサザエとマスオは単に楽をしたいだけだ。磯野家で暮らす限り賃貸物件の家賃などは一切払わなくてよく、食費なども相当浮いていることだろう。アニメの中で金の問題はあまりというか殆ど触れられないことに大きな欺瞞を俺は感じざるを得ない。フグ田マスオが毎月の稼ぎを全額磯野家に入れているなら、俺の指摘は見当外れだが、それを匂わせる気配がアニメを見る限りないから、フグ田家はフグ田家の貯金があると考えるのが自然だ。フグ田家は実のところ、相当溜め込んでいるのではないだろうか。

 では溜め込んだ金の使いみちはと言えば、普通に考えればタラオへの教育的な投資となろう。マスオもサザエも浪費癖がある人物ではないから、この夫婦がしこたま貯蓄した金は結局、タラオが受ける教育に注がれることになるだろう。カツオが通っている小学校はかもめ第三小学校という公立校であるが、タラオが就学児童となったあかつきに、その学校に入学するとは思えない。タラオはおそらく私立だろう。

 具体的にタラオがどの学校に行くにしても、それを目の当たりにしながらカツオは一体何を思うだろうか。サザエさん一家の中で最終的に一番恩恵を受けるのはジジババのフネや波平でも自立心のないフグ田夫妻でもなく、フグ田タラオという子供なのだ。タラオは金をかけて良い教育を受け、それを礎にした人生を歩むことだろう。しかし、カツオにはその恩恵のひとかけらもない。

 

 

 姉夫婦と甥っ子と同居するというストレスを甘受して少年期を送らなければならないカツオに、一体何の見返りがあろうか。おそらくないのだ、ただの一つも! 磯野夫妻は孫と暮らせるからいいだろう。フグ田夫妻には金銭的な利得が十二分にあるだろう。ワカメは多分何も考えていないし、タラオが浴する恩恵については前述の通り。ではカツオは? あの一家の中で生きている磯野カツオという個人には、一体どんな実益が与えられるというのだろうか? 俺はあの番組を作っている者たちに問いただしたい。

 まさか賑やかで明るい家庭の思い出、などと言うつもりか? 冗談も大概にしてもらいたい。普通の小5ならプライバシーも必要だろうし、ウザい甥も義理の兄も普通の感覚なら別の家に属する単なる他人だから距離を置きたいだろう。そんな者どもと一緒に暮らすストレスばかり被り、その上一つも報われないのでは話にもならない。カツオはあの家庭で生活し成長しておとなになっていくとして、タラオや姉夫婦がいて良かった、と振り返る日がいつか来るというのだろうか。そんなこと、あるはずがないのだ。カツオが通常の感覚や感性の持ち主なら。

 カツオは長男であるという点でも、妹のワカメとは置かれている立場が異なっている。サザエさんにおいて、父親の波平を始め、家中の者たちがカツオに厳しく接しているシーンを我々は鮮明に思い浮かべるだろうが、その理由はカツオが長男という立場にあるからに他ならない。カツオが末っ子であったり女だったりしたら、あそこまで理不尽な目には遭わないだろう。

 カツオがスケープゴートの役割を担わされているがために、あの例の一家における他の子供たちは相当難を逃れている面もある。ワカメは実妹だから置いておくとしても、タラオまでその面においても恩恵に浴するとしたら、虫が良すぎるように思える。本来ならばタラオも長男だが、磯野家に属する子どもたちと同居しているせいで、何となく末っ子のような扱いを受けている。だからタラオというキャラクターは俺からしてみれば不当に有利でずるい立場を占めているように思えてならない。

 タイトルがサザエさんではなく「カツオくん」であったなら、例の一家は様々な問題や矛盾、不公平や理不尽を内包した共同体として描写されるだろう。あれが理想的な家族像として描かれ続けているのは、フグ田夫妻や磯野夫妻などの大人の都合や感覚を前提にしているからであり、そうでない者の目線を借りれば全く違うストーリーになるのだ。そしてその方が例の一家を描写するなら自然であるように俺には感じられる。どの道サザエさん一家が家族の形としては嫌なものであることには変わりはないが。