書き捨て山

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苛んだ災難

 仕事合間の休憩時間は本読みに充てると決めている。平日の昼頃における大体55分から60分ほどの時間、俺は寸暇を惜しむようにして勤め先からほど近い商業施設のエントランスにある長椅子に腰掛けて読書に勤しむのである。その場所は俺が読書をするために用意されているかのような空間であり、雨風を凌げるだけでなく冷暖房まで完備されているのであった。読書に集中するにはこれ以上にない環境だと言える。

 読書に集中するために必要なのは場所だけなくケータイのアラーム機能だ。読書に集中するには正に完全無欠と言っても過言ではない条件下ではあるが、だからこそ生じる問題もある。冒頭で触れたように読書に割ける時間は有限であるため、それにのめり込みすぎて休憩時間を超過するようなことがあってはならない。その心配を取り払うために、設定した時間を迎えるとバイブするケータイの存在が俺の休憩時間には不可欠となるのだ。

 しかし、その頼みの綱であるケータイが今日、壊れてしまった。電源は入るが、画面が一切表示されなくなってしまった。現在遣っている機種を買ったのはせいぜい2年弱ほど前だ。にも関わらず、それが全く使い物にならなくなってしまった。画面だけが正常でなく、それ以外の充電や受信は通常通り可能なのがまたもどかしい。画面表示されないということは一切の操作ができないということだ。

 当然アラームの設定も出来ない。俺は毎朝同じ時間、出勤前にアラームが毎日なるように設定してあるが、恐らくそれに限っては問題ないだろう。問題が生じているのは画面表示だけであるため、既に設定してある時間にはアラームは鳴るだろう。しかし、休憩時間におけるアラームは日毎設定しなければならないため、ディスプレイがオシャカになった状態ではそれも不可能となる。

 アラーム機能が使えなければ休憩時間に安心して読書はできない。いや、厳密には壁掛け時計が視認できる場所でなら本を読みながら時間の確認が可能であるため、読書は出来なくもない。しかしそれは言うまでもなく俺にとってベストの状態ではない。それよりも、読書だけでなく俺にとって携帯電話は社会生活上の生命線の一つであるため、それが機能不全のままにしておく訳にはいかない。結局、問題はそこなのだ。

 

 

 ケータイが不調の時、修理か買い替え以外の選択肢はないが、どちらにせよ俺は不本意だ。なぜならそれは、金銭面にとって俺には大変負担だからだ。俺はこの国における最底辺に属する労働者である。携帯電話などの通信費をはじめとした公共料金は可能な限り少なく抑えなければならない。そのため、ケータイが壊れる度、俺にとってはかなり深刻な事態となる。

 ちなみに機種はスマホではなくガラケーである。仮にスマホだったなら、修理という選択肢もあっただろうが、今時ガラケーで修理となると時間も掛かるし、買い替えたほうが良い。そのような理由から、俺は所持している古めかしい機種から晴れてスマートフォンに機種変更をしなければならなくなったのだが、俺が携帯電話を持ち始めたのは優に十数年も前のことであり、これまで延々ガラケー固執してきたことを思えば、感慨深いものがある。

 思えば、世間の連中が猫も杓子もスマートフォンを持ち始め、それが主流となったのは一体何年前のことだったろうか。社会の潮流や流行り廃りなどには目もくれない俺ではあったが、事ここに至っては最早選択の余地もないだろう。ガラケーからスマートフォンに鞍替えすれば維持は相当上がってしまうが、やんぬるかな。この機会に俺もそれを持つ日がやってきたのだ。

 もし俺の自宅に固定電話があったなら、俺は今日に至っても携帯電話など所持しなかっただろうと断言できる。しかし、東京に出てきてからこっち、俺は固定電話を家においたことなどなく、ケータイをイエデン代わりにずっと使ってきた。現代社会において電話で連絡が取れないというのは社会的に死んでいるも同然であるため、やはり何らかの形で通信機器を手元に置かない訳にはいかない。

 スマホの料金プランを調べるだけで俺は目玉が飛び出る思いだ。高々携帯電話ごときに、一体なぜこれほどまでの金を通信会社に支払わなければならないというのか。ガラケーのままなら、俺のケータイ絡みの出費はせいぜい3000円ほどだ。それが良くて2倍、最悪3倍近い金額になってしまう。それだけで俺の吝嗇の気が疼き出す。

 しかし、通信費の事を気にし始めれば、家でインターネットする費用についてはどう考えているのかという話になる。俺がスマホの維持費を渋っているのは単純に「これまで払っていなかった」というだけのことなのかもしれない。人間の脳は現状維持に徹し、そのためにはかなりのことに耐えられるし、逆に言えば意味もなく旧態に固執する性質を持つという。それに該当する感情はつまり、生理的なものであると言って良い。

 

 子供の頃、俺の生活環境にインターネットなどなかった。家の中でネットに接続できなかったとしても、かつての俺は不便も喪失感も抱くことはなかった。それがある恩恵を知らなかったということもあるが、俺が実際に生活空間にインターネットを取り入れられるようになったのは00年代の後半に差し掛かった頃だった。その時期にはネットはだいぶ社会全体に普及し、俺自身もそれを使う利得などとっくに知っていたが、それを実際に生活環境に導入するまでは、それなりに手間は負担を感じはしたものだ。

 今となってはネットがない生活など考えられない。最早インターネットは現代人にとっては水道や電気などと同様のインフラであると見なすべきであり、是が非でも確保しなければ文明的な生活を営み、社会に参画することは不可能と言ってよい。もし仮にネットを解約しなければならなくなったら、俺は自殺を考えるかもしれない。今の俺にはネットがある暮らしが維持すべき状態であり、現状というものはいくらでも変じうるものでしかない。極端な話、現状維持を欲する心というものは判断の基準として不適切だと言い切って良いかもしれない。

 スマートフォンを持つかどうかもそれと同じことに過ぎない。2,3ヶ月もすればそれの維持費を必要なことであり、日常を継続するために当然支払うべき代償と見なすようになるだろう。前職において、スマートフォンを操作する必要がある仕事をしていた経験もあるため、端末の操作にはすぐに慣れるだろうから順応出来るかの不安は全く無い。問題は、単にこれまでやっていないこと、未だ前例のない出費というだけだ。

 スマートフォンを駆使して家の外でも常時ネットに接続して情報を得たり活用することなど最早常識となっている。逆にそれができないことで俺は様々な面で相当な機会を喪失している状態であると言えるかもしれない。遠からずスマホを日常的に使うようになった時、ネットが出来ないことを厭う気持ちと同じものを、いつか俺は思うようになるかもしれない。

 ガラケーを使い続けることに固執し続けてきたが、それに終止符を打つために、今日起きた俺を苛んだ災難は必要な契機だと見做せる。潜在意識や腹の底では、とうの昔から俺はスマートフォンを日常の中に取り入れる必要性を感じていたが、これまでやっていない、これまでにない出費を厭うホメオスタシスが働き、二の足を踏んでいたのかも知れない。今日のことはそれを払拭する好機として考えればこの凶事は吉兆だと考えられる。

 

 

 長い逡巡に終止符が打たれ、新しい一歩を踏み出さなければなくなった。そのように思えば、ケータイを新調することが楽しみにすら思える。無論、通信費は嵩んでしまうが、今の時代はスマホを使うことで何らかの収入を得る手段はいくらでもあるはずだし、新しいコストは新しい何らかの実入りによって相殺できると考えたい。

 ガラケーからスマホに換えることでこれまでになかった問題に直面するかも知れず、それへの不安もまたある。俺が目下、想定できるのは通信費が増えると言う一点のみだが、それ以外の想像が届かない様々な不都合が生じるかもしれない。大げさに言えば、そのことへの恐怖心があり、その思いが俺をガラケーに執着させていた面も多分にあったのかもしれない。

 新しいことには常に恐れと疲れが伴う。それを疎んずるのは人間として正常であり無理からぬことではある。しかしそれは、自分の意志や主義主張、更に言えば自らの心の底からの本心から出てくる感情ではない。前述の通り、この思いは人間の脳が先天的に持っている性質であり生理的なものでしかない。それに則って生きるのは別段立派なことでもなく、正当性があるとは必ずしも言えない。

 未踏の領域、新しい生活様式といったものに果敢に臨んだ方がいい場合も多々あるだろうし、スマートフォンに関してはもっと早くするべきだったのかも知れない。新しいことを忌避することで、俺はこれまでどれだけの機を逸してきただろうか。それは何かを買うなどの具象的な事柄に限らず、抽象的な生活様式や習慣などについても言えることだ。

 変化の必要を迫られるのは凶兆でありまた吉兆でもある。手間や面倒を被ることを肯定し新たに何かを始めなければ人生は堂々巡りを繰り返すばかりだ。死ぬまでガラケーを使い続けるよりも、多少強引にでもスマートフォンに移行するほうが出来ることも知れることも多くるなるはずだ。それらが無いよりはある方を俺は望むし、それは即ち変わることに然りということにほかならない。

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