書き捨て山

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個人

 個人とは欲望の擬人化に過ぎないのではないか、という考えが何の脈絡もなく湧いた。思い返せば、俺は常に何らかの個人を恐れてきた。身近にいる家族を恐れ、学校の教師や同級生を恐れ、故郷の人々を恐れ、異土に蠢く有象無象の者どもを恐れ、職場で接触する同僚や上役、業務で対峙する顧客といった類いを恐れ、そして何より己自身の不可解さを恐れてきた。

 これらは全て抽象的な概念や漠然とした集団などではなく、あくまで特定の個人であった。それらの一切を俺は個人であると認識し、それの仔細は別としてもそれに怯えてきたということだけは確信を持って言える。明確な意図や魂胆などを備えた個人がめいめい損得勘定をしながら世の中を渡り歩き、離合集散、合従連衡を延々繰り返す営みが俺には目まぐるしく、本心が朧げで掴みどころがなく、油断ならなく思える。

 しかし、そもそも個人とは一体何なのだろうか。冒頭で触れたようなことに思い至るまで、俺はそれについて深く洞察することもなく曖昧なままにして、それでいてなおかつ、それについて怯えるなどといった大変不合理な状態のまま生きてきたような感がある。俺がそれを恐れなければならない最大の理由がそこにあり、それを明確に認識し、見据えられれば、それへの恐れは霧消してしまうのではないかという気がした。

 これは自他の別なく、人間と言う存在をどのように定義するかという問題でもある。我々は一人一人が別々の個体であり、それについて疑いを挟む余地がないとされているが、そもそも別個の個人と言うものの実相、各々を各々たらしめる本質とは一体何なのだろうか。それについて、闊達で的を射た議論や言説などが世間一般に広められているようには思えない。

 よって、それについては俺自身が自力で試みて結論を出さなければならない。明確に存在し、また尊重されるべきだとされている個人というものの実態とは何か。それについて知ることにより俺は、先に述べたように人間全般への得体の知れなさやそれに基づく恐怖心を克服したい。そのような思いから端を発し、個人とは要するに欲望の擬人化だという結論と結び付けるには、どのような道筋を辿ればいいのだろう。

 

 

 人間に限らず、生物全般は生存することをまず第一に考える。これが最も原始的かつ基本的な欲望となる。生存への欲求とそれを充足するための行いによって、個人というものは明白に定義づけられる。個人的なあらゆる言動はつまるところ、生きるために行われる。これは自明すぎるほど自明であり、社会生活において顧みられることはあまりないが、だからこそ重要であり無視すべきでない。

 生きたいという思いを起源とし、あらゆる他の欲が生まれる。肉体や精神を健全な状態に維持する為に食欲や睡眠欲が生じ、続いてそれらを満たすために安全な住居と豊富な食料を求め、さらにそれらを得るための手段として金銭を必要とする。金が欲しいから仕事を得ようとし、その仕事を首尾よくこなすために良い人間関係を形作りたいと願う。個人のあらゆる行動を動機づける一切は生存への欲求であり、突き詰めれば単純な欲望に基づく。

 この極めて簡単な欲動は個々人に特有のものであり、複製することは出来ない。我々は肉体や精神などを拠り所にして存在しているのではなく、抱いている欲望によって定義され維持存続しているのだと見なすべきだ。人間は身も心も極めて移ろいやすく、また永続するものではない。また、意識が個人の源だとしても自我が芽生える前から自分が生きて存在していることの説明ができず、また気絶したり眠ったりしている間の無意識の状態にある自身をどう考えるかという問題が生じてくる。

 DNA、記憶、戸籍謄本、経歴などといった代物に個人が由来しているという言説があるとしても、俺はそれにイマイチ納得がいかない。自分の肉体を形作るDNAは俺が選んだものではなく、記憶は曖昧で心許なく、戸籍・住民票・各種経歴の類いは単なるデータの羅列にすぎない。これら諸々の情報を編纂して書類にまとめ、これがお前そのものだ、などと言われながらそれを突きつけられたとして、一体この世の誰が「その通り!」などと言うだろうか。

 何を以って個人が存し、何処にそれがあるのかという問いへの腑に落ちる答え、それはつまり欲望である。人間はデータではない、少なくとも心情的には納得できない。遺伝子や社会的な属性を以ってして、それらが躊躇いなく自分自身の本質なのだと確信できる者などいないし、仮にもしそんな人間がいるとしてもそれは「人間的」な御仁ではないだろう。

 

 客観的な事物をいくら並べ立てたところで、人はそれら単体に対して価値や意味などを見出すことは出来ない。ましてや人間存在の根本を成すものは何か、という事柄について考えたり論じたりする際には尚更だ。偉大な国に生まれ素晴らしい街で育ち、好ましい教育を受け、誇らしい職業に就き、満ち足りた交友関係を結び、完全無欠の家庭を築き、誉れ高き子孫を残すことが出来たとしても、それら全ては単なる事実の羅列でしかなく、その中のどこに『個人』がいるのか。

 他ならぬ個人としての自分自身はどのようなもので、その所在はどこにあるのか。それが因果法則や事実関係、静的なデータとして存在して、一考する余地もないのだとしたら、なんだかとてもつまらない。面白くない、心を打たれも動かされもしない世界観の中で生きるのは、ただただ退屈で苦痛でしかない。人間が個人として存在するとしたら、それは果たして何に依ってか。

 それこそが本稿で何度も触れているように欲望なのだ。我々が腑に落ちるような自画像を持つためには、感情的な要素を欠くことは出来ず、それに基づいた自己を思い描けば、その様相は即ち欲望となる。個人とは畢竟、擬人化された欲望なのだと結論付ければ、少なとも俺は納得できるし異論を挟む余地がなく思える。個人が望みを持つのではなく、望みこそが個人そのものなのだ。

 肉体は個人そのものではなく、それが何らかの欲望を備えた瞬間から「私」が始まり、規定される。その欲を持っている間だけ個人は個人であり続け、それが満たされるにしろ興味がなくなるにしろ、欲が失せれば個人もまた滅却される。生存への欲は生きている限り抱き続けるものだから、それが個人なるものを揺るぎなく、確固たる存在たらしめる。

 人の形をして固有の名前を持った欲望こそが個々人の実相であり、これは自分にも他人にも言える。個人の生は出産によってではなく、何らかの欲を持った瞬間から始まる。そして個人の死は脳死や心肺の停止によってではなく、何らかの欲を手放した瞬間に起こる。欲はどのような形でも受け継がれず、個人は永劫不滅のものではありえない。

 

 

 子孫が繁栄したところで、そこに「私という個人」は存しない。思想や財産を子や孫に継承しても、欲望を受け継ぐことは不可能だ。個人の本質が欲望なら、子供を作ったところで、とある一個の人間が生前に有している個人としての自己同一性を保つことはできない。それは組織や共同体、国家といったものを存続させることによっても、成就することは出来ない。

 我々の本質は血でも肉でも骨でもなく欲望であり、それを人の形にして捉えたものが個人だ、他人も自分自身も。自我を認識するとき人は、己が内に秘めている欲望と向き合っているのであり、他者の存在を知覚するとき人は、自分とは異なる個体が抱いている欲望と対峙している。欲はそれ自体は抽象的な概念でしかなく、そのままでは茫漠として捉えづらいから、人間の脳はそれを「形ある個人が在る」かのように擬人化し、明確な形で認識しようとするのかもしれない。

 俺は欲望の化身であり、他人もまた一人の例外なくそれなのだ。結局のところ、それ以上でもそれ以下でもなく、それでない個人としての「私」など、どのような形でも存在し得ない。個人として生きるというのは個体としての欲に則って思考し行動するということでしかなく、もし仮にそれを取るに足らないことだと見なすならば、個人としての生は即ち下らないと断ずるしかない。

 我が生涯が取るに足らないなら、他人のそれもまたそれと同じようなものだ。個我の動物的な欲が名を名乗り服を着て二足歩行し、めいめいの身勝手な願望をぶつけ合っているだけというのが世界の実相なら、一体何を深刻ぶる必要があろうか。己という個人も、他人という個人も、その本性はみな等しく同一であり、それ即ち単なる欲望でしかない。

 個人や人間という代物の正体を見極めれば、そこには尊ぶべきものも尊いものもないと分かる。尊重し崇敬すべき欲望など此の世の何処に存在するか。そんなものは決して有り得ない。しかし、それが卑しいだの汚いだのと見なすのもまた謬見であろう。欲は欲でしかなく、単にとある個体が何かをしたいと思っているだけであり、善悪も優劣もない。そのような意味合いにおいて、すべての個人は平等なのだ。

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