壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

他人の気持ちを考えてみた

 余人がそう見なすように、俺は他人に見下されても文句を言えない存在かもしれない。肉体的にも精神的にも、または社会的な意味合いにおいても俺は日本国民の平均や標準には達していないだろうし、有り体に言えば劣った個体ではある。具体的に俺のどのような点が至らなく、または醜く、無能でいけ好かないかを指摘することは誰にとっても容易いことだろう。

 他人に攻撃される材料を多分に有している人間にとって、言論の自由は呪わしい。自分についてのあらゆる悪口雑言を禁ずることは出来ず、基本的にはただ言われるがままだ。その手の罵詈や悪罵をもし面と向かって言わない者がいたとしても、それはその当人の良心が辛うじて機能しているに過ぎず、その人間も腹の底では明言しないまでも明け透けに言う者と似たことを思っているに決まっている。

 他人をどう見做しどう思い何を言おうが自由の範疇だが、それを受けて言われた側がどうするかもまた勝手だ。この国の社会においては、好き放題に言う人間は夥しくいるが、そのことを心得ている者はあまりにも少ないように俺には思える。世間の大半の者どもは、自分は相手を思うままに嘲り侮り言葉や態度として表明するが、それらを不服に思ったり反感を抱いたりすることは罷りならないなどと考えているのだ。

 自分と比較して蔑めると断じた相手を思うままに嬲りたいという欲について、俺はよく理解できる。俺はそれをする機会が全く無いが、もし仮に俺が他人を見下すことが出来る身の上であったなら、心置きなくそれに及ぶだろう。俺が日常的に人畜無害な存在に徹しているのは単に自分がやられる側だからであり、一度立場が転じればやる側として振る舞うであろうことは容易に想像ができる。

 加えて、それをした後に何らかの害を被った側がどのように感じどんな挙動に出るかも俺には簡単に分かる。これは想像力の問題だろう。第一、どれだけ客観的に正しく、妥当な発言であっても侮辱や嘲弄を食らって何も思わないでいられる人間など存在しない。それらを受けた者がどんな念を抱き、それに基づいて何を思考し行動に移すかなど十二分に想定できるはずのことだ。

 

 

 だが、余人の殆どはそれに思い至らないのだから、俺は不思議で仕方がない。仮にXという人間がいたとして、それが俺のことを見下し、またその旨を俺に向かい明言したとする。俺は当然、Xに反感を覚えるだろうし、Xについて何かを慮ってやったり、自分が不利益や損を被ってでもXの為に動いたり働いたりしようなどとは一切思わないだろう。たとえXが俺よりもあらゆる面で目上もしくは格上の存在であったとしても、そんなことなど一切関係ない。人間とはそういうものだ。少なくとも俺はそう思う。

 ところが、それをおかしいと思う者がこの国には相当数いるのだから不可解極まりない。俺はお前を好き放題に蔑み、罵りはするが、それについて根に持ったり俺を嫌うことは許さん、といったような人格破綻者の多さに俺は時折り愕然とさせられる。一体このような手合いはどのような精神構造をしているのか、不可解さとともに知的な好奇心さえ湧いてきてしまう程だ。

 先程の例えを再び引き合いに出すとすれば、俺はXから心底軽く見られているのだろう。Xは結局、自分が面と向かって俺を侮ったとしても、俺がそのことを明確に認識したり察したりする能力を全く持ち合わせていないだろうと、相当甘く見ているに違いない。そうでなければ何故、好き勝手に物を言い、それを受けて反感を抱くことを想定できないというのか。俺の知能を低く見積もっていなければ、そのようなことは土台あり得ないのだ。

 そして話はそれだけではとどまらない。俺が露骨にXと距離を置こうとしたり、Xに崇敬や恭順の意思を表明しようともせず、また献身や奉仕の行動に出ようとしなければXはどうするか。恐るべきことにXは俺に対して憤るのである。Xは俺に言う、何故お前は『この俺様(つまりX)』に尽くさないのか。何故お前は『この俺様(これもXである)』を尊敬せず丁重に扱いもしないのか。更にXは俺に向かって続けるだろう。お前は何故、自分のことなど差し置いて、『この俺様(最早注釈は不要だろうが、X)』のことを最優先で考えようしようとしないのか! お前は何故、何故、何故……。本当に勘弁してもらいたい。

 侮るなら勝手にすればいいが、重ねて言うようにそれをされた側(要するに俺)が何を感じどう行動するかもまた勝手だろう。正常な情動と知性を持つ者が抱くであろう感情を、俺もまた持ち合わせているし、それに基づき物事を判断し行動に移す。それについて正当性がなく、身勝手で不見識だなどと思ったり言ったりする神経が全く理解不能だ。強引に理解するとしたらそれは、とてもおぞましい感情だ。

 

 親愛の情、尊敬の念、忠義の志などを他人に要求すること自体が馬鹿げているが、あまつさえ自分が見下したり嘲笑っている相手それらを強要するのはどんな理屈なのだろうか。虫けらや塵芥のように見做し、実際に扱っているような対象が、自分のことを第一に考えないということの、一体何が不満なのだろうか。俺という個体に限った話ではなく、他人全般というものを少々都合よく考え過ぎではないだろうか。

 しかしそれも知ったことではない。ともすれば、そのような手合いは他者という存在を明瞭に認識できていないのかもしれない。更に言えばその個体は、知能や精神に支障をきたしていて、自他の境界線を明確に引く能力を失っているか先天的に欠けているかしているのかもしれない。だが、仮にもしそうだったとしても、それの資質について俺が配慮する義理など毛ほどもありはしない。

 俺にとっては自分は自分、他人は他人だ。その線引は明々白々たるもので絶対に揺らいだりはせず、それは単なる個人的な見解ではなく普遍的な法則である。俺にとっては、自分という個体の都合や感情が他人のそれよりも優先されるなど例え天地がひっくり返ってもある筈がないことだ。例え対峙している他者が自分よりも愚劣かつ低級な存在であったとしても。

 見下しているとか馬鹿にしているなどというのは瑣末なことかもしれない。それは大したことではなく、最も根深いのは自他の境目が曖昧な個体が、手前勝手な物言いや振る舞いに及び、俺に精神的にせよ物質的にせよ危害を加えることがままあるということに他ならない。ある個体が俺に対してどれほど邪悪な想念を持っていようが、それははじめから問題ではなかった。

 他人の心を操り、御することは出来ない。ままならぬ他人の精神を許容しない人間の魂胆について、一考する価値など果たしてあるのだろうか。そのような心の持ち主というものは畢竟、どのような事柄にも自身の思うままにならなければ癇癪を起こしたりあからさまに顔色や態度に表したりするのだから、結局単なる害悪そのものでしかないと断ずるより他はない。

 

 

 侮蔑には侮蔑、嘲弄には嘲弄でもって報いる時、一体どこに疑問を挟む余地があるのだろうか。それはさながら、作用と反作用の法則のように何故? などと考えるまでもないはずのことなのに、それを永遠に理解しない人種というものがいる。そしてそれは、決して異常者や異端者としてではなく、ともすれば社会における多数派として世の中を我が物で渡り歩いているのだから、それを思えば厭世の情はますます募らざるをえない。

 俺の言うことを聞け、俺の思いを察しろなどと臆面もなく宣える人種を俺は腹の底から嫌悪する。自分で自分がやったり喋ったりしてる事柄に、絶対に正当性があり己を無謬の存在だと信じて疑わないような連中は、呪われるがいい。偏にそれは有害で、迷惑極まりない個体なのだから、本来ならあらゆる手段を講じてでも社会から排斥されなければならない代物なのに、そうはいかないから世間というものは度し難い。

 他者や社会といったものに、何ら甘い望みの持ちようはない。くだんの人種を仮に一掃できるようなことが仮にもしあったとしても、そのようになった暁には果たして日本という国が存在しているかどうかも甚だ怪しい。尋常な精神、正常な個人とは結局のところ、かの人々が有している、この国ではそういうことになっているのだから、それに異を唱える側の方が逆に異常ということになってしまうのだ。

 道理を解さない者どもが、徒党を組んで専有する共同体の中で俺は生きている。逃げ場など何処にもなく、改善も救済もとどのつまり望むべくもない。謬見が自明の真理となり、己の身勝手な都合や機嫌が自然の摂理のように取り扱われて当然だと信じ切る、不遜の徒が支配する暗黒の世。正しいことは何一つ顧みられず、自分の気持ちを振りかざす者どもが延々ぶつかり合う嫌な国。

 自分の気持ちや都合がどんなことよりも優先されるべきだなどと考えるのが自惚れでなくてなんだろうか。それが自分には許されると思える精神は、ある意味羨ましく感じられる。お前ごときがこの俺様の『大御心』を慮りそれを第一考え、かしずかないなど何たることかと、恥も外聞もなく宣える精神に俺は、つくづく恐れ入る。恐れ入ると同時にまた、俺には相容れない精神的奇形だとも思う。願わくば、俺の耳目が届かないところで我が世の春を謳歌していただきたいものである。