壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

尊重

 世間では相手を分かってやるのが尊重だと思われがちだが、謬見である。極端な話、人間には他者を完全な意味で理解する能力などない。そのため、相互理解というのは原則的に幻想でしかなく、人間同士が分かり合えるなどというのは青臭い理想論に過ぎないと考えるべきだろう。自分が理解している何者かは存在せず、また自分を理解している何者かもまた存在し得ない。

 ところがどうしたものか、世の中ではそのような知見は人口に膾炙していないのだから、俺には不可思議に思えてならない。自他共に分かり合うことは不可能でないどころか、むしろ望ましいことだとさえされているのは、人間性への根本的な誤った見解でしかない。また、尊重という言葉も全く見当違いな認識を持たれ、流通していると言って良い。

 人間が他者を理解する能力に加え、くだんの尊重という用語への間違った考えが流布されている現状に俺は強く異を唱えたい。尊重と聞けば、相手のことを思いやり、理解し、その気持や事情、都合などを推し量り何かを言ったり行ったりすることだと考えている余人の多さに俺は呆気にとられる。誤解や偏見、軋轢ばかりの現代社会の病根がそこにあると俺は見ている。

 尊重とは他者を理解することではない、むしろその逆だ。尊重とは、相手が有してる理解不可能で不可測な要素、その人物の内面の世界における未踏の領域が存することを認めることに他ならない。それができてはじめて人間は、他者を尊重したと言えるのだ。無論、それができている人間は世の中には極めて稀であり、それどころかそれを誤って捉えている者が社会においては圧倒的に多数であろう。

 例外なく、あらゆる全ての人間関係において相手を尊重するということは即ち、先に述べたような姿勢を取ることなのだ。

「俺はお前が分からない」

 と言うことができてようやく人間は対峙している他者に敬意を持って接したと言えるのだ。相手を理解できない自分はもちろんのこと、自分に一から十まで開陳せず、捉えられない何かを持ったままであろうとする相手を許容することが尊重だ。

 

 

 そのような観点で言うなら、俺はほとんどすべての他者から尊重されずにこれまで生きてきた。両親などもその例に漏れず、俺を尊重することなど終ぞなかった。彼らは俺についてあらゆる全てを把握したがり、また自分たちが俺のことを完全に理解できるだけでなく、俺の将来や行く末といったものの一切を捉えうる、知りうると考えていた。

 両親は俺に対して、まさに全知全能であろうとした。俺の内面や挙動、仕草や表情の全てを完全に管理下・統制下に置き、自分たちの裁量で俺の人生における主導権を握り采配を振るうことで、彼らは俺をマトモで立派な人間に成長させることが出来ると信じていた。両親は俺の内面において自分たちが知り得ない、理解や想像が届かない何ものの存在も許容せず、その萌芽や兆しが見えれば徹底的にそれを矯正しようと躍起になった。

 矯正とは何かと言うと、彼らは俺の内面も外面も、自分たちが理解し把握できるような代物にようとしたのだ。俺は両親にとっての望ましい、自分たちが理解できる子供像を完全に踏襲するように要求された。彼らは大いに俺を構ったかもしれないが、俺を尊重するような気持もなければ、それをしようと試みた形跡も一切見られなかった。彼らにとって俺が持ちうる理解できない要素は根絶すべき欠陥や邪悪さそのものであったのだろう。

 他者を己にとっての既知な存在に押し込めて定義しようとする試みや言動を、どのような言葉で言い表すか、俺は知らない。しかし、それが尊重ではないことは火を見るよりも明らかだ。両親が俺にやったり言ったりしたことは、尊重でもなければましてや愛情の発露でもなかった。両親にとって、我が子が理解不能な存在になることは耐え難く、もしかしたら恐怖そのものであったのかもしれない。

 ここまで俺は両親について語ったが、それはほんの一例にすぎない。 学校でも会社でも、インターネット上の場であっても、やはり尊重という言葉や概念は全く誤った認識で使われているし、それがあらゆるやり取りや関わりの中で無用で無益な精神的な負担や葛藤の火種になっているように思えてならない。相手を尊重しろ、尊重すべきと余人は皆口々に言うが、先に触れたようにそれについて根本的に考え違いをしている者ばかりの世の中だから、どんな場所における人間関係であっても俺は居たたまれず、窮屈に感じるのだ。

 

 一人の例外もなく、人は人を理解することはない。重ねて述べるが、その原則から端を発し、その上で理解不能な他者をそのまま肯定することが尊重だ。逆に言えば、相手を分かろうとしたり分かった気になろうとしたりするのは尊重とは程遠い感情だといえる。それが具体的にどのような言葉で言い表されるかは、前述した通り俺は知らないが、とにかくそれは尊重などではないことだけは確かだ。

 それは他人が未知の存在であることを許さない姿勢であると言うこともできる。俺が以前に関わりを持ってしまった者の中で、俺がその者に対して心を開こうとしない、などと言い憤るものがいた。それの何が悪いのか俺には全く理解できなかったし、現在もそれは変わらないが、その者は俺が己についての一切合財を自分に開陳することを期待し要求、または強要してきたのだ。それもまた尊重とは対極にある思考に基づいた言動であると言えるだろう。

 他者への決めつけや疑心暗鬼、または相手の内面や人生における経歴や背景について根掘り葉掘り聞き出して把握しようと試みようとすることは実のところ、全て同一の行動であると考えられる。それらは畢竟、他者が未知な存在であり続けることへの不寛容に他ならない。自分にとってその対象が理解不能で想像が届かない存在である自由や余地などといったものを一切許容しない態度は、尊重とは似ても似つかない。 

 他者とは絶対的に他者であり、それは自己と同一な要素よりもそうでないものの方を圧倒的に多く有しているのは疑う余地がないだろう。言うなれば他者とは無辺のフロンティアであり、永久に解き明かされない謎や神秘であると言っても過言ではない。そして、それをそのままの形で、知り得ず分からないのだと認めることは、決して難しことではないはずだ。

 他者が備えている絶対的な不可侵性の許容と、自身が持っている他者を推し量る見識や想像力の限界を知り、それらに然りと言う方が、「分かり合う」よりも自然で尚且つ健全で、さらに言えば簡単だと俺は思う。自身の能力や知力を過信し、また他者を高が知れた矮小な存在だと見くびりながら世間を渡っていくことの面倒の多さを考えてみれば、それに一体どのような得があるのだろうかという気がする。

 

 相手の知りえない、掴みきれない領域を認めてしまえば、あらゆる意味で楽だろうし、その方が妥当な人間観を涵養すること出来ると思う。他人における理解できない要素はそのまま分からないで済ませたほうがあらゆる面で都合がいいはずだ。少なくとも俺は、無遠慮に何でもかんでも聞き出そうと試みたり、勝手な憶測で決めつけて物言いを付けてくるような人間と深く関わるのは御免被りたい。

「お前のことなど全てお見通しだ」

 などと言って憚らないような人間と付き合いをしようと思うような人間が果たして此の世に存在するだろうか。可視化すればそれは明らかな話なのだが、現実の社会において、そのような態度で居丈高に振る舞う人間はかなり多く存在している。そしてそのような人種は自身の知る力への思い上がりと他者が持っている不可知かつ不可侵な要素への不寛容さを一人の例外もなく有している。

 身近な人間が理解不能な存在あって欲しくない気持ちは、俺も分からないではない。逆に全ての人間が理解や想像の範疇を出なければ、それは人にとって安心できる状況であると言えなくもない。しかし、現実の世界はそのような様相を呈しておらず、完全に把握できる他者もまた決して存在しない。それが実相というものなのだから、それを否定しても却って無駄な不都合が生じるだけではないか。

 分からないことは分からないままにしておくべきだ。それは理解せずに拒絶すればいいということではなく、他人という存在を自身の頭の中の枠組みの中で捉えずにそのままの形で存在することを許容するということだ。そしてそれができた状態を指して相手を尊重していると言い表して差し支えないと俺は思う。他者性とはどのような場合においても自己の理解の範疇を越えた何かだ。

 他人とはいつ何時もブラックボックスであり、俺にはそれを解き明かす能力など絶対になく、将来的にその力を手に入れることも有り得ない。そしてそれは万人に当てはまることでもある。俺という個体もまたあらゆる他者の視点から見れば完全に不可知にして不可捉の存在であり、それが何者かによって知悉されるような日は永遠にやってこないと断言できる。そして、そのことを踏まえられない人間とは、どうしても深い仲にはなれそうもない。