書き捨て山

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責任能力0

 自分の人生に責任を負わなければならないとずっと思い込んできた。己の生涯が好ましくなかったのは、自身の心がけや選択、公道に問題があり、それによる自業自得によって俺は苦しんでいるのだとばかり考えていた。自分の中でそう思っているだけでなく、色々な他者にもそのような指摘や詰問や口撃等といったものをよくされたものだ。

 また、自己責任という言葉はこの国の社会において完全に市民権を得ていると言っていい。納得がいく人生を送れず、人並みの水準の暮らしぶりが出来ないのは、個人に全ての問題があるのだというのは我が国においてごく一般的な考え方だ。不満や文句を表明したとしても、我々は単に他人共に嘲られながら「お前のせいだ」と言われるのがオチだ。

 加えて、努力は万能であり、万人が有する資質であるという見方も人口に膾炙した思想である。頑張りや我慢によって、全ての人間が望ましい人生を送ることが可能であるという前提が我々の社会にはあり、それが叶わない場合その責任や原因の全ては当人の生活態度や能力や性向などに帰せられる。社会や世間、ひいては他者といった類いの全ては無謬にして完全無欠であり、都合がわるいことが身に降りかかるならば、全て自己の内側に悪い何かが存する、ということになっている。

 こんな考え方が蔓延している国が良いとか素晴らしいなんてなぜ言えるだろうか。少なくとも俺にとってはそんなものはいいとはとても思えない。はっきり言うと俺は社会を憎んでいるし、この世の全てに感謝やそれに近い感情など絶対に抱くことはないと天に誓って宣言できる。やれお前が悪いだの、自己責任だの自業自得だのと言われたところで、そんな言説は俺には全く効力を発揮しない。

 俺は自身が負える責任が一切ないと確信している。と言うのも、俺はあらゆる意味において完全に無能だからだ。責任とは能力や裁量がある人間が背負うものであり、自分に責任があると考えるのはある種の自負であり驕慢だと言っていい。俺は自身の無力さや無能さを嫌というほど弁えている。だからこそ俺は、己の生については完全に無責任の立場を取りたい。

 

 

 第一、俺は生まれたくて生まれたわけではなく、生まれ落ちる境遇を好んで選んだわけでもない。遺伝子レベルでも、俺の意志や選択など全く介在する余地などなかった。自分で決めたわけではないことの結果に対して、何故責任を負えるというのだろうか。改めて考えれば、思い上がりも甚だしい。根底からして俺は俺の生に於いて全くもってタッチしていない。

 俺は俺の生に対して、完全に無力だ。自分で決めただの選んだだのというのは誰かに吹き込まれたか思い込んでいるにすぎない。俺は故郷を、両親を、家を、自らの判断で選択したのではない。いや、そんなことは土台不可能だ。できないことを出来るだとかしているだとか考えるのは滑稽ですらある。負えない責任を負っていると錯覚し、それによって悩んだり苦しんだりしているのだから。

 責任を負う能力など端からないのだから、そのことを人間は肝に銘じなければならない。それはもしかしたらある意味では屈辱的だと言えるかもしれない。自分の人生の手綱を自らが握っていない、それが能わないというのは釈然としない気持は確かにある。しかし、前述したように俺には自分の人生を設定する権限などなかったし、生まれてきてからも大概の場面においては完全に自分の判断を反映することはできなかった。

 怠慢などによりしなかったのではない、できなかったのだ。生涯における主導権を自身が握っているという根本的な誤謬が、思えばどんな瞬間においても自分自身を苦しめる原因であった。つまり、自身の責任能力について自惚れていたのだ。その思いが自縄自縛となり、俺にとっては常に頭痛の種だった。一体なぜ、どんな理由があって俺は自らを買い被っていたのだろうか。

 

 確固たる意志でもって自らの人生を切り開くのが人してのあるべき姿だと決めてかかっていたようなフシがある。両親はそのようなことを俺に言ったような気もするし、学校でもメディアを介してもそういった思想を常日頃、物心ついたときから刷り込まれていたような感がある。それが当然であり、自分はそれを忠実に実行しなければならないのだと信じていた。

 だがそれは結局のところ間違った前提だ。端から正しくないものを信奉しているのだから結果もおかしくなるのは必定だ。頑張りさえすればこの世のあらゆる問題は解決するにもかかわらず、上手く行かないのは結局当人に全責任があるなどというのは暴論にも程がある。どれだけ清廉で殊勝な精神で持って、ストイックにあらゆる万策を講じても、結局首尾よくいかないことの方が遥かに多いし、その時に自己責任という言葉が出てくるなら、それこそおかしいだろう。

 大事にしろ小事にしろ実際は個人の努力や気持ちなど結局は関係ないと俺は思う。どれだけいい加減な気持ちでおざなりにことにあたっても、上手くいくこともあるし、また逆も然りだ。どのような事柄の、どのような結果についても、人間という存在は責任など持ちようがないくらいに捉えたほうが健全だし、その方が理に適っていると言えるのではないか。

 少なくとも、気が楽になるのは確かだろう。自分が被る全てについて、全責任を自らが背負うというのは確かに潔く聞こえるが、結局それは自分で自分をただ徒に縛り付けて苦しめているに過ぎない愚考だ。どれだけ立派な志、崇高な精神を持って万事に臨んだとしても、どこまで言ってもそれは単なる自己満足でしかないし、それによって無用な気苦労がもたらされるなら、それに一体どれほどの価値があるというのか。

 単に自己完結的に自らが被害を被るだけならまだいいが、そのような精神というのはともすれば他人に利用されかねない。自己責任論というのは畢竟、環境や組織自体、ひいては社会などの大きな共同体全体が孕んでいる問題や欠落、理不尽や不条理などと言ったものを有耶無耶にし、全原因を個人に帰するための嘘や誤魔化しとして悪用されているようにしか俺には思えないし、面倒事の一切を「お前が悪い」、「お前のせいだ」と言い放って済ませることで、どこかの誰かにとって都合がいいだけなのではないか、というような気さえする。

 

 

 お前には能力や選択の余地があるのに、自らの生涯を良いものに出来ないなら、つまりお前に原因があり責任を追うべきだ、と言われても、馬耳東風でいい。思えば因果応報や自業自得などと言った言葉や考えも全て自己責任論と同一だ。あらゆる不幸や不都合の全原因が個人に帰せられるというのは、最終的にはスピリチュアルな言説と同じようなものとなるだろう。

 自分の力で自分の人生を生きているという前提が、どれだけ我々を苦しめ、痛めつけていることか。重ね重ね述べるが、己の人生の始まりを自らの意思や選択で決めたのではないのだから、それに端を発するあらゆる出来事や経験に対して、我々は本来的に責任など取りようがないのだから、自己責任だなどと他人に言われても、そんな話には耳を貸す必要がない。

 俺は自身の人生に於いて浴することも被ることについても一切責任を取らない、いや取れるはずがない。出来ないことについては責任などはじめからない。所詮人間など何もままならず、何も決められない無力な存在に過ぎず、そんなものが一体どんなものについて責任を負えるというのか。噴飯モノだ。

 個人としての生、人生というのは当人の意思とは全く見当違いの方向で進んでいくものだ。そのことに我々は目を背けがちだが、自身の生涯のうちのその殆どは自分の思いが反映されないことばかりなのが実際のところだろう。一体何を決めたというのか、一体何を選んだというのか。俺は俺のせいにおいて一体どんな裁量や可能性があったというのか。

 極論、「我が人生」という生への捉え方自体が幻想だ。仮にそれが厳然と存在していたとしても、それに責任を追うことなど俺には不可能だし、それをするつもりも毛頭ない。責任など人間ごときには荷が重すぎるし、それを下ろすことができれば我々の生はだいぶ楽になるだろう。とどのつまり、自分など高が知れているし、それが被る全てについて、特に気負う必要などないと考えるべきだろう。

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