書き捨て山

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神に通ずる人間不信

 他人へのお追従ほど精神を摩耗させる徒労はない。思っていないないことを言い、内心どうでもいいにも関わらず賛同の意を示し、面白くもないのに笑う。それらの処世の術が俺はかなり不得手であり、また人並みにできているわけではない。他人と言葉をかわす最中、俺の中で薄ら寒い何かが頑としてあり、その片鱗が顔や態度にどうしても出てしまう結果、俺は対峙している者共を苛立たせてしまう。

 つまり俺は、他人からしてみれば「ムカつかせる奴」なのだという。何処の職場でもいつも決まって俺は、そのような指摘や評価を受けてしまう。やれお前は俺をナメてんのか、だのお前は俺に対してありがたいと思わなければならないのに云々、だのと言う者が一人や二人ではなかった。それらが単に人格破綻者と言うか精神異常の気が有るというのもあるだろうが、俺自身にも原因の一端はある。

 俺に対して上記のような感情を抱いたり面と向かって物言いを付けてくる連中というのは、要するに俺が自分たちのことを尊敬しておらず、それが透けて見え察することが出来るから不服だということなのだろう。逆に言えば、自分自身に対して他人、少なくともこの俺ごときに限って言えば自分のことを敬い崇めるのが当然だと考えているのだろう。

 こちらとしては、たまったものではない。労使契約以外の繋がりなど一切ない赤の他人を尊敬したり敬意を払ったりする義務が、俺にあるというのはオカシイなどというレベルの話ではない。何様だと思っているのかと言ってやりたくもなるが、それ以上にその手の連中というのは、俺に対して相当に侮り、見下していると言う一点は特に看過すべきでないだろう。

 とどのつまり、お前ごときがこの俺を敬わないなど有り得ない、という話なのだ。他の者はともかく、少なくともお前ごときと比べればこの俺は偉く、優れ、目上なのだから、崇敬の念を自ずから抱き、自己犠牲の精神を貫徹し平身低頭、全身全霊でこの俺に尽くすべきなのに、お前はそれをしようとも思わないのは明らかに筋が通らない、ということなのだろう。改めてそのような御仁の大御心を慮れば、おぞましいと言うより他はない。

 

 

 たしかに俺は何人たりとも敬ってはいない。ある集団などにおける主従や上下の関係性に基づいた偉い偉くないの峻別はつくが、それは建前や形式の上での事柄を踏まえた話でしかない。俺はそこから先の、心からの畏敬や心服といった念を心から何者かに抱いたりは一切しない。それは結局のところ、能力や地位などの基準から彼我を比較したとしても、俺の精神の中において人間全般というものは、どのような存在であっても崇め奉りたいと思えない。

 しかしそれは、俺が傲慢で増長しているということでは決してない。自己愛や自惚れに端を発して俺が他人を軽く見ているなどと思われるのは心外であり、的はずれな謬見にすぎないと主張したい。俺は、人間という代物は自分であれ他人であれ、身内であれなんであれ全く一顧だにする価値などないという信念のようなものを持っており、それに基づいてのことなのだ。

 この世に生きる者共は、誰一人として重んずるに値しないと、俺は断言する。ましてや高々仕事上の付き合いにおける目上目下の関係性において、業務に不必要な感情などを持つ義務などないのだから、例え対峙する存在が総理大臣だろうが天皇だろうが、俺は儀礼的な礼を尽くす以上のことは一切するつもりなどない。人間というのは畢竟、ロクなものでないし、また大したものでもない、自分自身も含めて。

 生きている人間は尊くない。それどころか汚らわしいと感じることさえ、俺にはままある。第一に俺は人間という種そのものが嫌いだ。臆病かつ驕慢、貧弱かつ強欲、愚鈍かつ尊大な個体が好き勝手に世の中を肩で風を切って渡り歩く様を思い浮かべるだけで憎々しい。此の世の一体何処に、敬うべき高潔で立派な、高貴な存在がいるというのか。百歩譲っているとしても、それは少なくとも日常の生活の中で邂逅する「奴ら」などではない。

 そもそも、偉い人は偉そうにしないし敬うべき者はそれを他人には要求しない。俺をどれだけ低く値踏みしているか知らないが、それらを俺に強要する時点で彼らは偉くもなければ敬うべき立派な人物でもない。自分のことを尊重しない人間を尊重する必要など毛ほどもない。俺のこの言説を指して傲慢だの生意気だのと言う者共に、いったいどのような正当性があるというのか。土台、連中にそんなことを言う資格などない。

 

 人は信用にも尊敬にも値しない。それらの念を抱いて献身すべき何者かが此の世に生きて存在しているなどと、俺にはこれっぽっちも思えない。何故お前は俺を尊敬しない、と詰問されても困る。ソイツに限らず、俺はどんな人間に対しても敬意など持ちはしない。俺は生者の権威など認めることは修正ないと言い切って良いかも知れない。たとえ自分よりもどれだけ社会的に上の存在であったとしても。

 俺は神の存在を確信しており、それだけにひれ伏す。俺は人間よりも大きなものに帰依する気持ちだけを持っているし、それはどんな相手と対峙していても絶対に変わらない。俺を変えようと試みた者はこれまでに大勢いたが、それは無駄骨というものだ。俺には岩のように硬い神への信仰心があり、それよりも優先される他人など天地がひっくり返っても現れようがない。

 俺は神の全容を知らないし、見たこともないがそれでも俺は神に跪ける。何故そのようなことが可能かと言うと、人間に一切の価値を認めることが出来ないからだ。誰も敬えず、信じることも出来ない人間は詰まるところ、神と直結する道しか歩めない。人の世に対するあらゆる望みが絶たれているからこそ俺は、神への信仰心を高く保ちそれだけを畏れ敬うのだ。

 俺にとっては神が唯一で全能かどうかすら断言できないが、少なくともそれが人間より大きな何かであることは断言できる。そのような観点から言えば、神は人よりは信じるに値するという思想を抱くのは当然の帰結だ。つまり、人間より大きなナニモノかを想定し、人間よりもそれを優先するというだけのことだ。さらに言えば、欠点だらけで不完全な生きた人間を拝むよりは、神にそれをする方がまだ健全だというのは自明ではないか。

 全貌を知らなくても、いや知らないからこそ安心して崇拝できるのだ。数え切れないほどの我欲を抱き、腹に一物ある生者の都合の良い一面だけを抽出して全幅の信頼と尊敬の念を抱くなど、あまりにも危険すぎる。ふとした瞬間に俺を欺き、騙し討を食らわせるかもしれない個体のことを俺が信じられないとして、それの一体何が悪いというのか。それは俺の情緒や精神、ひいては知能の欠落だとでも言うのか。

 

 

 此の世の誰に対しても、ほとほとウンザリさせられる。そんな俺に残された道は、神を信じ縋るしかない。俺は人間という代物に愛想が尽きた。神の御心がどのようなもので、それがどのような姿形をしているかを俺は知らない。だが、不可知にして不可捉なナニモノかこそが神秘であり、それにこそ本当の価値があるのだと俺は言いたい。分からないからこそ、信じるに値する。

 無論、信じたところで功徳もなければ利益もないが、それでも生きた人間に心酔するよりは遥かにマシだしマトモな精神だと言えるだろう。俺は宗教は信じないが神は信じる。人間不信は人を神と直接結びつける効用があり、俺の場合はそれがそのまま作用したのだ。宗教に依らずに神に祈るには、世間や人間全般に対して絶望しなければならない。

 所詮、宗教というのは社会的な人間関係の中に存在する集団や機構でしかない。神性と人間性は究極的には相容れないと俺は考えているし、それならば宗教というものは俺には全く不要である。俺の目にはどのような宗教団体であっても会社や役所と同一の集団ように見えて仕方がない。つまり、人間というものを思い切れない人間が頼ったり属したりするものが宗教であり、神云々など実のところどうでも良いのではないだろうか。

 信心は人道や人間性の対極にある。それは人間関係を蔑ろにしてでも自らと神との間の関係性を優先するということでもある。ともすれば、それは反社会的な思想を涵養するものであると言えるかも知れない。生者を見限り、世間に絶望し社会を憎んだ果てにあるのが神の世界への憧憬である。そしてそれらの念を根底から支えるのは、自分自身への嫌悪感だ。

 結局、他人に尊敬や感謝を強要された時、俺は何もやり返せないのだという、事実だけがそこにはある。死ねばいいのにと思いながらも、現実にはお追従に徹しながらも魂胆を見透かされ、それが帰って裏目に出るという醜態を、これまで一体何度俺は演じてきただろうか。この屈辱を味わいながら、不服に思いながらも自力ではどうすることも出来ないのだから、紙に頼りたくもなる。

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