書き捨て山

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酩酊

 人はなぜ酒を呑むのだろうか。俺は勤め先の会社宛てに取引先から歳暮や中元の類いが送られてくるのを目の当たりにする度にその疑問を抱く。毎シーズン、複数の会社から数多の品々が会社に届けられるのだが、それらのうちに生ビールがなかったことなどこれまでに一度もなく、この事実が俺にその疑問を与えるのだ。贈答品として酒が定番となっている我々の社会は、それを摂取することでもたらされる酩酊という精神状態も、合わせて肯定しているのだと考えるのが妥当だろう。

 得意先から会社に届けられたビールは従業員に分配され、それは当然俺にも恵まれ俺の喉を潤すに至った。そして俺は自宅において当然のように酩酊し、かなり久しぶりにビールの香りや味わいに加え、アルコールがもたらす高揚感や恍惚を味わった。しかし、この「気分が良い」状態というのは生きる上で必須ではなく、それどころか飲み過ぎれば酒害を被ることになるのに、なぜ俺を始めとした酒飲みはそれをあの手この手でそれを称揚したり正当化したりするのだろうか。

 ビールを飲めば麦の味や香りを楽しむことが出来るが、それは醸造された酒でなければ味わえないものでもない。単純に麦の風味が好きならば、それを享受するための手段などいくらでもあるにもかかわらず、わざわざビールという形でそれらを味わおうとするのは、やはり純粋な味や香りよりも、アルコールの摂取の方が我々にとって重要であると考えるべきだろう。

 蒸留酒にせよ醸造酒にせよ、我々が酒を消費するのは結局アルコールによる酩酊を得たいがためだ。俺がアルコール依存症だった頃においては、味や原料などいつしか全く気にも留めなくなり、販売されている酒において注視するのはアルコール度数の一点に限られていった。酒は食文化をより楽しめるものにする一方、肉体や精神に害を及ぼす麻薬としての側面もある。俺はその負の面により、一時期は大変苦しめられた。

 俺は心身を酒害により著しく損なっただけでなく、酒浸りの日々を送ることで人生における貴重な時間を無意味に空費した。だが現在は飲酒の習慣もなくなり、アルコールを体に入れるのはほんの限られた機会に於いてのみとなっている。歳暮や中元の季節はそのうちの一つなのだが、久々に飲酒に及ぶと俺は、自身が体験する酩酊という精神の状態についてあれこれ考えずにはいられなくなるのであった。

 

 

 先にも述べたが、人間が生きる上で、酩酊は必須でもなければ良い影響をもたらしもしない。酒に酔っている状態は大げさな言い方をすれば変性意識状態であり、平生の精神とは様相を異にしたものだ。酒という手段によりその状態に至ることは完全に合法であるばかりか、社交の場においてはそれが出来る体質であることは好ましいとさえされている。少なくとも、我々の社会では酒に酔うこと自体は悪ではない。

 違法な薬物などとは違い、酒を飲み酔うことを禁ずる法もなく、倫理や道徳という観点でも特に問題とは見なされていない。メディアや街なかには酒に関する広告が氾濫しているし、フィクションなどの創作物においても飲酒を悪しざまに描写することはあまりない。酒を飲んで酔うにあたり、我々は良心の呵責や後ろめたさを感じることはなく、むしろそのことを大っぴらにしてしまうことさえある。

 飲まなければやってられない、という言葉を憚らず言うことさえ、それほどおかしいこととはされていない。酒に頼り、酩酊に逃げることは普通で日常的な行為の範疇であり、よほどの潔癖主義者でもない限り、生活の中で酒が存在するのを許さない人間などいないだろう。TPOを弁えなければならないような状況でもなければ、自他共に飲酒を咎めるようなことはない。

 呑んで酔っ払えば気晴らしになり嫌なことを忘れられるが、それをしなければならない時点で俺は何かが間違っているように思える。楽しみのための嗜みとしての酒なら別段構わないだろうが、強迫観念などにより日常的に飲酒する習慣がある者は健康的とは程遠いだろう。アルコールは内臓や脳にダメージを与え、時間や金を浪費し、生活全般を堕落させる原因にもなりうる。

 大麻覚醒剤によっても変性意識状態にはなれるが、これらを用いるのは法的に禁じられている。これらもまた肉体や精神に悪影響を及ぼすが、酒と一体何が違うというのだろうか。これらを禁止するなら酒も同じ扱いにするべきだし、酒を称揚するならこれらもまた肯定されなければならないと俺は思う。シラフやマトモといった精神状態から離れるという効用の面で、酒とそれらとの間に一体何の違いがあるというのだろうか。

 一般的な嗜好品や贈答品として酒が流通・消費されているという事実は、例の変性意識に陥ることそれ自体は何の問題もないと我々が認識してるということを表している。我々の人生において憂さ晴らしは不可欠であり、それをするための手段として酒を呑んで酔っ払ってください、と言わんばかりに中元として得意先に酒を送りつけてくる習慣は、日本全体が飲酒を肯定して酩酊を推奨しているように俺には思えてならないのだ。

 

 会社で分けてもらった生ビールは、せいぜい2リットル弱ほどで、俺は早々に飲み干してしまった。ビールを飲み下した後に酩酊感が訪れるのは必定であり、俺はほろ酔いの状態で今日一日に被った労働の苦役について回顧した。仕事において俺は種種雑多な理不尽を味わわされているが、酒がもたらす恍惚が全てを有耶無耶にした。俺は自宅で座したまま、意識だけは遠い彼方を彷徨するような感じを覚えた。

 翌日にしなければならないことや考えなければならないことが色々あったが、酔った俺の頭ではそれに臨むことは能わなかった。俺は歯も磨かずにベッドに横になり、程なくしてそのまま眠りに落ちた。アルコールを体に入れるのは数カ月ぶりだったため、酔いが回るのは思ったより早かった。読書や作文の日課などは全て放擲し、俺は泥のように寝入った。

 俺が目覚めた時、時刻は既に朝8時を回っていた。アルコールは未だ抜けきらず、俺は倦怠感を覚えながらも洗濯やゴミ出しなどをし、外出する支度を整えて20分弱ほど眠った。俺は毎週末、文章について学ぶ教室に通わなければならないのだが、俺はそれをこの上なく億劫に感じた。二日酔いが治るまでベッドで横になっていたかったし、更に言えば酒を買い足してもっと酔いたい衝動にすら駆られた。

 結局教室には普段通り通ったし、帰りしなに酒を買うような暴挙に及ぶこともなかった。しかし、俺は内心酒を更に煽りたいという欲求を抱いた。その感情は、昨晩贈答品の生ビールを飲まなければ持つことはなかったと確信を持って言える。俺は何もせず引きこもって、酩酊状態のままでいることを望む気持ちがあるが、それはビールという呼び水があったからこそ惹起された感情だ。

 文章教室の講義を終えた俺は更に国会図書館で閉館まで本を読まなければならなかったが、その最中にもやはり酩酊への憧憬の念が強まった。何もせず、何も思うことなく、ただ酒に溺れることが出来たなら、俺はどれだけ楽だろうかと、館内で本に視線を投げながら心の片隅で俺はそう思った。俺が酒を絶ったのは実のところつい1年ほど前のことでしかないのだが、それが俺にとっては遠い遠い昔のことのように思えた。

 

 

 マトモであり続けることからの一時的な逃避や離脱の手段として酩酊がある。俺は成人してからはずっと、それに縋って生きてきた。実際俺にとって生は辛く耐え難く、更に言えば退屈だった。嫌なことも辛いことも、面倒で疲れることも、酒を飲んで酔っ払えば、何も考えずに済む。俺は酒の味を覚えてから7年の間、酩酊だけを心の支えにして生きてきたようなものだ。

 そんな生活も肝臓が限界を迎え唐突に幕を下ろしたが、現在も機会があれば酒を呑むことはあるし、酩酊の恍惚に耽溺することもしばしばだ。結局のところ、俺は本心では酒を未だに欲しているのだと、飲む機会がある度に痛感させられる。俺がやりたいことなど本当は酒を飲んで酔うことだけで、それには大した努力も労力も、金銭も必要としない。

 俺の生涯など所詮そんなものでしかないのかもしれない。憂さ晴らしや現実逃避に徹して死ぬまで卑しい仕事を我慢してやり続けるような、そんな生き方をするより他はないのに、殊勝ぶって図書館や文章教室に通ったりすることが、ふと馬鹿馬鹿しく思える。酔生夢死こそが俺にとっての理想であり、俺は本来そのために生まれてきたようにさえ思える。

 それに、酒を煽って酩酊するのは、冒頭で述べたように道徳や社会に背くような行為ではない。歳暮や中元の品として酒を送ることが社会通念上問題ないどころか好ましいとさえされている社会で我々は生きているのだから、酔っ払って我を忘れることは公に認められていると解釈したとしても何の間違いがあろうか。

 シラフであり続けたところで、人生の虚しさや己の無知無力にただ泣くばかりだ。それについて重々承知の者は、酒に溺れずにはいられない。また、それを社会全体が許容しているということは、我々が生きている世間の苦しさや厳しさをそれが目に見える形で表しているのだと言える。にもかかわず、俺は飲まない。浅き夢見じ酔ひもせず、思えばその様は酩酊よりもよほど正気でないような気がする。

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