他力斎

雑記、雑感その他もろもろ

呪い

 自分が自分であるということが、俺にとっては呪わしい。俺は生まれてから現在を経て、死ぬまで俺であり続けなければならない。そのことを改めて思うと、俺は気が重くなり憂鬱になる。よくフィクションなどで自分が自分であり続けるためにどうのこうの、といった台詞や展開を見かけるが、俺はそれに全く共感できない。自己同一性というものが、俺には良いことだとは思えないからだ。

 ある用事で止むを得ず俺は、出生地の弘前に滞在しなければならないことがあった。その時俺は、短期間ではあっても田舎で生活しなければならないことが堪えられず、親に不満をこぼした。俺が津軽に足を踏み入れることはそれ自体が不本意であったし、俺は一秒でも早く東京に戻りたかった、俺はそれを親に打ち明けてしまった。そしてその時に母親が俺に対して宣ったことを、今でもよく覚えている。

「お前の居場所はここなんだから」

 と、母は俺に言ったのだ。「居場所」だったか「帰る場所」だったか、細かい部分においては正確には記憶していないが、とにかくそのような台詞を母は俺に投げかけた。母は俺にどのような意味を込めてそれを言ったのか、俺には推し量るしかないが、たとえ郷里を離れて長い歳月が経っていたとしても、俺は最終的に津軽に帰属しなければならないとするならば、それは俺にとってはとても窮屈で絶望的に思えた。

 別に東京に帰属意識があるわけではない。俺にとって東京は永遠に異土でしかなく、そこは故郷とはなり得ない空間だ。しかしそれは出生地である津軽弘前もまた例外ではなく、俺にとっては故郷という概念自体が完全に不要だと言って良い。俺は土地そのものに愛着など持った試しがない。たとえどれほど素晴らしい場所であっても、俺はそこに特別な情など抱きはしないだろう。

 また、家や組織などの共同体にも俺は別段、深い思い入れなど持ったことはない。それは俺がこれまでの生で碌な集団に属してこなかったということも一因ではある。しかしそれよりも根本的に、俺という個体にとって集団という概念に執着する意識が希薄であるように思える。自分がいる場だから特別に感じるだとか、愛情を持つだとか、そのような精神が俺にはどうも欠けているように思える。

 

 

 そもそも俺は俺自身を愛していない。愛すべきでない自分がたまたまある一時期、身を置いている、あるいは身を置いていた場所や集団といったものに、特別な感情や好意などといったものなど、端から持てないのは当然だ。俺は俺であるということ、いわゆる自己同一性を呪いのように感じられる。自分自身を愛せない者が、どうして己と関わりがあるものに好感を持てるだろうか。

 自分と関連のあるもの、己を指し示す一切が俺にとっては桎梏でしかない。自分に関係があるから特別だと見なすという感覚が俺には全く理解できない。土地や組織などはもちろんのこと、姿見に映る自分の全身や、名乗らなければならない自身の名前などもまた俺にとっては忌むべきものでしかない。俺が俺であることを証明する全てが自己同一性を決定づけ、それが俺には呪わしいというより呪いそのものであるように感じられてならない。

 俺はとある名を付けられて此の世に産み落とされた。それはスポーツ選手の名前だった。両親、特に父は俺にスポーツマンになって欲しかったのだという。俺はそのような願いを込められ、その名を付けられ出生届を出され、公式にその名前で生きることになった。改めて考えてみれば、俺の名は俺の全くあずかり知らぬ間に決められたのだから奇妙な話だ。

 俺は両親の願いに反し、運動が大嫌いな人間になった。しかし例のスポーツ選手から取った俺の名前を後天的に変えることは無論できない。俺は不釣り合いで不適切な父から付けられた名前を名乗るしかなかった。居れは俺の名前を心の底から嫌っている。なぜならその名は、俺の名前としてあまりにも不適切だからだ。例の名前には両親の願望が込められているが、俺はそれに則ったような生き方はできないしまた、したくなかった。

 俺が親の期待や願望を仮託されたのは、何も名前に限ったことではない。両親は俺の一挙手一投足の全てを自分たちの望みに適ったものにしようと躍起になった。彼らは俺の身長や体型などの肉体的な特徴にも一々物言いを付け、俺の言動をはじめとした精神活動の全てを自分たちの想定の範囲内に収めようとした。彼らの息子として、長男として、俺はありとあらゆる前提や設定を押し付けられたと言っても過言ではなかった。

 

 それらの全てが俺を形作ったが、それらの全てが俺にとっては忌まわしかった。俺は自分のことがたまらなく嫌だった。自分の名前、身体、家、家族、親類、故郷の山河、鄙びた田舎町、与えられた教育や躾、限られた将来の選択肢、自分に関するあらゆる全てが疎ましくて仕方がなかった。俺を俺たらしめる全てが、呪われた宿命のように思われたし、それらは実際に俺を縛り付けた軛にすぎなかった。

 自分を決定付ける全ての要因や要素により、俺は矮小な存在として定義されざるを得なかった。自分というものをどのように見なすかという点において、俺に選択権も自由も何一つなかったと言って良い。生まれた時点で俺は俺であったが、それが俺であることを俺は何一つ了承も承諾もしていない。親の思惑で俺の肉体は生み出され、名付けられ、躾けられ、人生の方向性の大部分も周囲の大人の魂胆により決められた。

 そして現在の自分がいる。この一切合財を「他者に呪いをかけられた」と考えることは素っ頓狂でおかしいだろうか。今にして思えば、俺の人生は端から俺のものではなく、親をはじめとした他者の意図や願望によって勝手に方向付けられた代物にすぎない。他者の都合や欲望の投影として俺が生まれ、意味づけられ定義されており、それらを呪いと見なすとしたら、俺は呪われた存在であると言って良い。

 呪いとは対象への願望の発露である。それは必ずしもそれへの死や破滅を祈ってのこととは限らない。何かに対してかくあるべし、と念じ具体的な言動によりその意思を表明するとき、それはどのようなものであれ呪いなのだ。親が子供に何らかの願いを込めて名前を付ける時、与える名前とそれに込められた願望はそのまま呪いと解釈するのは的外れではあるまい。

 自らの意図や思惑、願望や理想などを何かに向けることはかなり広い意味で呪いだと捉えると、此の世の様相が大分スピリチュアルなものに見えてくる。人間は論理や実利によって生きているのではなく、かなり感情や情念によって活動しているように俺には思えてならない。特別な感情をもって何かを見なし取り扱う時、特有の名前を付けたり帰属意識を表明したりするのは呪術的な儀式のようにさえ見えてくる。

 

 

 意味付けや定義付けはそれ自体が呪術的だと言える。それどころか名付けるということも呪いの儀式だと言っても差し支えないのではないだろうか。俺は冒頭で出生地の弘前について触れたが、「故郷の弘前」とは書かなかった。これは故郷という名前で彼の地を呼称するのを意識的に避けたからだ。故郷と見なしその名で特定の場所を挙げれば、俺はその土地の人間として自他共に定義づけられることになる。

 俺はそれを嫌ったのだが、それもまた呪術的な感覚によるものだと見なせはしないだろうか。このように、名前を付ける付けないという問題は極めて情緒的で精神性に深く関わってくる。俺がネット上で決して本名を名乗らないのは、単に情報保護やネットリテラシーの観点に基づいた理由もあるが、それ以上に親から付けられた戸籍上の名前を厭う気持ちもかなりの部分である。

 俺は、先天的な自分と後天的な自分との溝や隔たりといったものを、どのようにして折り合いをつけるかで悩んできた面がある。俺を定義づける先天的な要素、それはスポーツ選手にちなんだ名前や津軽地方の寒村で生活する貧家の長男として受けた教育や躾、血縁者をはじめとした人間関係などがそれだ。そしてそれらを好ましく思わない後天的な精神性や人格。これらの相剋やせめぎ合いが俺にとってはいつも苦しみの種だった。

 家や出生地に限らず、俺は働きに出れば職場の従業員として定義されるが、それに対しても反発する気持ちがある。俺は一介の労働者として苦役に従事するだけの存在であることを潔しとはしていない。それは生活上の都合で仕方なくそれとして振る舞っているにすぎず、俺としては本意ではない自分だ。そしてそれであること、それであることを要求する他者の思惑などをまた別種の呪いだと感じている。

 あるものに名前をつけ、意味を付与し、定義付けを行うことが人間の精神活動の大本であるが、それらの全ては呪術に他ならなない。呪いの言葉とは即ち悪意ある決めつけであり、呪詛の念とは対象となる相手が破滅的な状況に陥るべき存在だという一つの定義付けだ。人間が日常的に行っている活動のほとんど全ては呪術的な意味合いを孕んでおり、我々は一人一人が呪い師(まじないし)やシャーマンの類いだと言えるのかも知れない。