他力斎

雑記、雑感その他もろもろ

しがらみ

 生まれてからずっと不自由さや不満の念を抱いてきた。家族も故郷も、自分の身の回りの全てが嫌だったし、その場その時から遠く離れた何かを求め続けていた。自分自身の身体的な特徴も精神的な傾向も忌まわしく思え、金や時間により色々と思い通りにならない事を逐一嘆いてきた。だが、具体的にあれがいやこれが嫌というよりも、「なんかやだ」といった念が俺の生涯を通して常に拭い去れずに存在していた。

 具象的な不足や欠乏や、因果関係から照らし合わせて明確な理不尽や不都合よりも、この「なんかやだ」という気持ちが俺にとって最も重大、と言うよりそれが唯一の問題のように最近は感じている。即物的になにかが足りないだとか、いけ好かない誰かがいるというのはそれはそれでたしかに気がかりではあるが、それさえ無くなれば万事解決とはならないことは、自分が一番良く分かっている。

 ある原因があってその結果として「なんかやだ」が生じているとしても、その原因などは最早瑣末事というより本質的なものではない。その気持ちを抱いている自分自身の精神それ自体が根本かつ究極的な問題だと見なすべきだろう。思い通りにならないことが問題なのではなく、それを問題にすることが問題だというトートロジーめいた話になる。

 引き寄せの法則という言説がスピリチュアル界隈で盛んに言われているが、俺は何らかの願望を持ちそれが成就して当然という姿勢事態に違和感を覚える。願う自分というのは絶対不可侵な存在であり、それが抱く思いは絶対的に尊重されなければならないという前提がそれこそ「なんかやだ」なのだ。自分自身の内面における思いや感情、望みなどとと言った者の全てが、今の俺にはしがらみにしか思えない。

 何思わず何も望まなければ、生において一体どんな問題が起こるというのだろうか。何かを求めるという精神の動きそのものが俺にはもはや窮屈に思えてならない。やりたいことが出来ず、欲しいものが手に入らず、嫌いな人間との縁を切ることが出来ない。それらよりも、何かを想定して「ねばならぬ」と感じる心それ自体がなにより嫌だ。自分自身の内面それ自体が障壁や桎梏であり、それから如何にして解かれるかというのが、俺の生における最大の関心事なのだ。

 

 

 死ねばもう何も求めないから、俺は自殺すれば良いのだろうか。俺は全くそう思わない。自殺という行為は我が強い人間が行うものであり、自身の心の動きを煩わしく思っている人間が為すべきことの対極に位置している。子供の頃はよく死にたいと思っていたが、現在はそのようなことは微塵も考えていない。若い頃と比べれば、むしろ当時よりも今のほうが様々な面や意味合いで絶望的な状況に置かれているが、それでも俺は首を括るつもりなど毛頭ない。

 むしろしなければならないことや向かうべきどこかといったものなどそもそもない。それはこの世でもあの世でも同じことだ。俺は自らのいかなる願望も大事だとは思わない。食べたいものも行きたい場所も、目指すべき将来像なども最早俺にとってはどうでもいい。なるべき姿やありたい状態といったものが、例えどのようなものであれ俺の精神を束縛し、それが自由を奪う。

 具体的にそれがどのような欲望であるかではなく、それを抱いている自己への執着を捨て、それに重きを置かないようにしたいと俺は思っている。それこそが俺が志向すべき自由であり、それは自分自身から己を解放することに他ならない。自殺とは即ち、物理や身体を超越して自分を自分たらしめる儀式であり、前述したように我が強い人間がやる行為であり、俺は当然それには及ばない。

 幼いうちから色々なことを願ってきた。将来の夢などいくつもあったが、結局どれも叶わなかった。その成就しなかった望みの一つ一つに思いを馳せ、俺は絶望しなければならないのだろうか。そうすべき、あるいはそうしなければならない理由など、本当にあるのだろうか。実際そんなことはどうでもいいし、かつて抱いた願望の如何など笑い草にもならないのが正直なところである。

 目下の俺も様々な不平不満や不遇をかこち、様々な欲にまみれて日々を生きている。しかし、それらが思うままになることはないし、そのことについてあれこれ悩んだり思い煩ったりすることは時間の無駄だと俺は知っている。では、欲し求める自身の内面と言うものをどのように取り扱うべきか、という話になる。叶わない欲を抱え込む自分の心をどう遇するか。

 

 結局、自分の気持ちそれ自体もまたどうでもいいと断ずるべきだ。どんな思いを抱き、どんな情動に駆られようとも、それらをオオゴトと捉えるべきではなく、更に言えば後生大事にするべきでもないと言える。自分の心、精神といった代物を重宝するから人生は重苦しく不自由極まりない旅路となるのではないだろうか。己の内面を如何に蔑ろに出来るかが肝心なのだ。

 苦しみや悲しみ、憎しみなどの感情についても同じだ。それらと自身を完全に同化し、それらを被っている自分の精神状態を重大な問題だと認識することこそが俺を不自由にしている。心の有り様がどのようなものであれ、それについてシリアスに臨むことは正しくないのではないか俺は最近になって思い始めている。

 思い通りにならないという事も含めて、自分自身が被ったり抱いたりするあらゆる情動や思念というものについて、深刻にならないなら、そこにこそ真の平安や安逸があるように思えてならない。好ましい感情や思考を持つことが大事なのではなく、どのような思いや考えにも囚われずにただ観察する態度が俺に求めてられているようなきがする。

 何を望みどこを目指しても、それは結局しがらみになり俺の心身を縛り付ける。どのようなものに対ししてであれ、俺はそれを望んではいないのだと、それだけは確信を持って言える。己が己であることから解放されることだけが、今生における俺の望みであり、それ以外のあらゆる願いや欲などそれを前にすれば霞んでしまう。そしてそれだけでなく、最終的には自分が自分であることから完全に解かれることが最終的な目標であると言い切って良いかもしれない。

 自分が自分でなくなった状態、自身の肉体や精神の状態に全く意に介さなくなった状態。それはある境地に達するなどといった言葉や概念の一切が該当しない「なにか」であり、どのような手段によっても表すことも捉えることも出来ないことなのかもしれない。不可知不可捉、そこには感じたり考えたりする主体としての自我が全く存在せず、ただ何もかもがあるがままに在るだけで、行為者も被る者も誰もいない「ただ在りて在る」だけの状態。状態という言葉すらも該当しない?

 

 

 守るものも目指すところも何もない。好ましいものも忌むべきものも、善も悪も過剰も不足も全てが存せず、判断も峻別も分析も分別もなにもない。完全なる無為自然。それは感情も理性も、人知が及ぶ範囲の一切合財が届かない。結局のところ、なんだか良く分からない何か。

 自身を縛るしがらみの全てから解かれるだけでは足りず、足りないと思っている主体としての己からも解かれ、完全に無となる。そして、その無と言い表せる状態や状況からも逸脱、超越し……。最終的に何がどうなるというのか。今現在の俺には皆目見当もつかないが、要するにあらゆる想像や欲望、大願や執着などとはまるで無関係な何かを俺は求めている。

 望むことを望まず、欲することを欲さず、求めることを求めない。そして、望まないことを望み、欲さないことを欲し、求めないことを求める。言葉も論理も感情も生理も、全てから距離を置き、距離置いている状態からも離れ、超然たる境地にいたり、遂にはその境地すらも唾棄しそして、どうなるというのか。

 思考や感情、あるいは霊性といったものの全部の岬の突端の、更にはそれの向こう側。果ては向こうというもののそのまた向こう……。得体の知れないその妙境へと、至ろうとする願望もまた下心であるからそれを放擲する。その結果にある「なにか」、「どこか」など、今の俺には、というよりも生きている限りそれが腑に落ちる日は永遠に来ないかもしれない。しかし、俺はそれに憧れずにはいられない。

 それは単に何もしないことで容易に達成できることでもない。何もしないとしても、その状況にも安住することなく何かを為し、それに及んだ瞬間からその為した何かにも拘泥することなく。単に為し、単に立ち止まり、単に感じ、単に思う。それらに及んでいる最中において、どこにもどんな形でも俺という主体はなく、ただそれらが単に在るだけだ。