壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

いま

 前触れもなくふと、嫌なことを思い出した。詳しいことは省くが、それは俺が中学生の頃の記憶だった。とにかく俺はそれを思い出したのだが、それは全く何のきっかけもなくもたらされた俺の内的な現象だった。自分でも己の心の動きが全く奇妙に思えてならない。それを思い出す引き金が一切存在しないにもかかわらず、俺はそれを唐突に想起し、それが起きた当時と同じ気持ちに苛まれた。

 単に客観的な事実を思い浮かべただけではなく、俺の主観においては当時味わった感情についてもかなり明確かつ鮮明に思い出した。それは俺にとって、嫌な記憶なのだが、単に出来事だけを思い出すだけではとどまらず、アリアリと当時を追体験したような感じがした。それはもう二度と味わいたくない思いだったが、突発的に今日、今というこの瞬間にそれを再び被るハメになった。

 俺は思い出した当時の感覚があまりに鮮明であったため、現実の世界に於ける今のことなど完全に捨て置いてしまった。もっとも、家の中にいて大したことはしていなかったのだが、それでも俺は自宅で寛いで時間を過ごしていたのだからその瞬間の状況とそれが与える精神状態のみを体験するのがスジというものだろう。だが、俺はそれよりも過去の記憶を回想し、それに基づいた感情まで思い起こされ、現実の今はそれらにより完全に押しやられてしまったのだ。

 俺の主観的においては、物理的に身を置き五感により目下体験している「今」というこの瞬間よりも、頭の中で起きたことの方が優先されたのだ。いや、後者の事柄も考えようによっては「今」まさにこの瞬間に脳内で回想した出来事であり、頭の中で今起きたことだと言えなくもない。物理的には過去であるが、精神活動としてはそれを今に分類したとしても必ずしも間違いでも暴論でもないだろう。

 果たして「今」とはどのようなものなのだろうかと、俺は疑問を抱いた。頭の中で今この時にふと湧いた追憶は、物理的な現在と明確に峻別できるのだろうか。客観的かつ物理的な意味合いにおいては論ずる余地もないだろうが、俺が問題にしているのは飽くまで主観的な体験としての今である。かつてのことを今思い出したとしたら、それは在りし日のことではなく、現在に属すると見做したほうが妥当なのではないか?

 

 

 人は記憶をたどる時、単に事実関係だけを想起するのではない。人間が何かを思い出すにあたり、どうしても感情も含めてそれを振り返ることになる。そしてそれは客観的に出来事を干渉するのではなく、当事者として再びそれを体験するのだ。冒頭で俺が思い出した中学生時代のある事柄も、純粋なその出来事だけを何となく思い浮かべたのではないというのは、前述のとおりだ。

 改めて考えてみれば、肉体的に目下この瞬間に体験している感情と、思い出したそれとの間にどのような違いがあるだろうか。双方とも突き詰めれば、脳内の精神活動という点では同一の現象だ。これらを分けるのは客観的に今この瞬間において物理的現象として起きた出来事かどうかという違いしかない。そしてこの違いは個人の体験としては重要だと言えるだろうか。

 人生というものは畢竟、主観的かつ個人的なものでしかない。客観という代物は、個人の生においては殆ど無意味であると言い切って良い。肉体的に身を置いているこの瞬間において起きている事かどうかなど、人間にとってはどうでも良いことであり、遠い昔のことでも現在アリアリと思い浮かべているなら、それは今起きているも同然だと見做してよい。

 例の中学時代の出来事に限らず、俺は数多の事柄を思い出す。それらの殆ど全ては思い出したくないものばかりだが、とにかく俺は頻繁にそれらを思い出し、その度に嫌な思いをさせられる。その思いを反芻する度に俺は、その出来事を体験していると言っい良いだろう。あの時のことは俺にとっては紛れもなく今この時のことに他ならず、そしてそれは一回きりのことではなく、何度も同じ事が俺の脳内で繰り返される。

 今とは正に夢のようなもの。リアルタイムに起きた今よりも、ともすればそれと同時に思い浮かべたかつての出来事への思いの方が心象の上では勝り、後者にまつわる感情が前者に上乗せされたように感じられる。昔と今の境界線というものは、実のところ存在しないのかも知れない。どのような追憶や回想であっても、それは現在に属した他ならぬ今起きた現象だ。

 

 未来も過去と同じく偏に幻想だ。どのような将来であっても、今現在頭の中で思い浮かべているイメージに過ぎず、それに基づいた感情の全てはその瞬間に全て体験している。よって未来もまた現在に起こっていると見なすのが妥当だろう。そのような意味で述べるなら、人間には未来などない。我々は永遠に続く現在を生きているに過ぎず、あらゆる思いは全て頭の中で今起きている。

 時間という概念そのものが妄想の産物でしかない。これまで書き連ねてきたとおり、人間が認識できるのは現在だけだ。全ての認知や知覚が現在にのみ起こるのならば、それがもたらすあらゆる情緒や感情といったものもまた、現在だけに存する。「今」は全ての過去と未来を内包し、それらに付随する全ての思いもまた含んでいる。「あの時」も「いつか」も上辺だけの見せかけに過ぎない。

 生まれてから死ぬまで、どんな瞬間であってもそれは現在の域を出ることは決してない。過去から未来という時間軸の中を生きているというのはそれ自体が謬見だ。少なくとも主観において、どんなことも今に属している。かつてあった何かを楽しかったと思ったなら、それは他ならぬ今そう思っている。いずれ起こるであろう恐るべき未来への懸念は、今現在抱いている感情だと言える。

 いま思い、いま感じる、生きるとはとどのつまりそれだけだ。前も後ろも、彼岸も此岸もなく、尾を引く過去も臨むべく未来も存在しない。一期一会のこの瞬間に生じる全ての出来事が、絶え間なくただ起こり、一度過ぎ去ればもう二度と再び訪れることない。反復されず、振り返れず、見越すことも出来ない。どのような些細で、有り触れた事象や事柄であったとしても。

 さらに言えば、人間は物事に直接対峙しているのではない。我々が何かを認識する時には、必ず情動の変化がある。何かに直面しても、感情がそれにより動かなければ、人間はそれを意識することもなく、それについて覚えておくことも能わない。認知できるかどうかと心が動くかどうかは不可分であり、延々忘れられず頻繁に思い出すことは即ち、延々・頻繁に心が揺さぶられる体験に他ならない。

 

 

 印象深く心に残ることは大抵、誰にとっても嫌な思い出だろう。穏やかに愉快な気持ちで過ごした時間についてありありと思い浮かべることは稀だろう。我々が鮮明に想起できるのは蹉跌や喪失、災難や被虐に関することであることが殆どだ。失ったり痛めつけられたりした経験は、それに再び見舞われないように脳が念入りに学習するためにより情緒を掻き立てられ、それにより記憶に定着する。

 そしてそれを我々は幾度となく思い出す。トラウマなども前述のような理由や背景によって人間にもたらされるものだろう。生きる上で人間は、突発的に直面する一つ一つの事象に反応するだけでは不十分だ。そのため我々は、時折り過去のことを引き合いに出しながらそれを頭の中で仮想的に体験し、それと似たことを実体験として再び被らないように用心するのだろう。

 また、人間は未来についても幾度となく予想する。過去について「今」思い出し、それにまつわる感情を「今」経験する。そしてそれを踏まえて将来に自身に降りかかるであろうことを「今」推し量り、それにまつわる感情を「今」経験する。経験とはどのような性質のものであれ、ひとつの例外なく「今」受けるものであり、感じるものである。

 時間というのは所詮、感情を増幅させるための方便なのだ。それ自体が歴然と客観的に存在するのではなく、それは人間が抱く頭の中における認知に都合が良い想定でしかない。重ね重ね述べるが、その認知には感情が不可欠であるため、それはつまり何かをより印象深く覚えたり意識したりするための方便は、情動をより大きくするための仕組みでもあるのだ。

 過去を今思い出し、トラウマを今感じ、先行きの不安を今抱き、将来の展望を正に今見ている。どのようなことであろうとも、全ては他ならぬ今に起きている。そしてどのような感情であろうとも、全ては他ならぬ今に生じる。今が全てで、それ以外には一切は存在し得ない。人間の認識においては、主観を離れた客観など何の意味も価値もなく、全ては今この瞬間だけで完結する。