他力斎

雑記、雑感その他もろもろ

愛されず、また愛さない

 俺は誰からも愛されない。ここで述べる「俺」というのはありのままの自分を指す。それが何者かにそのままの形で肯定され受容されたことなど、俺の短くない生涯において終ぞなかった。俺はどのような場所、どのような局面においても常に虚勢を張ったり建前で取り繕ったりすることを要求ないし強要され、他者が設定した基準をそれが満たした時にのみ、はじめて俺という存在は受け入れられるなり何なりしたものだ。

 だが、その受け入れられた自分など、本来の自分自身とは言えない代物だ。所詮それは他者の理想という名の鋳型に強引に己を填め込んだ単なる虚像にすぎない。此の世のあらゆる者共が俺にその虚像に成り切ることを強いてきたし、それは実の両親も例外ではなかった。父も母も自分たちの長男として俺を育て定義し、俺がその想定から逸脱するような願望や考えなどを抱くことを絶対に許さなかった。

 「お前の親だから言っているのだ」などといった台詞を、両親から何度聞いたか分からない。しかし、その言葉の裏にあるのは、お前は自分たちの子供であり、それとして相応しい存在として徹することで初めて存在価値が生まれるのだ、という主張ではないだろうか。逆にもし、俺が赤の他人であったなら、彼らは俺のことを絶対に許容しないという意思の表明としてくだんの発言は受け取れなくもない。

 他方、社会におけるあらゆる集団や状況においても俺はある一定の役割や機能を果たすことを常に求められてきたし、その条件を満たせなければ完膚無きまでに攻撃や排斥の対象にされたものだ。本当の自分など、何処に行ってもお呼びではなく、俺はある場において相応しい存在として機能することに徹しながらも、それに何の喜びも見出だせずにおり、却って侘しさや窮屈さを感じずにはいられなかった。

 翻って、俺もまた誰かをありのままの姿で愛したことな一度もなかった。飾り立ても取り繕いもしない他者の存在に、然りと言った経験など俺には終ぞなかった。要するに俺は誰からも愛されたことはなかったし、また誰一人も愛したことのない男なのだ。自分にとって都合の良い相手を値踏みしたり見定めたりしてはじめて俺は、他者に好意を抱いたということをここで白状する。そして、それは愛と呼ぶには余りにも足りない感情であると断ずるより他はないだろう。

 

 

 しかし、それの一体何が問題だろうか。俺はありのままの姿で愛されなかったが、それ自体は別にどうと言うことはない。人間はどのような集団や組織、機構の中に身を置くとしても、何らかの役割を果たすことを常に要求されるものであり、それはたとえ家族であっても変わりない。俺と両親の関係について前述したが、息子に息子たれと言う親心をもってして、ありのままの自分を認めてくれなかった、などと言い立てるつもりは毛頭ない。

 俺はただ単に、それを求めることも応えることも、愛ではないと主張しただけだ。たとえ実の親子という間柄であっても、その関係性において愛など芽生えることはない。どのような事情や背景があろうとも、別の個体に対して、自身の理想や都合を投影したり押し付けたりすることを指して、それが愛などとはとても呼べない。それは此の世のありとあらゆる、全ての人間関係において、愛と呼ぶに足る感情が生まれる余地も可能性も、微塵もないということを意味しているのだ。

 愛とは神域に属する概念や感情であり、人間が人間として達成したり実践したりすることは出来ない。愛について細かく定義するならば、それは無条件の肯定と受容、そして無限の奉仕と献身とでもいったところだろう。しかしそれを人間として此の世で実行に移すことは可能だろうか。完全に厳密な意味合いにおいて、そのようなことが可能な人間が一人でも居るだろうか。

 人は打算や損得に基づいて判断し行動するものであり、それらは悪徳ではない。また、無条件かつ無制限に自らの何かを他人に与え続けることも不可能だ。それは単にしたくないからしないというのではなく、仮にやりたいと思っていてもとても出来はしないだろう。愛というのは人の世においては完全に実践不可能であり、その愛という概念の不可能性について、決して強調しすぎることはない。

 無条件かつ無制限に何かを与え続けたり許し続けたりする愛の能力など人間は端から持っていない。そしてそれは欠落でも不備でもなく、人間存在の実相であると考えるべきだ。一体何処の誰が、厳密な意味合いにおいて愛の実践などできるものだろうか。そして仮にそれを実行に移す者が現れたとして、それは暴挙以外の何物でもないと言うしかないのが現実だろう。

 

 要するに生きとし生けるものとしては、愛など所詮は幻想でしかない。人は無制限に与えることは出来ず、また無条件に許したりもできないものであり、それこそ正に人間性というものであり、それに基づいた振る舞いこそ人道というものだ。人間は人間としての分を知らなければならず、それを弁えるならとても何かを「愛する」など出来ないし、言えないだろう。

 愛とは即ち神性の顕現であり、それをその辺にいる有象無象が体現することなど到底無理だ。人間というものは元来、愛する能力を先天的に有していないのであり、出来ないことを出来ると錯覚したり吹聴したりするのは浅薄極まりない。それは滑稽を通り越して哀れですらある。人は何かを本当の意味で愛することなど有史以来なかっただろうし、これから先も絶対にないだろう。

 人間性は愛には決して到達せず、むしろその真逆を体現するだろう。人間が人間であり続ける限り、それは絶対に覆ることがないということを、我々はゆめゆめ弁えなければならない。本当は単に利得を求めて誰かと関係を結ぼうとしたり、何かを与えているにすぎないのに、その対象を愛しているのだと言ったり思ったりして憚らない者は、いつか必ず問題や災厄を引き起こす。

 人間が何かに干渉するしたり行為したりする背景にあるのは、自身の利害得失に基づいた利己的な実利の追求である。そしてそれは重ね重ね言うように絶対に愛たり得ない魂胆の発露でしかないのだ。どんな対象に対しても、人間は愛することなど出来ないということを万人が弁えることが出来たなら、世の中はもう少しマシな様相を呈するようになるかもしれない。

 誰からも愛されないというのは、単に人間の能力を正しく見極めた上での客観的な事実の羅列にすぎない。人はだれかを愛することも愛されることもないというのが此の世の実相であり、それ自体は良いことでも悪いことでもない。人間が愛し合える可能性が少しでもあるなどというのは迷信でしかない。自身が何かを愛しうると考える者は、己の貪婪に無自覚な醜悪な人種だと断言してよい。

 

 

 何度言っても言い足りないが、愛とは神性に属する感情である。それは人間社会においては顕現し得ない神の領域のものであり、人生は本来それとほとんど無縁である。人間が人間として生きる世界において、愛し愛されることは果てしなく遠い。人間である限り、愛は実現も実践も不可能であり、どうしてもそれを乞うならば、人は神に祈るより他の選択肢などない。

 愛だけではなく、人間には縁遠く実現不可能な神域の概念は数多くある。完璧や完全、絶対などといったものもまた然りだろう。厳密な意味で言うところの至福や満足といったものもそうかもしれない。今挙げたこれらの全ては人間性とは相容れない声質を持つものであり、人間でありながらこれらを追求するのは道理に反する愚行に他ならない。

 神性と人間性は究極的には対立し、決して交わることはない。人間でありながら神の領域に足を踏み入れようとする者と、俺は絶対に関わりを持ちたくはない。それを自他に要求するのは根本的な矛盾を孕んでおり、それを此の世に顕現させようとする者は自分も他人も皆等しく不幸足らしめるだろう。己が出来ないことを出来ると思いこんでいるものは極めて危険なだけでなく、有害でもある。

 人間性、人道または人生などは何処まで行っても算盤勘定の域を出ることはなく、愛をはじめとした抽象的で高尚な世界とは永遠に交わることはない。我々に必要なのは、自らの不可能性を重々承知することであり、分を弁えない大言壮語では絶対にない。にもかかわらず世間では、愛だの何だのといった言葉が軽々しく流通しているのは誤った風潮だと思う。

 神性を備えたものだけが人間をはじめとした何かを愛しうる。言葉そのままの意味で何かを愛する能力を具有しているのは神だけだ。愛は人間同士で融通し合うものではないし、社会や世間のうちで流通するような代物では絶対にない。愛を注ぐ対象が生物であれ無生物であれ、人間だろうが非人間だろうがそれは机上の空論や絵空事でしかない。愛情などというものは世知辛い浮世の中で見る幻影や妄想でしか有り得ない。