他力斎

雑記、雑感その他もろもろ

汚点

 使っているノートパソコンの画面に点状の汚れができ、気になって仕方がない。その汚点はつい昨日の夜にできたもので、恐らく取り除くことが出来ない類いのものと思われる。それは画面の表面ではなく、恐らくその膜を一枚隔てた層にできたものと思われ、画面を分解して掃除でもしない限り、消し去れないだろう。俺にとってその汚点は、まさに降って湧いたような災難であった。

 昨夜のこと、俺はパソコンで動画を見ながら食事を取っていた。その時、画面の上をうごめく点に目が止まった。俺は単に画面の表面に虫がついているのだと思い、それを指で潰した。そして俺はその死体と化した虫の残骸をティッシュで拭おうとしたが画面の上で微動打にしたいのだ。画面を這っていた虫の死骸は点となり、俺の画面の表面よりも一段下の層にこびりつき、除去不可能な汚れとして現在も俺の視界に厳然と顕現している。

 この汚点が俺の注意を散漫にし、パソコンを用いて行うあらゆる所作を妨害する。動画や画像を見るにしても、文字を読むにしても、文章を書くにしても、どんなことをしている最中でも目に付く場所に例の汚穢極まりない忌まわしい天がその存在を誇示し、俺の神経を逆なでする。死んだ虫けらの死骸と体液によって形成されているその汚点は、パソコンを使っているどんな瞬間にも俺の視界に鎮座し、俺の心理的な嫌悪感を惹起させ続ける。

 あの晩に虫を潰さなければ、と俺は後悔する。画面を這い回る虫をそのままにして置き、いなくなるまで待つか画面の端に移動したのを見計らって殺すという選択もあったのではないかとも考える。だが、それらは言うまでもなくあとの祭りだ。終わったことなら幾らでも、なんとでも言える。目障りな虫が目の前に居れば潰すのは当然であり、その死骸が取り除けないものとなる可能性など、予め知ることなどどう考えても不可能だ。

 思えば、そのことに限った話ではない。俺はこれまでの人生で何度迂闊な選択をし、その度に後悔してきたことだろうか。それらのうちで僅かの注意力を発揮すれば回避できたことも少なくはないが、大部分は無理からぬ、避けられないようなことばかりであった。そしてそれらの全てを俺は悔やみ、嘆き、煩い続けてきた。俺の人生は、汚点だらけでマダラ模様になっていると言っても過言ではない。

 

 

 パソコンの画面にできた消せない汚点は、言うなればそれらのうちの一つにすぎない。それはある意味、象徴的であると言えるのかもしれない。単に汚れではなく、消すことも能わず、どのような瞬間であっても常日頃目に付くという点もまた人生における数々の別の汚点を彷彿させる。例の虫の死骸でできた汚点と同様、人生におけるあらゆる蹉跌や齟齬、失敗や挫折もまた消すことができず、頻繁に思い出される。

 オレがこれまで生きてきた時間の中で、取り返しがつかず無かったことにしたいような汚点は、両手の指で数えても足りないほどある。それらを一々列挙するのは馬鹿げているし徒労でしかないが、とにかくそれは数多くあるのだと明記しておきたい。それらを思えば、また一つ拭い去れない恥ずべきで汚らわしい一点が追加されたことぐらい、最早些細な事ではないか、と言う気持ちにもなる。

 画面上の汚点がもし、俺の生涯における人生初にしてたった一つのものであったなら、俺はそれにより一層、固執したかもしれない。そのように考えれば、これまでの人生における汚点の数々が相対的に画面上の消しされない汚点を相対化し、そのネガティブな意味合いを多少は軽減する働きを為していると捉えられなくもない。また逆に、画面上の例の点も俺の生涯における別種の汚点を大したものでないように思わせるように作用していると言えなくもないのだ。

 失敗続きの人生を恥じたり悔やんだりすることなど俺にとっては日常茶飯事だが、それらの経験が耐性や免疫として多少は役立っていると言えなくもないという気がしてくる。それは俺の人生や日常におけるあらゆる時間や局面において機能し、俺の精神を僅かばかりでも強固たらしめている。そのことを例の点は俺に示していると見なせば、画面上に常に現れ続け俺の視界でその存在を主張し続けるそれにむしろ感謝の念を抱けなくもない、というのはやはり気のせいでしかない。

 その点は特に、俺が動画を見ている最中に注意を削ぐ。具体的に俺がどのような動画サイトでどのような種類の映像を日常的に視聴しているかについて、ここで明言することは避けるが、内容の如何にかかわらず、例の点は俺が画面に没入することを妨げる。集中し無心になりかけている最中に、映像とは無関係な一点が視界に見えるだけで、俺の注意は点の方に向かってしまう。

 

 ノートパソコンごと買い換えるしかないのかもしれないと思う。そもそもパソコン全体がもういろいろな面でガタが来ており、いつマトモに動かなくなるかもしれないような状態なのだ。画面に消せないシミができたということを一つの契機として、いっその事新品の買い換えるという手段もあるのかも知れない。お店は俺に良いきっかけを与えているのだという解釈も不可能ではない。

 しかし、金銭的な問題がある。電気代の問題でデスクトップ型のものを買うことができないため、自然とノートパソコンを買うことになるだろうが、それでも最新のものなら10万以上はすると思われる。安物で済ませるという手もあるが、どうせ新調するなら良いものにしたいというのが心情だろう。WindowsOfficeが搭載されていなければならないため、その条件で探すならどうしても値が張ってしまう。

 結局のところ、現状においてはどうしても我慢できないということもない。結局のところ、多少動作が遅いだとか画面が汚れているなどといったことに目を瞑れば正常に動作する以上、買い換えるというのはやはり時期尚早であるように思える。画面のシミで申告になるには、汚点の数がもう少し増えてからでも十分であるようにも思えてきた。少なくともこの文章を書いている最中に特に支障は出ていない。

 とどのつまり、目障りなシミが画面にできて取れないという、ただそれだけのことでしかない。それについて多弁を弄し、愚行に愚行を重ねることに特別な意味もなければその果てに出された結論に何らかの勝ちがあるわけでもない。シミを除けば、俺の生活には昨日と今日を隔てる特別なことなど何もありはしない。結局、汚点の一事をどれだけ深刻に捉えるかということでしかない。

 パソコンの画面の汚れなど畢竟、大したことではない。俺は以前に命を失いかけるような過失をやらかしたことさえある。その直後はその経験のことを気に病み続けたものだが、喉元過ぎれば熱さを忘れるとばかりに現在はそれに対して何の感情も抱いていない。生死に関わるような体験ですらも、俺にの中では風化してしまうのだから、パソコンの画面の汚点など特別なことであるはずがない。

 

 

 やがてこの汚点にも慣れ切って気にならなくなる日が来るのだろう。その暁には、それについて頭を抱えていた自分が馬鹿話く思えてしかなくなっているかもしれない。ともすれば、生きている最中に被るあらゆる厄介事など所詮、過ぎ去れば大概はどうということもないのかもしれない。少なくとも、画面上にできた消せないシミについて俺は今際の際まで気を揉むことはないだろう。

 画面の汚点が気になるのは恐らく今このときだけであり、俺の生涯におけるあらゆる屈辱的な汚点もまた過ぎ去れば思い起こすことすら稀な事柄の方が多いように思えてくる。突発的に嫌なことを思い出したとしても、それもまた一時の気の迷いのようなもので、その度に「喉元過ぎれば」を繰り返しているのが俺の生の実体であるような気さえする。

 気に病んでいられる内が華だというのは、果たして言い過ぎだろうか。どのような不幸や不運、呻吟し懊悩すべきような物事であっても、それについて深刻かつ真剣になれるのはその瞬間やその出来事が直近のものである時期に限ったことだろう。どれほど筆舌に尽くしがたいような理不尽な目に遭わされたところで、長い歳月に心身を曝されれば人は、それに鋭敏であり続けることは出来ない。

 それが可能な間にだけ、人生の醍醐味とでも呼べるようなものが存するのだとしたら、身悶えし胸が張り裂けそうな思いに駆られながら問題に直面できる瞬間の中にこそ生の本質があるのだと言えるのかもしれない。それを礼賛すべきか、または忌避すべきなのか俺には断言できない。しかし、生きた人間として物事にかかずらうということは、それに身をやつし神経をすり減らすことに他ならないのだろう。

 生の本質に迫ろうとするなら人は、生涯におけて犯すあらゆる汚点や災厄に然りと言わなければならないのかも知れない。人生における汚点とは、無くすべきものや避けるべきものではなく、それ自体が生きることそのものだと言える。言うなればそれは生きた証であり、その一つ一つが己がこの世に生きてきたことを示す足跡としての意味合いを持っていると見なすことも、もしかしたら出来なくはないのかもしれない。