書き捨て山

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読書疲れ

 歴史的仮名遣いで書かれている本を読まなければならず、大変面倒だった。日曜日の大半の時間をそれに費やしてしまったし、心身ともに相当な疲労を覚えた。本は千代田区区立図書館から借りたもので、返却期限は今日であったためどうしても今日中に読み終えて返却しなければならなかった。そのような事情のため、閉館時間を迎えるギリギリまで粘って読み切ってほうほうの体で読破して期限通り四番町図書館に返却した。

 キチンと読み終え、期日内に返却できたのは良かったが、今日のこの一件で俺は自分の識字能力についてかなり自信を失うこととなってしまった。戦前に発表された文章などを読む機会は子供の頃からあったし、旧仮名遣いで書かれている本を読むことは可能であったはずだが、その手の本を読むのは大人になってからは全くなくなっていたため、読破するのにかなり難儀した。これはかなり気がかりなことだった。

 読書をする習慣自体が俺の生活の中でどうにも定着しなかった。現在はそれなりに読むようにはなったが、学生時代に比べれば読書量はまだ足りない。自分の知的な能力がどんどん低下していることに気づく機会もなく、突発的に古い本を読む必要が生じた時に、思いの外自分が文字を読めないという事実に直面したのだ。それは俺にとっては青天の霹靂と言っても過言ではなかった。

 自分が本もロクに読めないことに、恐怖すら覚えた。文章の内容を理解することはおろか、音読してみてもどうにも要領を得ず、読書は遅々として進まず自分自身にヤキモキさせられた。こんなに読めないものだろうかと自分でも愕然としてしまい、自分の能力の低さを嘆きながら四苦八苦しながら俺は本を少しずつ少しずつ読まなければならなかった。

 読書が趣味だとか楽しいとか宣う御仁に、俺は嫉妬というより憎悪を覚える。俺にとってやはり長い文章を読解するのはどうしても骨が折れる作業だからだ。仮に誰かに、本を読むのが好きかと尋ねられたら、俺は首肯しかねる。俺は自分の無知を自覚するのを避けたく思っているから、出来るだけ難しいことに触れたくない。書籍は俺の無知を暴き、知的能力の低さを白日のもとに晒す。

 

 

 本ではなく、インターネットの文章ならいくらでも読んでいられるのは我ながら不思議だ。2chなどの短い文章だけではなく、分量が多く、また平易でもない文章でも延々読んでいられる。書籍を開いて紙面に視線を投げて行う文章読解は、何故か俺にとってかなり疲れる行為となる。一体何がどう違うというのだろうか。文字を読むという点では全く同じ行為なのに。

 情報の性質の面で、書籍とネットの文章には違いがあるのかもしれない。ネットで公開されている文章にアクセスする上で、俺は自分が知っている範囲や元々興味がある分野に限ったものを無意識のうちに選んでいる。だから基本的にネットで触れる文章や情報というものは、自分にとってあまりストレスにならない範囲のものであり、あまり疲労を感じずにいられるのかもしれない。

 書籍というよりオフラインで触れる情報というのは、完全に自分の意思や嗜好が反映されたものではない。普段あまり意識していないが、これは重要な事かもしれない。今日読んだ歴史的仮名遣いの本も、正直に言えばそれほど読みたい書籍ではなかったし、内容的にもかねてからどうしても知りたくて仕方がないものというわけでもなかった。何となく図書館から借りてきたものでしかなく、俺の趣味とか完全には合致しないものであり、それがストレス要因だったのかもしれない。

 仮にネット上の文章で、歴史的仮名遣いで書かれているものであったなら、俺は根気よく読んだりはしないだろう。図書館から借りたものであり、なおかつ返却期限が目前に迫っているという、ある種の強制性が働いたから俺はそれを読んだのだろうし、久しぶりで読み慣れていない文体や内容でも根気を振り絞って読破しなければならなかったのだから疲れるのは当然であろう。

 文章にしろ何にしろ、ネットで得られる情報は自分が好きで興味があるもの、更に言えば既知の範囲の世界に属するものでしかなく、俺はネットサーフィンを通して既知の情報をただ漁っているだけなのかもしれない。それは疲れを覚えず、また楽ではあるが、既に踏破した限定的な領域の形而上の箱庭の中である意味幽閉されている状態であると言っても言い過ぎではないかもしれない。

 

 そこに自由は存せず、俺は浅薄な世界の中で閉じこもっているだけだ。よくインターネットは世界中と繋がっていて、無限の広がりがあるなどと言われることがある。それは確かに一面的な事実ではあるかもしれない。しかし、人間がネットを通して何らかの情報にアクセスしようと試みるとき、本当に無限の可能性といった類いのものがあるだろうか。

 ネットから情報を得るとき、我々は主にブラウザで単語などを検索にかけるだろう。その単語というのは自分にとって興味があり、知っているものに限定される。自分にとって何の予備知識もなく、食指が動かないような言葉をワザワザ自らの手で入力して調べようと試みる者が、この世に一体どれくらい存在するだろうか。我々がネットで得られる情報の量や種類といったものは、自身の資質に左右または限定される。

 あるキーワードで検索し、その結果の一覧が表示されたとき、歴史的仮名遣いで記されているWebページとそうでないものとであったら、我々は後者を選んでしまうだろう。日本語という言語の表記や表現に一家言あり、特別な素養がある人間ならその限りではないかもしれない。しかし、ごく普通の人間ならば、好き好んで古めかしい文体で長々と文章が書き連ねられているサイトを閲覧しようなどとは思わないのが実情ではないだろうか。

 自分が全くの門外漢となってしまうような分野の情報に触れる機会は確かにネット上でも多々あるが、それがある場所に率先して赴いて情報をあさり、見識を広めようなどという殊勝な気持ちをパソコンの前で抱く者はやはり稀だろう。人間がインターネットで無限の叡智に触れられるようになるなどいった言説は結局のところ机上の空論だ。我々はあくまで自らが既に知っていることや予備知識がある領域に限定して情報収集に勤しむだけではないだろうか。

 自分にとって未知の情報に触れたいなら、ネットよりも書籍の方が良いのかもしれない。それは精神や頭に負担がかかることではあるが、それの代償として新しい知識を得ることが出来る。ネットだけでは人間は自身が未だ知らない領域には中々踏み込めず、そのことを自覚することも難しい。見知った世界を彷徨するだけの人生に心底飽き飽きするまで、俺はただそれを繰り返した。

 

 

 慣れ親しみ疲れずに済む、そんな世界や領域にはもう、心が惹かれることもない。自分の無知や低能が露呈することになっても、それでも俺は未だ知らない何かに触れることを欲し、それを求めていきたい。余暇を惜しまず、疲労を被り精神を消耗することを厭わず、残りの生涯の時間を俺は、これまでに見知ったこととは異なる何かに接することに充てていきたい。

 既知の世界から抜け出して未知へ足を踏み入れるには、苦しみや恐れが伴う。一言で言い表せば、新しいことはシンドい。決まりきったことをルーチンで行い続け、人生を消耗する方が、楽といえば楽だろう。自分が如何に何かを知らないか、どれだけ出来ないことが多くあるかについて知ることは畢竟、不愉快なことではある。

 しかしその不快は退屈の前には霞む。どれほど嫌な思いをし、辛い目に遭ったとしても今の俺は新しいことを求め欲しているのだと、確信を持って言えるのだ。年甲斐もなく拙く、恥ずべきように思えても、生涯において残されたそう多くない時間を敢えて、面倒臭いことに費やすこともまた一興ではないかと現在の俺は思っている。

 それで別に何がどうなるわけではない。その辛苦を労ってくれる誰かが居るわけでもなく、困難や疲労を乗り越えた先に、何らかの報奨があるわけでもない。それでも俺はこれまでの自分が、触れる機会が終ぞなかった何某かに、手を伸ばしたいと臨んでいる。それはもう気を逸していて、色々な意味合いにおいて手遅れな感情であると内心では重々承知であったとしても。

 そんな歳になってこんなことも知らないのかとか出来ないのかと、誰かに言われる事を恐れてもいる。いや、他人に何かを言われたり思われたりするよりもむしろ、自分で自分に幻滅したり、嫌気が差したりすることの方が、余程気後れするしそれにこそ臆病になっている自分がいるのかもしれない。しかし、そんな気持ちを蔑ろにしてでも俺は、未知の何かや何処かを求める欲を絶やさないようにしていきたい。

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