壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

投票所にて

 俺が現在住んでいる地域では、選挙があると投票所は近所にある小学校に設けられる。俺は言うまでもなく子供ではないため、俺という人間が合法的に小学校の敷地に足を踏み入れることが出来るのはなんらかの選挙における投票日だけだ。実のところ俺にとって選挙結果などはどうでもよく、小学校という空間にほんの僅かな時間であっても身を置くことが出来るイベントとして投票という行為にある程度の希少価値を見出していたりもする。

 今日投票所となった小学校は俺が子供の頃に通わされていたそれとは全くの別物だ。俺が今日赴いた方の学校は公立における名門小学校として戦前から有名らしく、著名人や官僚や政治家などを多く輩出しているのだという。校舎や校庭だけを概観すれば都会にも田舎にもある普通の公立校にしか見えないのだが、学区で擁している児童の質が他の地域とは異なるといったところだろうか。

 俺の母校は弘前市の外れにあるかなり古い校舎の小学校だった。俺が卒業してから移転と建て直しが行われ、多少見栄えは良くなったが、それでも僻地にある公立小学校という点では俺が通っていた当時でも現在においても変化はないと見るべきだろう。俺は選挙がある度に投票所が設置された現住所の近所にある学校と、かつて自身が通っていたそれと比較してしまい劣等感に苛まれる。俺にとって選挙は極めて主観的なこの感情を惹起させられるイベントとして認識されている。

 例の学校に通っている児童どもは俺とはまるで違う人生を歩むのだろうと考えると、臆面もなく嫉妬の念が湧いてくる。俺は異土で暮らしている小学生を妬むような男なのだ。辺境の鄙びた田舎で片道数十分もかけて教師のレベルも低い学校に強制的に通わなければならないなど、俺が今住んでいるこの街のガキどもにはおおよそ想像も届かないことだろう。

 俺が生活している地域には公立だけでも3校も小学校がある。それは九段小、番町小、麹町小であり、それぞれ半径数百メートル以内に所在している。俺としては、それぞれの学区に分かれて別々の学校に児童どもが通わなければならない理由など全く無いように思えてならない。この少子化の時代に、極めて狭い地域内に複数も公立小学校があるという状況と、俺が子供の頃に置かれていた環境の違いというか格差というものは、改めて考えれば不平等この上ない。

 

 

 投票所で俺は列に加わり、自分が票を投ずる順番が来るのを待つ。俺の前に居たのは子供連れの夫婦や男たちであった。単身で投票所に赴いた人間はその場においては俺しかおらず、かなり浮いていたかもしれない。俺の眼前にいる有権者が手を引いている子供も遠からず今投票所となっている学校に通うのだろう。その子供たちを見やりながら俺は様々なことをとりとめもなく考える。

 俺は目下独身であり、おそらくこれから先もそうだろう。子供はおろか結婚をする可能性も皆無に近いと言っても過言ではないかもしれない。俺はカップルよりも子供連れを見て焦りや後悔を感じるような年齢に差し掛かったしまったのだ。そのことを思い知ると、なんだか愕然としてしまう。まっとうな人間は、この投票所にいる者のように家庭を持ち家族を連れながら投票をするのに、それに引き換え自分は、という感じになってしまうのだった。

 俺は投票を終え帰路につきながら考えを巡らせる、子供が持てないこと、家庭を築けないこと、結婚はおろか恋愛に及ぶ兆しすら全く無いということ。投票などよりも、それらの事柄の方が実際俺にとっては遥かに深刻であることのように思えてならなかった。 都議選など一体何だというのだろうか。所詮俺にとって東京など異郷の地に過ぎず、事の次第によっては、いつ街を追われるとも知れない身の上だ。

 俺は東京においては完全に部外者でしかない。住民票を都内に置き、労働し納税をし、今日のように選挙があればきちんと投票もするが、それらを行ったところで街の一員としての条件を満たしているとは言えない。地域社会の中でその存在を認められるには、もっと高いハードルを超える必要がある。要するにそれは、他の有権者がやっているように家庭を築き子供持つことだ。

 だがそれは、経済的にも精神的にも、また身体的にも俺には不可能だ。何をどうしても俺には家族など持つことは出来ないし、子供を授かることも無理だ。それがどれほど大きく、重い意味を持つかということを20代の前半においては考えることができなかった、いや考えないように無意識的に努めていたと言った方がより正確な表現なのかもしれない。

 

 家庭を持つことが出来ない男であるということは、ともすれば犯罪行為よりも反社会的なことなのかもしれない。どのような言葉で糊塗したとしても、それが生物として間違っているという点は、どうやっても覆らない。趣味に生きればいいとか社会に貢献できればいいなどといっても、それらは全て欺瞞の域を出ない。自分の子孫を残せないというのは、死ぬよりも絶望的ではないだろうか。

 俺もまた多くの人々が連なる血統や家系の突端に位置する存在である。両親や祖父母が居り、それよりも古い先祖をその気になりさえすれば延々と遡っていくことが出来るだろう。我が一族の血の系譜は営々後世に受け継がれてきたのに、それが俺の代で途絶えようとしているのだ。そのことを意識すると罪深さを抱かずにはいられない。どのような理屈を用いてもそれを正当化することができないでいる。

 俺の家族に生物として有能な個体がいればまだ話は違ったかもしれないが、俺は長男であり下には妹が一人いるだけだ。そしてその妹は俺以上に色々な点で足りず、結婚は絶望的だから婿養子を家に迎えるというのも無理筋だ。俺の一家は俺が末裔となってしまうだろうし、それについて何も思わないでいる訳にはいかない。

 番町や松濤、大和郷や神宮前などの住宅街で子供の手を引きながら歩いている夫婦などを見る度に、俺は自分で自分が情けなくなる。男として、生物として、俺はそれらと比べて劣等であるということをどのようにして否定できるというのか。そういったエリアでファミリーで暮らせる人間が余りにも優秀すぎて比較の対象としては相応しくないというのは確かにあるだろうが、仮に一等地でない場所で所帯を持っている人間と自らを比べても惨めなのは変わりないだろう。

 世間や他人など自分には関係ないなど、欺瞞や痩せ我慢にすぎない。社会から逸脱した価値観や思想など、結局のところ何の役にも立たない。人間というより一個の個体として当たり前のようにツガイになり子供を作り、子孫を作って死んでいくという事ができないことを、どんな詭弁で誤魔化しうるというのか。俺は自分が行き詰まっていて、取り返しがつかないのだという現実を目のあたりにする度に居たたまれなくなる。そんな気持ちは大抵、今日の投票日のような家族連れと遭遇するシチュエーションで思い起こされる。

 

 

 普通でないというのは、とどのつまりおかしいのだ。それを有耶無耶にすることはどのような方便でも不可能だということは、認めざるをえないだろう。子供を作る解消がない男は欠陥品であるともし誰かに面と向かって言われ、己がほかならぬそれであるとき、俺は一体どうすればいいのだろうか。そこまで不躾な物言いを実社会でしてくる者はあまり居ないが、それは単に明言されていないだけだろう。

 投票所の係員や他の有権者が俺の姿を視認した時、俺という個体をどのように捉え、どういう風に思っただろうかと俺は邪推する。白昼の町中で一人きりで歩いたり何かをしていたりする独身男というのは俺が思っているよりも遥かに異質で不審なのかもしれない。それは単に俺の下衆の勘繰りでしかないかもしれないが、実際にそう思われていないという保証もまたない。

 いや、他人の目から見て自分がどうかと言うよりもむしろ、それを気にかけずには居られない自身の精神を問題にするべきなのかもしれない。俺の人生において、趣味に生きれば生涯独身でも構わないなどと自らを慰撫できた時期などとうの昔に過ぎ去った。家庭を築く力がない男であるということや、そもそも生殖能力の面でも子孫を作ることができない事実が、今更になって俺の双肩に重くのしかかる。

 何が選挙だ、と思わず叫びたくなる。そもそも俺に公のことについて考える資格があるのだろうか。地元で暮らせずに家を捨てて都会に逃げてきた男が、結局東京でも首尾よく人生を送ることが出来ず、家庭を築いた他の男に内心で嫉妬の炎を燃やしているのは、もしこれが他人事ならどれだけ滑稽だろう。雑居ビルに住んでいる独身で貧乏な津軽人など。

 無意味な思索にふけりながらようやく自宅に辿り着いた時には、俺はすっかり憔悴しきってしまっていた。一票を投ずることは、俺にとってはこれほどまでに精神を消耗する大仕事となるのであった。自宅の扉を開けほうほうの体で家の中のベッドに身を投げた俺は、天井を見上げながら物憂げな気分のまま睡魔に襲われて惰眠を貪るに至った。厳然たる、逃れようのない自身の人生から目を背けるように。

 そして目が覚めると、帰宅してから数時間が経過していた。開票はとうに終了し、今やネットで検索すれば結果がすぐに分かる状況になっているはずだ。しかし俺にとってそんなことは、はじめからどうでもいいことだったように思えてならない。先にも触れたが、俺には公のことを論じたり考えたりする資格など端からないのだから、自分が投票した候補者がどうなろうが知ったことではないのだ。