壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

 「お前はなぜ俺が思った通りに動かないのだ」というような台詞を吐くような人間と、これまで何度も巡り合ってきた。その人間からしてみれば俺は、言いなりになるだけでは足りず、その者と以心伝心で相通じ合い、彼の魂胆や心情の全てを推し量り理解し、命令する前に全てを察して我が身を顧みず「それ」に尽くして当然であり、それをしないことは不当であるばかりか道理に反するということなのだろう。

 言われたとおりにし、慮ったとしてそれでもまだ十分でない。俺は未来に起こる全ての事柄について万事正確無比な予測を立て、その者に最大の恩恵を与えるために一切を知悉し、全身全霊で彼に奉仕しなければならない。彼にとって何か気に食わないことがただの一つでもあったとしたら、俺はそれについてあらゆる咎を負わなければならず、己を捨て人生の全てを掛けて彼に献身しなければならないのだ。

 全く迷惑極まりない。一体その人間は俺にとって何だというのか。それは俺にとって身内でもなければ同じ釜の飯を食った10年来の大親友というわけでもない。それらは単に労使契約に基づいた幾ばくかの関わりがあるだけだ。その関係性の中で目上目下という立場の違いはあったとしても、所詮その程度のことが一体何だというのだろうか。少なとも俺が連中のために身を粉にして働く義務など絶対にない。

 にもかかわらず、連中は俺が自分たちに従うべきだと考えている、何故だろうか。まず、この俺のことを相当見下しているというのが第一の理由だろう。自分と比べて、あらゆる点で俺の方が下等であり、マウンティングする上で十二分な対象だと見做していいるから無条件で己が上に立ち、俺に無理難題を押し付けることを当たり前だと認識することが出来る。

 そしてもう一つの理由として考えられるのが自身の徳への確信と過信だ。くだんの手合いは己に他人を靡かせ従わせる価値があると信じて疑わない人種だ。その資質や要素に名をつけるとしたらそれは即ち、徳だ。自分がそれを具有していると漠然と、しかしハッキリと信じているからこそ、連中はこれまでに述べたような自惚れを臆面もなく発揮し、傲慢不遜で恥知らずな主張を堂々とする。

 

 

 では、徳とは一体何か、その正体はどのようなものだろうか。俺を虐げる連中は自分にそれがあるという前提で物を言ってきたものだが、彼ら自身は「それ」についてどのように認識していたのだろうか。それについては想像するしかなく、単なる自惚れとして片付けるしかないが、強いて言えばそれは人気とか人間的な魅力といったものと定義するのが妥当なのかもしれない。

 徳という言葉はあまりにも曖昧なまま世間で流通しているし、個々人の頭の中で大して深く考えられもしないままに何となく扱われているような感がある。人徳などという言葉は厳密な定義をする必要もなく、誰に対しても通用する代物だ。好む批判に用いられる文言が毒にも薬にもならないような人畜無害なものであるならば、俺もそれを気にも留めないだろうが、実際はそうではない。

 俺は他人が振りかざすその徳によってこれまで、散々苦しめられ、悩まれてきたのだ。他ならぬ自分自身には少なからず徳があるのだと信じて疑うことがない、厚顔無恥な者共は、いつも俺を虐げ利用し、酷使してきた。俺はその者共に延々と被害を被ってきたのだから、連中が振りかざす徳と言うもののについて、よくよく熟考し洞察を深めなければならない。

 前述に触れたように徳というものが人気や人に好かれるということを表す言葉や概念だとしたら、それが自分に存すると信じる人間というのは俺には理解出来る範疇を超えている。自惚れる気持ちは誰にでもあるだろうが、自分には徳があり、それにより同輩以下の存在を動かせると確信できる人間の面の皮の厚さには恐れ入るというより呆れるしかない。

 もしかしたらそれは、相対的なことなのかもしれない。つまり、自分と比較して俺を格下だと見做しているから、俺に比べれば自分は価値も能力もあるのだから、慕われ敬われて当然だと考えているのかも知れない。本稿で取り上げているような人種であったとしても、自分より目上の存在に対しては、徳を振りかざすようなことはおそらくしないだろうし、それにより上に立ち、傲慢に振る舞える相手を選び、俺に標的を定めていると考えるのが自然なのかも知れない。

 

 要するに、俺はナメられているのだ。「お前は俺をナメてんのか?」などと面と向かって言ってきた者がいたことを思い出したが、それを発言した存在の方が逆に俺の方を舐め腐っていると考える方が妥当だ。俺を見下しているからこそ前述の台詞を当然ように吐くことが出来るのであり、明確な上下関係や主従関係をその者は念頭に置いており、それに照らし合わせて俺の言動が気に食わないと言っているのだ。

 そんな御仁に徳などない。そんな手合いを慕ったり新婦したりする者など此の世に存在するはずがなく、それのために自分を犠牲にしたり割りを食ったりして何かをしたいなどと欲する人間などいるわけがない。それは自明すぎるほど自明なことであり、一々論じるまでもない。にもかかわらず、俺にはそれをするように無理強いするような連中を俺はこれまでに幾人も幾人も、幾人も見てきた。

 恩や借りがあるというのなら話は別だ。俺が一生かかっても返しきれないような恩恵を誰かに施されたのだとしたら、その場合に俺がその対象に何も感じないのだとしたら、それは俺が忘恩の徒だということになる。しかし、高々仕事上の付き合いというか関係性だけで成り立っているような対象に、特別な感情など持ちようがないというのが普通の人間の心情というものだろう。

 ともすれば、給料を払っているだとか雇ってやっているという一事が「そういう手合い」を著しく増長させているのかも知れない。何によって連中が俺を下に見ているかなど、俺には想像するしかないのだが、その原因が何にあるのであれ、そのようなことは俺の知ったことではない。他人がどのような理由で、どのような感情を抱いたとしても、それは当人が自分で解決すべき問題だ。

 重ねて言うが、自分が腹の中で勝手に抱いている情念について、一方的に見下している相手にそれをぶつけるような人間に徳などあるはずがない。徳とは損得を度外視して他人を動かす力と言い換えても良い。それを具有する人間として扱われたいのならば、それ相応の振る舞いをするべきだろう。そしてそれが可能な人間というのは極めて少数の傑出した存在であることは言うまでもない。

 

 

 徳とは極めて稀な特性であり、有象無象が有するようなものでは断じてない。たかが仕事で、他人に対して居丈高な態度をとるような人間は、一生かかっても徳など身につかない。そもそも仕事は損得勘定を根底にした営みであり、徳という概念は副産物でしかない。徳があるかどうかは当人の資質であり、それを他者が認めるかどうかは個人の判断による。

 俺からしてみればその者共には徳などカケラも持っていないし、そのような判断を俺が下すことは飽くまでこちらの自由の範疇だ。自分でそれがあると思っていても、それが効力を発揮しないならば即ちそれは単なる虚妄にすぎない。自身の頭の中だけの妄想としての徳が俺に対して作用しなかったということの、一体何が不満だというのか俺には全く理解できない。

 俺という個体にのみ情がなく、異常だというのだろうか。たとえ俺でなかったとしても、傲慢で尊大な存在に面従腹背するのは常識や正常の範疇だと思う。なによりアカラサマに向こうがこちらを見下したり馬鹿にしたりしているという現実がある。それを踏まえた上で相手を敬ったり慕ったりするのだとしたら、それはバカやアホといった言葉でも足りないほどの何かだろう。

 「それであれ」と面と向かって主張したり強要したり出来る人間の心理は、重ね重ね言うが本当に理解に苦しむ。自惚れと、とてつもない相手への軽侮の念がともになければそのような精神は形成されない。それは考えれば考えるほど醜く、おぞましい邪悪な魂であると言える。もはや徳の有無などどうでもよく、俺はそのような人格の持ち主をただただ恐ろしく思うだけだ。

 現状、俺が働かされている職場においてそのような手合いが上役として猛威を振るっている。その精神の根底にあるおぞましさや恐ろしさというものの片鱗を、俺は現在進行形で感じずにはいられない。いわゆるブラック企業だとか底辺の職場といったものには、そのような人種は絶対に存在しているし、それがもたらす災厄から逃れたいと欲するならば、下層社会からの一日も早く脱することを目指さなければならない。