書き捨て山

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否に然りと

 職場でやらされる仕事がまた一つ余計に増やされた。俺は内心怒り心頭、恨み骨髄に徹し怒髪天を衝くほどの憤りを覚えた。やらされることが増えてたところで、俺に何らかの恩恵があるわけではないのだから当然だ。他人に使役される身分なのだから文句を言う権利など俺は有していないから、結局は唯々諾々と従う以外に選択肢がなく、大変歯痒い思いをしている。

 また、その仕事は単なる社長の思いつきの一存によって課された作業でしか無いことが俺にはより一層、腹に据えかねる。増やされた仕事というのは、具体的に言えば自社商品の在庫数と入荷スケジュールの確認及び、追加発注が必要な商品の見極めなのだが、それをやる頻度が2倍か3倍ほどに増やされたのだ。増やされたのは重ねて言うが社長が単にそうすべきだと思ったというだけが理由だ。

 仕事の仔細については伏せるが、在庫や発注数の管理などそう頻繁にする必要はない商売なのだ。にもかかわらず一体何が気に食わなかったのか、例の社長の鶴の一声で俺は無意味で不必要な業務を一つ余計に抱え込むこととなった。俺からしてみればこれは不幸な災厄以外の何物でもない。身に降りかかる理不尽について、どのように向き合えばいいのだろうかと俺は、苦役に従事しながら人知れず思い煩った。

 例の不必要な作業に勤しみながら、「それでも人生に然りと言う」というフレーズが俺の胸中に浮かんだ。昔フランクルの夜と霧を読んだ時に本に載っていた文言だった。ユダヤ人で医師の著者が、ナチスドイツによって強制収容所に収監され、その中で生き抜くといったような内容だった。そのような極限状態にあって、著者は人間はどんな環境に置かれても絶望に打ちひしがれることなく平常心を保つことが生きる上で大切だと主張していたような覚えがある。

 下層社会における労働者が置かれている状況と、ナチスの収容所を同一視することは多少大仰かもしれない。しかし、理不尽かつ不本意な環境だという点では多少近似している面もあるといえるのではないだろうか。収容所とは違い、会社という場では自他の死に直接的に触れる機会はないが、それは目に見える形で直面しないだけだ。有限な人生における自分の時間を会社のために費やす労働者は、考えによってはじわじわと真綿で首を絞められるようにして少しずつジワジワと搾取されながら殺されて言っているようなものだ。

 

 

 実は収容所の方も、単にユダヤ人をはじめとしたナチスから見た異教徒や異民族など単に殺すための場所ではなく、それらの労働力をナチスが搾取するための施設であった。収容者はまず、働ける者とそうでない者に選別され、働ける者は殺されることなく種種雑多な労働に従事することとなる。収容所の存在意義やナチス側の目的意識としては、非ナチスの人間から労働力を搾取する側面は間違いなくあったと思う。

 日本の会社、取り分け下層社会のそれもまた、従業員という他人が持っている労働力を如何に掠奪するかに執心しているのだから、その点でナチスの収容所と日本の労働環境に俺は類似点を見出す。主従関係に基づいた労働力に収奪という一点に限れば、これらに一体どのような違いがあるだろうか。細かい相違点は言うまでもなく多々あるだろうが、根本的には同一のしろ者だと俺は考えている。

 だが、他人から労働力を搾取することで、奪う側が必ずしも実利的な恩恵を受けるわけではない。これが会社などの組織全体に有益な結果をもたらすならば、自分が損や不利益を被ってでも何かやってみようかという殊勝な気を起こすこともあるかもしれない。結局それは奪う側の感情や気分を満足させる為の儀式的な意味合いしか持たない場合が多分にあり辟易させられる。

 この度、俺に課せられた「余計な仕事」もまた、社長の気持ちという個人的な都合に起因するものであり、組織や共同体全体が浴する何らかの利益のためではない。ナチスの収容所でも同じようなことが恐らく多くあったのではないだろうか。無意味に相手を苦しめるための労働、使役のための使役、搾取のための搾取。それは個人が憂さ晴らしの為に行う気晴らしという意味合いしかない。

 ナチスの収容所で行われていた過酷なことの全てがもし、有意義なものだったなら収容者は苦しみはしてもそれなりに自分たちが被る悲惨な事柄について心身を挫かれることはなかったのではないだろうか。誰のためにもならない、単に何者かが誰かを屈服させ操作することで喜んだり満足したりするだけの為だけの苦役に、意味を見いだせる人間などいない。

 

 そして、だからこそ「『それでも』人生に然りと言う」ことが求められるのだ。夜と霧の作者は、それが出来なかった収容者は途中で心が挫けたり病魔に冒されたりして命を落とし、逆に出来たものは生き抜くことができたのだと主張する。それを教訓にして例の本を読了した者は、我々もどんな苦境にあっても人生に然りと言わなければならないのだ、という風な感想を持つことを求められている感がある。

 だが、やはり持てないものは持てない。それは強者の理念や理想であり、とても人間的なものではない。人間にとって最も耐え難い苦しみは無意味さを感じることだ。肉体や精神にどれだけの苦痛を被ったとしても、それが有意義で価値がある何かであったなら、人間はそれに容易に耐えうるし、むしろそれを礼賛することさえあるかもしれない。

 収容所での強制労働が人間を苦しめるのは、それがやらされる側にとって無意味だからだ。それを強いる側にとっては労働力を搾取し、何かを実利的な欲得を満たせるかもしれないし、誰かを痛めつけたり苦しめることで満足したり喜びが得られるのだから有意義だろう。しかし、餌食にされる側にはそれに意味も価値もないのは言うまでもない。だからその環境で収容者は苦しみ、追い詰められ殺されていった。

 「『それでも』人生に然りと言う」というのは崇高ではあるが、だからこそ机上の空論としか思えない感があり、俺はそれについて無視することが出来ない。人間は自分にとって無意味で無価値なことには耐えられないし、また耐える必要もない。肯定できないことを肯定するという道は果たしてないのだろうか。他人に扱き使われ、苦役を被っていることを然りと言える筈がない。しかし、それもまた「然り」だと。

 

 

 元より、肯定できるはずがないしする必要もなかったのだ。赤の他人の汚い欲や身勝手な気持ちを、自分自身よりも優先することは尊いことでもないし、忍耐や辛抱に値するような代物では絶対にない。そしてそれを雀の涙ほどの賃金により強制する正当性もまた存在しない。これはナチスが収容所を造り、異端者や反乱分子をそこに閉じ込め、死ぬまで強制労働させることが「正しくない」ことと全く同じだ。

 会社は辞めようと思えば辞められるという者もいるだろうが、これもまた机上の空論にすぎない。収容所では働けなくなれば即ガスかまど送りにされ殺されるが、会社を首になったり自己都合退職したりした場合、収入を得る術も生活を営む手段もないならば個人は結局のところ破滅するしかなく、それは婉曲的な死を意味する。働けなくなった果てにあるものはどちらも死であるのだから、やはりこの2つは同じだと見なすべきだ。

 ナチスの収容所に送られた人間も底辺階級の労働者も、意識的にせよ無意識的にせよ自身の背景に死を感じている。そしてだからこそ、それから少しでも遠ざかるために両者とも不本意な苦役に甘んじるしかない。前に働かされていた職場で、俺は先輩社員にここで働けなくなったらお前は困るだろうと言われたのを思い出す。それはくだんの背景にある死を顕在化させることにより為された歴とした脅迫行為であった。それは日本中の様々な職場において日常的に行われていることでもある。

 お前の気が晴れるだけの「仕事」など、俺がする義務は毛頭ないと、仮に俺が主張したとしたら、俺が会社でどのような目に遭わされるかは言うまでもないだろう。死にたくなければ従え、言われたとおりにしろ、不服に思うな、不満を感じるな、結局のところそれだけのことでしかない。そして、それでも然りと言わなければならないのだろうか。言えるとして、それは正しいことなのだろうか。

 無意味で無価値で正当性もない命令や強要への屈従、そしてそれに涙を飲んで甘んじる無力な自分に然りなどとは口が裂けても言えない、言うことは不可能だ、否と言うより他はない。誤魔化しや嘘で何かに然りと言うよりも、出来ないことは出来ない、ムリなものはムリ、嫌なことは嫌だと腹の底から思うなり言うなりした方が遥かに健全だと思う。他人に使われることをどんな欺瞞によっても肯定するべきではない。

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