壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

甘え

 駄目な自分でも許して欲しい、それでも良いと言って欲しい。思い返せば、ただその一念で生きてきたのかもしれない。要するに俺は甘えたかった。人生のあらゆる局面において俺は、ずっとそれだけを願い、望んできた、誇張でも極端な話でもない。俺は甘えを許してくれる人間関係を渇望し、決して短くない生涯において、それが成就したことは終ぞなかった。

 ネットでは甘えには大抵、否定的な見解が蔓延している。うつは甘え、低学歴は甘え、低収入は甘え、エトセトラエトセトラ……。それらはどれも正論かもしれないが、剥き出しの単なる正論などどのような人間でも言えるだろうし、それに意味や価値があるとは思えない。そもそも、正しいかどうかなど個人の振る舞いや精神性においては全く無関係だ。

 俺はただひたすらに、無条件かつ無制限に甘えたかった。甘えられる人間関係を乞いながら惨めに、哀れに生きてきたような感がある。乞食のようにただ甘えを許し、憐憫を垂れるような何者かを探し、待ち続けてきたような気がする。しかし、その待望の何者かは、現れる気配すら見せていないのが現状だ。俺は待ちわび、そして待ちくたびれた。

 俺は自分が単に甘えたく、それを許してくれる誰かを求めていただけだったということに、気づけずに今日まで生きてきた。自身の本当の望みを自覚できないことこそが、人間が被る不幸の最たるものだ。自らが何を欲しているかも分からないまま、思い通りにならないと思い煩うほど滑稽で愚かなことはない。俺の人生は、正しくそのようなものであったように思う。

 自分が単なる甘えたがりにすぎないと認めることはかなりの羞恥を催す。それが嫌で認めてこなかったところもあるのかもしれない。それ以上に周囲や社会全体の風潮や圧力による要素も多分にあるだろうが、自身の本心に気づくことができずにこれまで生きてきたのは、偏に内的な原因によるものだと考えるべきだろう。大の男が甘えたいなどと思うことさえ恥ずかしい。

 

 

 俺は長男としてこの世に産まれ落ちた。この俺にももしかしたら甘やかされていた時期というものがあったのかもしれない。しかし俺はそれを全く覚えていないのだからその期間など俺の中ではないに等しいものだ。俺は男でまた第一子であったため、家の存続のためにそれ相応の役割を生まれながらにして背負っていた。そしてそれは両親の躾という形で俺の骨肉に叩き込まれていくこととなった。

 俺が生まれてから3年ほど経ってから、母は娘を出産した、俺から見れば妹に当たる。妹が此の世に出現した瞬間から俺は寒村の貧家における長男にして兄という立場になった。それは俺にとって喜ばしいことではなかった。妹が生まれてきてから俺は兄としての役割を父や母から担うように強要されるようになった。結論から言えば、俺には家族という人間関係を営む能力に欠けていたのだが、それはあらゆる局面に露呈することとなる。

 下の兄弟の面倒を見させられるというのは別段おかしなことではないが、俺にとってはそれすらも重荷に感じた。妹が危ないことをしないように俺は細心の注意を払い彼女の動向に目を光らさなければならなかったし、兄として妹の模範となるような挙動をするように俺はかなり厳しく両親に躾けられたような記憶がある。妹と兄とでは、同じ家で育てられても色々と教育や躾の方針が異なるのはよくある話だろう。

 俺は小学2年になるとそろばん塾に通うことを母に無理強いされた。その教室は俺の家から徒歩で30分は要するほど離れた場所にあり、毎週3日、月曜と水曜と金曜日の学校が終わった後の放課後の時間を俺は例のそろばんに捧げなければならなかった。俺はそれ自体が嫌で嫌で仕方がなかったが、最も気に食わなかったのはそれをやらなければならなかったのが家中で俺だけだったということだ。妹はその馬鹿げた習い事をせずに済んでいたため、俺はそれが一段と嫌だと思った。

 長男だから両親は俺に厳しくした、要するにただそれだけなのだが、そのただそれだけのことが、俺にはどうしても耐え難かった。妹という比較の対象が存在しなかったら、俺はまだ我慢ができたかもしれないが、妹という甘やかされた存在を尻目に俺はやりたくもない、将来役に立つはずもない習い事を強要されることが、どうしても嫌だった。そのことは今も人生の中でもかなり嫌な部類に入る嫌な思い出であり、俺はその点において両親には全く感謝していない。

 

 そろばん塾など一例に過ぎず、俺は兄としてまた長男として相応しい存在になるよう常に要求され続けた。中学校に上がる頃には流石にそろばんという枷からは解放された俺であったが、俺が通っていた中学校は部活動を強制する校風であり、俺も何らかの部活をしなければならなかった。俺はコンピュータ部への入部を希望したが、父親は俺に運動をするように強要し、かつて自身が学生時代にやっていたという理由で俺に卓球をやらせた。

 やりたくない習い事を経て、俺はやりたくない部活動に精を出さざるを得なくなった。俺は運動が苦手でありまた嫌いであった。適性もなく、したくもない部活動に貴重な中学生活のかなりの時間を割かなければならなかったというのは、今にして思えば公開してもし足りない。活発で健康的な男でなければ、長男として立派な人間にはなれないと踏み、父は俺に卓球をやらせたのだが、その老婆心は皮肉な結果となった。

 高校進学の段になり、俺は普通科の高校への進学を希望した。しかし両親は俺の希望を完膚なきまでに退けた。両親いわく、普通科は大学に行く人間のためにある学科であり、自分たちは俺を大学にやる気は一切ない、とのことだった。加えて、両親は俺を測量技師にしようと試み、俺を工業高校の土木科に進学させるつもりでいた。俺は土木科だけは勘弁してくれと両親に懇願し、最終的に俺は簿記やプログラミングをやる学科に進学することになったのだが、それもまた悪手でしかなった。

 そのようなおれの人生の脇には、常に甘やかされて育つ妹の姿があった。そろばん塾という苦役を妹が被らずに済んだのは前述したが、それ以外にも妹は中学時代の部活動は自分がやりたい演劇部に入ることができ、高校進学も俺とは異なり普通科に行くような算段でいたようだ。妹の学力が露呈し、公立高校の普通科はとても無理となると両親は妹を、学費が高い私立でもいいから普通科の高校に進学させようとした。

 俺は妹と自身の境遇の違いを目の当たりにしながら、妹を常に妬んでいた。キツく躾けられ、あらゆる自由を認められていなかった自分と、妹は全くもって対象的な存在であったように思う。兄として俺は、稼げる人間になるべくそろばん塾や運動部、職業科の高校などといった種種雑多な強制を受けたが、それらの一つたりとも妹は強要されはしなかった。高校に関しては妹も職業科だったが。

 

 

 俺は家の中で甘えることが許されない立場として位置づけられ、生きてきたがそれは無論、家の外においても同じだった。大人になり家を出て働かなければならなくなった時、俺にとって世間とは余りにも厳しい場所だということを幾度となく思い知らされた。安い賃金で長い時間拘束され、あらゆる理不尽に耐え、傲慢な他人共に平身低頭しながら屈従の生活に甘んじなければならなかった。

 俺が甘えることを許してくれた人など、本当に少なかった。それは性別や年令を問わず、ほんの僅かほどであり、それ以外の全ての他者は俺に一切の甘えを許す苦とはなかった。しかしそれは当然であり、甘えを許してくれるような奇特な人々の方がある意味おかしな人々であったとさえ俺は思っている。親子ですら甘えなど許されないのだから、他人同士なら尚更だ。

 俺は甘えられる関係を欲し、それが許される環境を夢見て生きてきたと言っても過言ではない。ゲームやアニメの中に理想郷を見出そうとしたのは振り返ればそのような願望の現れだったように思う。現実において許されない甘えを、擬似的・仮想的にでも経験したいという思いが、俺をそれらに駆り立て、執着させたのかもしれない。

 実人生においては決して叶わない願望を、俺はどのように取り扱えばいいのか実のところ全く分かっていない。しかし、自身の心の底からの本願について、理解できずにいるよりは、それをハッキリと自覚し見据え、その上で渇望し苛まれた方が精神的にはまだ健全であるように思う。先に述べたように、何が望みが判然としないまま何かを求めるのは愚の骨頂であり、そこから脱しただけでもまだマシだろう。

 望みがかなわないことが不幸なのではなく、自身の本当の望みを知らずに生きることの方が真の不幸なのだ。誰かに甘えたく、何かに縋りたいという本心を吐露することは能わずとも、それらの思いを自身が抱いているのだということを念頭に置きながら行動したり思考したりすれば自分自身について不毛な煩悶や葛藤を抱くことはなくなってい降ろうと思いたい。