壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

生存

 人はなぜ何かを知ろうとするのだろうか。直接関わり合う人間同士の間柄に関わることでも、噂話やゴシップでも、はてはフィクションの中に於ける事柄であっても、人は何かにつけて情報を欲する生き物だ。人間が肉体を維持する上で一見、衣食住の確保は必須ではあるが、何かを知ることは必ずしも不可欠というわけではないように思えるが、もしかしたらそれは誤りなのかもしれない。

 人間と言うか現生人類の歴史は古く、相当長い歳月をこの種は生き抜かなければならなかった。その上で何をすべきでまた、何をすべきでないかという判断や選択を人間はどのような局面においても意識的にせよ無意識的にせよ下してきただろう。そしてそれを行う為に必要だったのは「何かを知る」ということだったのではないだろうか。情報を得ようとするのは本能的な行為だと俺は考える。

 知ることが一つでも多ければ、それだけ直面する状況において取れる選択肢が増える。また、己が生き延びるために最良の判断を下すには正確で適切な情報が必要だとも言える。また、自身が身を置く状況や環境は常に変化するため、それに応じた最も新しい情報も必要となるだろう。このように考えれば、迅速かつ正確な情報を我々が欲する気持ちは生きるという目的を達するための欲動であると見なせる。

 日本国憲法における国民の義務の一つに教育の義務というものがある。これは日本国民が負っている、日本の子供に教育を受けさせなければならない義務だが、なぜそのような文言が憲法に記されているかと言えば、子供の生存のためにそれが必要だからだと考えられる。日本という共同体が有する子供が何かを多く知ることで生存率が上がれば、そのまま社会という共同体全体の公益なり国益に結びつくということを見越してのことなのだろう。

 一個体というミクロな視点でも国や社会といったマクロな視点でも情報に触れそれを活用することで人間はより理に適った選択や判断ができるようになり、それがそのままより良い生き方に結びつく。だから人はどのような形であっても情報を得ようと躍起になる。それは生物としての本能的な行動であり、原始的な欲求であると考えて良い。食欲や性欲と情報への渇望は実は次元としては同じだと言えるのかもしれない。

 

 

 生きたいという思いと知りたいという思いが完全に等号で結べるとするなら、逆に知ることを欲さない人間は生きる意欲に欠けていると見なせはしないだろうか。うつ病とまでは言わなくても、人はいわゆる憂鬱な状態になると、何をする気もなくなる。この「何も」という言葉は読書などの情報を得ることも範疇に含めている。うつ病の奨励の一つとして長い文章が読めなくなるというものがあるが、それを例に取ってみても生きようとする意思と知ろうとするそれが深く結び付いているのが分かる。

 人は積極的に、能動的に生きることを欲するならば「知りたがり」であらなければならない。活力や精力の源は特定の栄養素ではなく、知る喜びやそれを求める欲であるとするならば、俺は自身の肉体や精神、ひいては人生などといったものについて、随分と見当外れな取り組みをしていたと言わざるをえない。俺は居場所を移し、食うものを変えれば自身を取り巻く何かが劇的が好転するなどと愚かにも思っていたところがある。

 よく生きたいなら、よく知らなければならならなかった。それは一見すれば明らかなことであるが、我々はそれについてあまり意識せずに漠然と日々を送っているような感がある。知ろうとすることで人間の生は充実することを我々は深いところで知っているはずだが、それについて明確に言挙げする機会はあまりない。少なくとも俺は殆どそれを表立って言うことはなかった。

 しかし、知ることには気力や体力を必要とする。その事実が人が生きる上で足かせになり、我々は二の足を踏んでしまうのかもしれない。よく歳を取ると好奇心がなくなるなどと言うが、それは単純に体力や精神力が衰えるから知りたいという気持ちが失せるから起こることなのだろう。人間は知ろうという気持ちがなくなれば生存する上でも生彩を欠いていくだろう。

 何かに心が踊り、ただひたすら無心でのめり込んでいく忘我の感覚は、得も言われぬような快楽だ。それに浴するために必要なのは好奇心という感性のみであり、それは生きたいという思いに端を発する。生きることに意欲的でなければ人は何かを決して素人はしないだろうし、何かを知ること無く人はその生を全うすることはできない。俺が自分自身にその単純で原始的な欲動が不可欠だと気づいたのはホンのつい最近のことだ。

 

 食うことも寝ることも、究極的には生きるための行動でしかない。人間がそれとして存在し、それを継続したいと欲するならそれは生存への飽くなき欲だと言える。人間は生きるために食事をし、生きるために睡眠を取り、生きるために必要な情報に触れようとする。それらは自明すぎるほど自明すぎるため、我々はそれを明言したり強く意識することがないが、それが世の中を複雑でややこしくしているように思えてならない。

 自分が目下取り組んでいることに、一体何のためにやっているのかなどと疑問を抱くことがままある。本来なら、生存上不必要どころか邪魔にしかならないようなことはしなくて良い、と言うよりすべきではない。そもそもそのような疑問は生きるという第一義を失念すればこそ生じる。馬鹿げた言い方ではあるが、生きる上でもっとも重要なのは、生きることだ。それを差し置いて何かが優先されるようなことなど決してない。

 生きるためという目的から逸脱した発言や行動は、倒錯的であり病的でもある。生存上必須でない事柄に固執するとき、人は虚無感に苛まれる。人生に意味を見出だせないなどといって悩むのは正しくそれに当てはまるだろう。生存という第一義を明確に意識して生きれば無気力にも憂鬱にもなりようがない。そしてその第一義と本源的に関わりがあるのは知りたいという欲求なのだ。

 しかしその一方で人は何かを知ることを恐れる気持ちもある。単純に人間が好奇心のみで動くだけの存在なら、世間はもっと簡単だろう。しかし現実にはそうではなく、必ずしも人間はどのような場合であっても知りたいと欲するわけではない。我々には未知への好奇心とともに未知への恐怖心もまた備えた存在である。未踏の領域に達することには多少の恐れを伴う。

 俺はどちらかと言えば臆病な方であり、その気質が知りたいという欲求よりも勝ることはかなりあった。人間を二分するものがもしあるとするならば、それは未知の何かに対して好奇心と恐怖心のどちらを持って臨むかの差異なのかも知れない。俺は自身の人生に延々、行き詰まっているように感じていたが、それは失敗や喪失を恐れて、未知なことや未踏の領域を忌避していたからだったのかも知れない。

 

 

 恐怖には恥をかくことへの懸念もあるだろう。しくじったり自身の無知や無能が露呈しないように、人はしばしば既知の領域の中に留まり新しいことをことさらに避ける。恥をかき、自尊心が傷つけられることを恐れるから人は、何かを始めるのを躊躇ったり嫌がったりする。そのような気質が人間の人生を停滞させ、喜びが少ない生き方に留まらせる。

 そしてそれは生存という点で考えても悪影響を及ぼす。ただ単に生きるのが楽しくないだとか、人生に意義が見出だせないなどといったことではなく、新しい何かに厭う気持ちは生きる上で有害だろう。知りたくないという思いは人間を生から遠ざける。もしかしたら、人間が老い衰える原因はそこにあるのではないだろうか。俗に言う頭が固くなるというやつだ。

 新しく何かを知ろうとしなくなることから人間は老いはじめる。限られた範囲の中で人生を反芻し、肉体も精神も衰え最終的に死に至るだろう。俺は老化や衰弱を星が付く食べ物を摂取することで食い止められるなどと考えていたが、それは見当違いな謬見でしかなかった。生きようとする意思、知りたいという欲がなくなるから人は老いるのだと考えたほうが今の俺には腑に落ちる。