他力斎

雑記、雑感その他もろもろ

頑張る

 生まれて初めて国会図書館を利用した。俺が住んでいる家から自転車で片道10分もない場所であるにもかかわらず、これまで終ぞ行くことはなかったし、そうしようという願望すらなかった。絶版になっていて自治体の図書館にはなく、どうしても読みたい本が国会図書館にはあるという情報をネットで得たため、遂にそこへ足を運ばなければならなくなった次第である。

 結論を言うと、目当ての本を読むことはできなかった。あるにはあったが、閲覧はまだ不可能だと職員は俺に告げた。だから俺はそれ以外の本を閉館時間まで読むことにした。それができるようになる前に利用者登録をする必要があり、それにも20分ほど要したかもしれない。本命でない本を館内の何処かから取り寄せて読めるようになるまでには30分ほど追加でかかった。

 ともあれ、利用者カードの登録は済み、閲覧の申請は家からでもできるから、次回以降の利用は今日のそれとは比較にならないほどスムーズに行えるはずだ。家の近所に国会図書館があるということなど百も承知であったが、これほど素晴らしい施設に興味を示さずに何年も過ごしていた自分がつくづく愚かしく思える。本命の本は読めなかったが、それでも俺にとって今日という日は、十分満足できる週末だった。

 閉館とともに本を返却して家路につく。246から内堀通りを経て麹町大通りに入る。しばらく直進して警察署を通り過ぎれば、やまやという酒屋があり俺はそれに目が止まる。そこはかつて俺が行きつけにしていた店だった。そこでビールやつまみを買ってきて、家で晩酌をするのをかつては毎週末の楽しみとしていた。そんな日々のことをふと思い出してしまった。

 その途端、俺は強烈に酒を飲みたい衝動に駆られた。現在は酒とは縁を切った生活をしているし、普段なら飲酒への欲求が惹起することもないのだが、帰りがけにやまやがあるとどうしてもその衝動を意識せずにはいられない。他のスーパーや別の店舗のやまやを前にしても平常心を保てるのだが、やまや麹町店に限っては別なのだ。加えて今日は国会図書館で利用者登録を完了させ、週末の時間を費やして読書に勤しんだのだから、頑張った自分へのご褒美とばかりに、酒を解禁したいという気持ちになった。

 

 

 結局それは未遂に終わった。これからは毎週末国会図書館に通うつもりでいるが、その度に例の店で散財する訳にはいかないという考えが俺の内面において勝ったのだ。また、アルコール依存症からせっかく脱したのだから、再び元の状態に戻ることもまた、潔しとはしなかった。やまやで買うエビスビールや燻製にした軟骨付きの豚バラ肉の味を俺は覚えており、その記憶は俺を大いに誘惑したが、俺はそれに屈することはなかった。

 しかし、かなり危うかったのは事実だ。国会図書館で利用者登録をする手間暇や長時間図書館で本を読み続ける行為は俺にとってそれなりの労力を必要とする。それを成し遂げた帰り道なのだから、別に少しくらい贅沢をしても許されるのではないか、という考えが帰宅するまで拭い去ることができなかった。というよりも、これを書いている現在も酒屋に行きたい気持ちを滅却できずにいるのが正直な所だ。

 「頑張った自分へのご褒美」という常套句は世間一般で流布されているし、そのフレーズをそのまま使わなかったとしても、そういう考えは人としては一般的だ。頑張ったからその分贅沢を許すといった思想は別に特有のグループだけのものではなく、誰にでもある思いだと言える。それが何で、どのような状況や行為の果てのものかといった細かい点においては人によって千差万別だろうが、そういう理屈と感情はどんな人間も共通して持っている。

 ところで、頑張ったというのはどういうことなのだろう。やりたくない辛くて苦しいことを嫌々やったということを意味している言葉なのだろうか。そのように定義するとしたら「頑張った自分へのご褒美」というフレーズはしたくもない嫌なことに取り組み、それが終わったから憂さ晴らしをしよう、あるいはしても良いという意味を持った言葉だということになる。

  本当はそれが嫌でやりたくないという前提があるということだ。それ自体は問題ではないのだろうか。その根底にある思いをどうにかしなければならないように感じる。いや、どうにもならないとしても、なぜそれが嫌なのかと自らに問うことは避けるべきではないだろう。嫌だと思ったり感じたりすることを強引に矯正するかどうかは取り敢えず置いておくとしても、嫌がっている自分の本音を無視すべきではない。

 

 頑張ったとは言っても、所詮国会図書館へ行き本を読んで帰宅しただけだ。高々そんな程度のことが、一体何だというのか。それを指して頑張ったと感じるのは、どういうことなのだろうか。俺にとってそれはそれほど困難を極めるオオゴトだというのだろうか。仮にそうだとしたら、俺の肉体や精神はかなり救いようがないと言う他はないだろう。マトモに生活できるかどうかも怪しい。

 だが、実際はそれはオオゴトではない。家から10分もかけずに行くことができ、必要経費も0円である。それがなぜ俺にとっては頑張らなければならないことなのか。それを負担に思う俺は一体何に対してそのように感じているのか。俺は五体満足であり、休日も人並みの日数ある。と言うより、自治体の図書館には毎週通っており、それは頑張ったとは認識していない。ここが実に重要である。

 俺にとって国会図書館に行くのは今日が初めてのことであり、それを実行に移すことに俺は精神的な負担や重荷を感じていたのだろう。だからそれを終えた時に俺は「頑張った自分へのご褒美」なるものを欲したのだ。俺にとってオオゴトと感じたのは正に初動に対してであり、具体的に図書館に赴くとか、本を読むとか、さらに言えば自転車を漕ぐなどのひとつひとつの事柄に対してではない。

 つまり俺は、普段やっていないことを億劫に感じそれを嫌だと思い、頑張る必要があると見做しているのだ。それは可能なら避けたいことで、事実俺はこれまで国会図書館を利用することを意識的にせよ無意識的にせよ、忌避してきたのだ。それにより俺は無数の情報に触れる機会をかなり逸してきたのは言うまでもなく、その気質や傾向は俺自身に相当な害悪をもたらしていると断ずるべきだろう。

 初動を厭う気持ちは、どうにかしたいと思う。それが障壁になり、俺の人生をかなり制限しているのは明白だ。しかし、そんなことはずっと昔から、ともすれば子供の頃からずっと分かっていたはずのことだ。それをなぜ改められないのだろうか。物臭さえなかったなら、俺はもっとずっとマシな人生を送れていたかもしれない。そんな不毛な「もしも」を考えると、虚しさで気が狂いそうになる。

 

 

 新しいことを始めることにハードルを感じるのは、現状維持への強い欲求があるからなのだろうか。その願望が何故生じるのか自分でもよく分からず、俺は困惑しながらもそれを打破することが出来ずに人生を無意味に浪費してきた。自分がどうするべきで、またどうすべきでないかなど物心ついたときから明らかで、誰よりもそれに気づいているのに、それが何故か出来ないで、この歳まで生きてきてしまった。

 おそらく来週の土曜日も国会図書館に行くだろうが、その時の家路で、「頑張った自分へのご褒美」への誘惑は、多分生じないと思う。なぜならそれは今日に比べれば習慣化されており、初動に比べれば要する頑張りは少ないか、あるいは端から必要ないからだ。習慣と化したことは面倒でも何食わぬ顔で出来るのに、最初の一回には頑張らなければならないこの性分に、俺は自己嫌悪せざるを得ない。

 頑張る時点でやりたくないという意志の表明に他ならず、実のところそれはかなり深刻なのだ。利得や実益がある行動を行うのに、何故「頑張る」などという言葉を用いるのだろうか。もしかしたら俺は、恐れているのだろうか。最初の一回目を取り敢えずやること、パターン化された日常から一歩踏み出して未踏の領域に達する時、どんなことが起こるか分からないから、本能的に恐怖を感じているのだろうか。

 酒屋に行くか図書館に行くかで、週末の過ごし方が全く異なるものになるのは言うまでもない。俺が物心ついたときから後者を選んでいたなら、どんな人生になっていただろうか。酒屋に通う日常からわずかに違う目的地に向かうだけで、生活は一変するが、それの一体何が恐ろしく、忌み厭う必要があるのだろう? 改めて内省すると、途端に俺は自身の心が分からなくなる。

 自分の本音や本心というものを、俺は実際全く掴みきれていないのではないか? 自分の本願が実のところ何なのか、一切分かっていないのが現状なのではないか? そのように考えると、自分自身についてすらよく知らないのに、よくも今まで生きてこられたものだと我ながら感心してしまう。その生が怠慢や惰性の産物としての惨めな代物であったとしても。