書き捨て山

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陰湿

 今日、通っている文章教室で講師にエッセイの講評をしてもらう機会があったのだが、俺はあまり良い評価をもらえなかった。その講師曰く、俺の文章は文体が硬すぎるし、しかも内容が極めて陰湿なのだという。自身が書く文章についてそれらの性質があることは多少把握はしていたが、大勢の他人がいる場所でそれを指摘されると、やはり何も思わずにはいられないものだ。

 エッセイの課題は、「私が見つけた法則」というものだった。法則といっても大仰なものではなく、せいぜい思いついたあるあるネタについて文章にしてみろということであった。それは手書きで、かつ原稿用紙2枚分に収めなければならず、家に持ち帰ったりはせずに即興でやらなければならない作文だった。文を書いたのは一ヶ月ほど前で、それについての講評が今日行われたのだ。

 多少文章には自信というか自負するところがあった俺だが、他人の目から見れば別段大した腕前ではないという、極めて不都合な現実が露呈する。文章教室で何かを書いて発表する度に俺はそれについて思い知ることになるのだが、今日においてはかなり手厳しい評価を下された。文章における技術的な巧拙という点で色々と指摘されても俺は甘んじて受け入れる。だが内容が陰湿とは一体どういうことか。

 俺がくだんの課題に対して、具体的にどのような文章を書いて提出したかについては、ここでは伏せておきたい。しかし俺としては奇をてらったつもりもなく、卑屈な気持ちで文をしたためた訳でもない。にもかかわらず、その講師から陰湿などと評されるのは全くもって意外であった。お前は普段、本当にこんなことを考えて生きているのかと、婉曲的な言い方ではあるが面と向かって言われたのだ。どうして何も思わずにいられるだろうか。

 たしかに俺が書いた文章は他の受講生が発表したものに比べれば異質というか場違いな感はあった。他人が書いた文章の数々は、俺からしてみれば牧歌的というか平和的な内容であった。言うなれば、真っ当な世界で道を踏み外すことなく順当に生きてきたような人間の考えが顕れたような、そういう感じを思わせるような文章だった。苦悩や哀切の情、絶望や後悔の念などとは無縁な世界に属する、心身ともに健康的な人間の産物とでも言ったところか。巧拙や優劣は知らないが、言われて見れば確かに俺の文章は、そういった類いのものとは、まるで異なっているのは疑いようがない。

 

 

 結局のところ、俺が書いた文章と言うか俺という存在それ自体が、偏に奇怪で異常なのだろう。俺はそれについてあまり自覚することが出来ないで生きている。自分の何がおかしく、ズレているのか全く見当がつかないのだ。それが良い意味合いでの「個性」として認められるような代物ならばいいが、俺が持つ普通の人間との相違は悪い意味でのそれである。そのことがこのような場面において露呈してしまい、その度に俺は恥をかかされるのだ。

 自分が書いたものやそれに下される評価はどうでもよく、俺にはいわゆる「普通の人々」と自身の間にある決定的かつ致命的な相違というものについて、心に引っかかって仕方なかった。彼我の差異というか溝の大きさや深さについて、実感させられる時に感じる隔絶感や疎外感が、俺にとっては何歳になっても嫌なものだ。何処に身を置いてもそれを感じずにはいられない性分が、辛い。

 軽いエッセイを書き、文章を作ったり発表したりすることに慣れてみようという主旨により行われた講義の中で、思い返せばやはり俺の文章は異様すぎた感は確かにある。それに、即興で書いたものでなかったなら、俺は多少加減と言うか自身の内面について隠蔽しながら無難に課題をこなせたかもしれない。露呈する自身の精神性や気質といったものが、通常の人間のそれとは全く相容れないというのは、俺にとってあまりにも残酷すぎる、知りたくない事実だ。

 最も問題なのは、俺の文章を講評した講師が俺が書いた内容について、あからさまに「嫌なもの」を感じていたという点だ。講師は嫌悪の情を隠せないといった素振りをしているように少なくとも俺には見えた。俺が書いた文章は、不可解で忌まわしいものの寄せ集めとして彼は捉えたのかもしれない。だが、具体的にどのような点に対してそのように感じたのかは俺には知ることが出来ない。

 個性というのも良し悪しだ。チャーミングで価値がある良い個性と、異質なものとして不特定多数から糾弾され、共同体から排斥されるような悪い個性があり、悲しいかな俺が有している個性とは畢竟、後者に該当するのだ。即興でエッセイを書くなど今にして思えば自殺行為に他ならず、俺という個体の禍々しい内面が露呈するのはどのような局面においても絶対に避けなければならなかったのに、迂闊だった。

 

 俺は尊重や崇敬の念でもって遇される良い意味で個性的な人間では断じてない。俺の個性は社会や他者の視点で見れば、病院や刑務所などに隔離されるべき忌々しい代物でしかなく、文章教室という場所に俺という個体が存在すること自体がそもそも誤りなのかもしれない。否定されるべき個性は秘匿しなければならず、それはどういう場面でも例外ではない。

 俺が誰かに受け入れてもらったことなど、思い返せば一体何度あっただろうか。小学校には馴染めなかったし、中学校でも同じだった。高校は職業科に通わされ、友達も一人もおらず、大学では精神を損ない、就職活動には失敗し在学中においては技能も資格も何一つ身に付けることはできなかった。そんな有様だったから、社会に出てからは卑しい職業に就くしかなく、幾つもの職場を転々としながら酒浸りの日々を送り、孤独にただ鬱々と暮らしてきた。

 例の教室において俺以外の受講生どもは多分、そういう人生とは全く無縁の生涯を送ってきたのだろう。よく言えば暢気、悪く言えば浅薄な生を謳歌してきた人間のバックグラウンドを、俺は連中が書いた文章の中に見出さずにはいられなかった。幸福な人間こそが普通でありまた正統で、それに属することができなかった者は、単に異端でおかしい存在でしかないということを思い知らされた感じだ。

 異形の存在としての自己をどのように処すればいいというのだろう。それについて文章教室で知ることなど、恐らく出来ないだろう。世間から爪弾きにされない処世の術を、俺は一体何処で学べばよかったのだろうかと、自身の人生を振り返って愚考する。作文における技巧的な良し悪しや文法の正しさなどとは全く別の次元において、俺の内心から出てくるものは根本的におかしくて、それについて俺は如何ともし難いのだ。

 悪い意味で人と違い、それが露呈する度にあらゆる場所で疎まれ、退けられる。そんな経験を今生で一体何度味わわされたことか。俺が俺であることは即ち悪であり、それはどんな瞬間においても隠匿されなければならない。己の本性を押し殺し、偽らなければ俺は生きていくことも能わず、それにより事なきを得られたとしても別段ありがたくも思えないのは、つくづく不幸な性分だと自分でも思う。

 

 

 「普通の人間」と俺との間には悪い意味で致命的な隔たりがある。それは俺にとっては自明すぎるほど自明なことだが、それがつまびらかにされ白日のもとに晒されるのは、やはり気分の良いものではない。重々分かっていることであっても、大勢の前で喧伝されれば嫌な思いをするものだ。そんな目に遭わされるために大枚をはたいて文章教室に通っているなど、改めて考えればお笑い草だ。

 両親は俺の異常性を早くから見透かし、それを正そう治そうと苦心した。俺にとってそれは極めて辛辣で理不尽な仕打ちであるように感じられ、父や母に好ましからざる感情を抱きもした。しかし彼らが俺に施したことの一切は、今にして思えば極めて妥当で適切だったと言わざるをえない。俺は何処に行っても結局、自身の性向のせいで周りから浮いて嫌な思いをさせられるのだから、それを矯正しようとした両親は正しかったと言うしかない。

 ここにきて俺は、前に働かされていた職場において、上役に「お前はロボトミー手術でも受けるべきだ」などと言われたことを唐突に思い出した。それにも俺は反感を覚えたものだが、俺の内面を伺い知る機会が少しでもあった人間は、皆異口同音にそれと似たようなことを思ったり婉曲的にそれについて言及したりするのが常であった。畢竟、俺が何もかも全て悪いのだろう。

 文章において文体が硬質だなどというのは大したことではないだろう。それを矯正するために教室に通っているのだし、それついては改善は可能だろう。しかし、内容が陰湿だなどと評されても、俺に一体何が出来るというのだろうか。講義を終え渋谷から四ツ谷に戻る道すがら、俺は人知れず祈り、天に向かって独りごちた。陽気かつ朗らかに、天真爛漫・純真無垢に振る舞い思考し、物を言い言葉を紡げる人格を、俺のうちに宿らしめよと。

 しかし、矯正された人格や更生した自分というものは、元の俺とは全く別の存在ではないかとも思う。もし仮に、俺の愚劣極まりない嘆願が神に聞き入れられ、生来の悪魂が滅尽され社会通念上よい個性を会得するに至った時、その俺は既に俺ではない。それが成就した瞬間、元来の自分は死に絶えるのだ。

 変化するということは即ち死ぬことに他ならず、変わりたいという願いは死への欲動だとも見做せるのではないだろうか。そして、他人を無理やり変えようとしたり変化を強要しようとするのは、殺人と同等の行為であると言えるのかもしれない。

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