他力斎

雑記、雑感その他もろもろ

疲労と不機嫌への処方箋

 最近疲れてかなわない。俺には仕事以外でやらなければならないことが沢山あるにもかかわらず、その半分もできていないのが実情だ。なぜ出来ないかと言うと、時間がないから、というのが第一の理由であるが、さらに踏み込んで言えば疲れていてやるべきことに手を付ける時間を割けないからしなければならない事ができないという様相を呈している。

 寄る年波には勝てないと言いたいところだが、別に若い時分には活発だったとか精力的だったなどというわけではない。と言うよりも俺は未だ老いや衰えを感じるような年齢には達していないのだから、歳のせいにするのは的外れも甚だしいだろう。疲労の原因が判然としないのは我ながら困ったものであるが、それについては多少の無理が利くだろうからとりあえず良しとしておきたい。

 しかし、目下それ以上に問題なのは不機嫌である。俺は倦怠感と同時に不愉快な感情まで拭い去ることが出来ずにいて、どちらかと言うとそちらの方がより深刻な問題であるように感じられる。疲れてやる気が置きない自分自身に対して憤りを覚えるし、俺を疲れさせる外的要因をもたらすあらゆる人間や物事に対して嫌悪の情を抱かずにはいられない。

 本当に、何かにつけて気に入らなく、腹立たしさや疎ましさが何に対しても募り募って仕方がない。厭離の念はいよいよ強まり、もしも願いが叶うなら、隠遁して憂いも迷いも無縁な世界に逃げ込んでしまいたい思いに駆られる。それだけでなく、此の世の全てに不機嫌な感情を持つせいで、それが疲労感をより一層増幅させるという悪循環にも陥っている始末だ。

 だがそれは人としては無理からぬ事だとも言える。俺は低い賃金で長い時間拘束され、先行きは暗く夢も希望もない。そんな生活の中で快活に振る舞えるのは単に頭が悪い人間だけではないだろうか。俺は言うまでもなく愚鈍ではあるのだが、現状を正確かつ詳細に認識する程度の知能は、不幸にも備わっている。そしてそれのせいで却って色々と余計な懊悩を抱え込み、それが精神を摩耗させて心身を疲れさせ、なおかつ慢性的に気分をも損ねているのかも知れない。

 

 

 自分を一個の人間、一個体の生命体として考えたときに現状を悲観せず挫けずに暮らすなど到底不可能だと言わざるをえない。俺は子供の頃から悪い意味で客観的に己を見るところがあり、その生来の気質により愚考に耽り塞ぎ込むような性分が形成されてしまったのだろう。自分など取るに足らず、醜く下らない存在だという思いを拭い去ることが出来ず、それが俺自身をより一層、矮小で野卑な存在にしていたのかもしれない。

 己のみに限らず、人間存在それ自体についても俺はどうしても好きになれなかった。誰も彼も身勝手で狭量で、愚劣極まりない存在にしか思えず、そのような手合いの為に献身したり奉仕したりすることが嫌で嫌で仕方がなかった。しかし結局、社会全体があらゆる手を尽くして俺にそれを強要するから、俺は厭世感を抱くしかなかった。遂に俺は人間という種そのものへの忌避感情を持つに至った。

 俺は自他の別なく、此の世における誰一人たりとも愛することができなかった。世間は碌でもない場所であり、それを構成する余人は呪われるべき存在であり、またそれらに良いように扱われる己自身もまた度し難い下等生物でしかないと結論付けるしかなかった。そしてその結論が俺に虚無感や嫌悪感をもたらし、不機嫌にさせ疲れさせるという有様だった。

 森羅万象の一切に愛情もなければ興味もなく、その一事が俺を無気力にさせる。それは俺が自身を人間だと見做しているからだろう。人間を愛することが出来ないから、それを取り巻くあらゆる全てが塵芥に等しく感じられる。そんな認識で生きている者が、一体どのようにして積極性を持って生を全う出来るというのだろうか。土台それは無理な話だと言うより他はない。

 それを打開するには、人間よりも大きな何かに依るしかない。それがどのような存在か皆目分からず、その有無を実証する手立てや知性など俺は全く持ち合わせていないが、それらが無くても成立するのが本当の信仰心というものだろう。人間が此の世で最も重要で、世間における一切合財が何にも増して大切であるなどというのは単にそれを前提とした世界観によるものでしかない。

 

 人間が一番大事、などというのは数多ある思想や物事への見方の一つにすぎない。それに異を唱えることを禁ずる権限をもつ者など此の世に存在するはずがない。人間としての生が重苦しく辛苦に満ち満ちているように思えるのは、それを余りにも課題に評価しているからなのではないだろうか。人間存在というものが、所詮は大した代物ではないと断ずることができれば、人は自分にも他人にも気楽に向き合えるような気がする。

 生きた人間が尊く価値があり、掛け替えがない唯一にして無二の存在だと見なす考えは我々を幸福にはしないように思える。誰も彼も腹に一物持っており、欲深く嘘つきで、陰険で強欲な身勝手な存在でしかない人間という代物に対して、無上の価値を設定する思想は結局のところ無理がありすぎるし、それにより煮え湯を飲まされたり苦杯を舐めさせられたりした経験は、誰にでもあるはずだ。

 他人に欺かれるだけならまだマシだが、我々は自分自身の人間性というものもまた、他者のそれと同様に苦しめられ悩ませられる。己の無力さや愚かさ、未熟さに泣いたことがない人間など存在しないだろうし、自己嫌悪に陥るとき人は誰でも無気力にならざるを得ないだろう。それが遠因となり倦怠感や不機嫌を生み出し、この俺を責め苛んでいるのかも知れない。

 生者としての人間など取るに足らないが、それよりも大きな何かを信じることは出来る。人間よりも神を畏れ敬うことで、冒頭に述べた諸問題への解決の糸口が見出させるかも知れない。人間として人間に絶望し、見限り、思い切るという段階に留まること無く、その人間よりも遥かに大きなナニモノかに帰依し頂礼しなければならない。そしてそれにより俺は人知を超越した境地に至り、疲労感や倦怠感、不機嫌の情を克服できるのではないか。

 だが、それは特定の宗教団体に帰属するのでは断じてない。これは飽くまで一人きりで成さなければならない。宗教とは人間の世界に属する機構でしかなく、それは人間性の発露により生み出され存続させられる。俺が志向すべきなのはそれとは対極のものだ。神性とは畢竟、人間性とは全く対になる性質であり、愛や感謝などといった言葉や概念もまた、人間の世界とは無縁の代物だとも俺は思っている。

 

 

 俺は人間存在そのものを倦んでいる。それは世の中における万人に対して抱いている感情だ。特定の誰かを敬うことなど俺は絶対にしない。生きた人間の権威など俺は決して認めはしない。それは俺が傲慢で尊大だからではなく、人間という存在それ自体が一つの例外もなく偉くも尊くないと確信しているからだ。そしてそれは自分自身についても同じである。

 誰も彼もみな、等しく無価値であり、重んずるにはとても足りない。だから誰かが俺を蔑んだり嘲ったりしていたとしても、それに俺は何かを感じる義務も必要も一切ないと胸を張って言える。そしてそれは偏に神への信心によって為し得る功徳に他ならない。俺は人間よりも大きなものを信じることでそれを克服し、それが俺に与えるあらゆる危害や災厄を無効に出来る。

 疲れも不機嫌も人間として所与されるものでしかなく、神と直結する感性の前には全く用を為すことはない。此の世の生きた何者であろうとも、己を苦しめることも悩ませることも能わないなどと、俺が大言壮語を言ってのけられるとしたら、それは神への信仰だけがそれを可能にするのだ。そして重ねて述べるように、信心はその対象について知らなくても全く問題ない。

 人間はどこまでも人間であるがゆえに苦しめられ、悩ませられる。自分がほかならぬ人間であり、他人もまたそれであり、それであることを基準にし値打ちがあると見なすから我々は艱難の只中で煩悶し、鬱屈とした心持ちで生きていかなければならない。それを肯定できるかどうかが普通の人間とそうでないものの分かれ目であり、もしも後者であるならば、神に縋るしか道はない。

 人力の限界を超えるには、神力に依るしかない。俺はもう、人間として被る一切に疲れ果て、嫌気が差し、八方塞がりで天を仰いでただ、どうすることもできないという状況に陥っている、やんぬるかな。個体として、個人として、自力など高が知れており、人間としての命運はとうの昔に尽きているからこそ、此の世のものではないナニモノかに帰依する以外に手はないのだ。