壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

嫉妬

 それにしても許せないと思った。きょう国会図書館で蔵書検索をしていると、前々から読みたかった本がようやく閲覧可能の状態になっているのに気づいた。俺は迷いなく館内端末で貸出の申込をし、閉館までそれを読んだ。その際中に冒頭で触れたような考えが、ふと頭をよぎった。それは誰に対してかと言えば、巡り合ったこともない頭の中の架空の人間に対して出会った。

 俺は例の本が閲覧可能になるまで決して短くない時間待ち続けたのだが、これを格安で入手して手元においている人間が此の世の何処かに存在していると思うと、その見知らぬ何者かに猛烈な嫉妬心を抱かずにはいられなかった。その本は絶版になっており入手しようとしても中古のものしか流通しておらず、値段も7000円以上するという代物であった。

 そのような書籍でも、ブックオフか何処かで格安で入手した人間というものが実在するだろう。だろうというよりも俺は、例の本を100円で購入したという主旨の内容の書き込みを2ちゃんねるかどこかで見たことがある。その人間はその本を過小評価していたが、俺にとっては喉から手が出るほど欲しい名著で、俺はその書き込みを読みながら歯噛みして悔しがったのを思い出す。

 その本が国会図書館に蔵書されていることはかなり前から知っていたが、閲覧は随分前からずっと不可能な状態だった。それが晴れて読めるようになり、他に取り寄せようと思うものも幸いおらず、俺はそれを読むことができたのだが、それで大団円とはならないのが俺の悪い性分だと自分でも思う。正直に言うと俺は、その本を常に手元においておきたいと思ったが、無論それは叶わない望みだ。

 それは国会図書館の蔵書なのだから持ち出しも出来ないし、書店巡りをしても恐らくどの書店でも扱っていない書籍だ。しかし、それを早くの安値で入手した人間が最低此の世に一人は存在している。例の2ちゃんねるの書き込みが単なる嘘だというならば俺の溜飲も下がるが、その言の真偽を確かめる術など俺にはない。到底1日では読みきれない本であったため、俺は閉館の折に読みかけのまま返却するしか無かったが、それを私物として所有している何者かをこの上なく羨ましく思った。

 

 

 自分が欲しく、かつ手に入らないものを他人が当然のように持っていることに反感を覚えるのは人情というものだろう。俺に限ったことではなく、それと似たような話は古今東西、実話でも虚構でも枚挙にいとまがない。モノでもコトでも、あるいは人でも何でもそうだが、単に欲しいが手に入らないのではなく、自分以外の人間がそれらを掌中に収めている事実が気に食わず、いけ好かない。

 俺が生まれて初めてその感情を強く抱いたのは、高校1年生の頃であったように思う。俺は大学へ進むことを前提とした教育を受けられず、職業科の高校に進学させられたのだが、部活動の用事で当時暮らしていた市内にある普通科の高校を訪れる機会があった。そこには中学時代の顔見知りなどがおり、俺はそれらと遭遇しないようにコソコソと隠れて用事を済ませなければならなかった。その時だ。

 何故奴らだけが、とその時俺は思った。単に俺が普通科の高校に通わせてもらえなかったという事実よりも、それを当然のことのようにして生きている連中を目の当たりにしたその瞬間、俺の胸中で嫉妬の念が爆発したのだった。それは自分が持っていないから問題なのではなく、他人が持っているからこそそれは問題足り得ると言っていいだろう。その機会がなければ俺は、普通科の高校に進めなかったことを気に病むこともなかったかもしれない。

 別の話になるが、街に出れば女を連れて歩いている男が目に付き、これもまた俺を大変不愉快にする。しかし、それが存在してもしなくても俺には連れて歩く女がいないのだが、それが目の前に居るという事実が俺の欠乏を煽り立てる。俺は独身であり結婚に漕ぎ着ける兆しもないが、始終ひとりで居ればそれも気にならない。しかし、実家の両親などが結婚の催促などをしてくると、独身で居続けることが問題であるかのように感じられる。

 誰それはもうとっくに結婚した、お前はもうそんな歳なのに一体いつになったら親を安心させるのか、などと電話口で両親は俺に向かって言う。仮に親というものが存在せず、俺に結婚を急かすような者がいなかったなら、俺はそれについて何かを思うことは無かったかもしれない。しかし、結婚している何者かを引き合いに出し、お前にはこれが欠けているのだ、と言われればそれを意識せずにはいられず、その結果として伴侶がいる男に俺は嫉妬させられるハメになる。

 

 何かが欠けているから問題なのではなく、相対的に自分がそれを有していないという事実を浮き彫りにされることにより、俺の心中は掻き乱される。そのように考えれば、何かが足りず、また欠落しているというそれ自体は大したことではないのかも知れない。得られないことへの不快感や嫉妬の念というものは、絶対的な欠乏によるのではなく、自他の関係性における相対的な代物だと見なせる。

 また異性に関したことになるが、俺が暮らしているマンションの隣室に越してきた男にはどうも懇意にしている女がいるようだ。その者が現れてからというもの、隣室から女の声が頻繁に聞こえてくるようになり、建物の通路に女の匂いが立ち込めていることもしばしばある。これは今年の4月頃からのことで、それ以前には俺の近隣には無かった現象である。これらの事実が俺の孤独感を執拗に煽り立ててくる。

 しかし、現在住んでいる場所でそれがあろうがなかろうが、俺の境遇は一つも変わっていない。俺は延々孤独な状態で過ごしてきたし、さらに言えば目下入居している物件に移る前から俺は一人きりで生きてきた。それについて俺はさして寂しいとも思わなかったし、恋人がいる人間に羨望の念を抱くことすら殆どなかった。虚偽ではない。しかし、住処のすぐ隣の部屋で睦言と交わしている例の男の存在が、俺の精神を変容させるのである。

 金のことでもそうだ。俺は俗に言うワーキングプアという身分であり、安楽でも愉快でもない暮らしに甘んじている。しかし、最低限の衣食住は確保できており、公共料金の支払も滞りなく済ませ、かつ毎月の収入から支出を差し引いた額を貯金に回す余裕はある。しかし世間を見渡せば、俺と同世代の平均収入は俺の稼ぎよりも遥かに高く、昇給もあれば賞与もある。それが当然な階級と自らを比較すれば、自身の見すぼらしさを自覚せずにはいられない。

 この時期、FMのラジオ番組などで司会者か何かが当然のごとく聴取者に発する問いに俺は人知れず傷つくのだ。

「この夏のボーナス、あなたは何に使いますか?」

 此の世には、ボーナスと無縁な人生を送っている者が決して少なくはないはずだ。にもかかわらず、放送局は臆面もなく無遠慮にそのような文言を番組に入れてくる。まるでボーナスがない人間はその番組を聴く資格がないのだと言わんばかりだ。実際は単にボーナスも貰えないような下層階級についてラジオの送り手は想像が届かないだけなのだろうが、俺はそのような情報を受け取る度に嫌な思いをさせられる。

 

 

 飽くまで俺自身が主体的に何かが足りていないと嘆くなら、話は単純にして明快だ。それが入手可能ならそうすればいいし、それが不可能なら代わりの何かを見つければ済む。それ以前に、己が欲しているもが本当に自身にとって必要不可欠なのかどうか自省する道もある。自分にとって手が届かないものは、かなりの場合においてそもそも不必要なものであることがままある。

 ところが、他人にはあるものが自分にはない、などと思い始めれば人は泥沼のような思考にはまり込む。他者は無限に存在し、その者共が有しているものもまた限りなくある。それらに逐一なんらかの感情を抱き、一喜一憂するのは徒労以外の何物でもない。嫉妬というのは言うまでもなく無意味で無益な感情にすぎない。それに駆られる時、人は相対的に持っているかどうかに振り回され、消耗させられる。

 相対的な有無について意識し始めたその瞬間から人間の内に嫉みが芽生える。他人と自分を比較する機会が皆無ならそのような感情が生じることはない。他者の存在を意識することで人間の内面は無益な情念で埋め尽くされてしまう。それは本当の必要性に基づいた欠乏ではなく、本心からの渇望に端を発する感情ではない。言わばそれは自身の欲求への考え違いや思い過ごしでしかない。

 その誤った念に囚われ支配されれば人間の生は相対的なものでしかなくなる。他人と自分とを常に見比べ、相対的な有無や優劣を尺度にして森羅万象を捉えて生きることになる。そのような生き方を是とするものは少なくはないだろうし、ある者はそれを人として当然の道だと思うかもしれない。しかし俺は、そのような生き方が正しいとは思えず、また本意ではない。

 他人が浴するあらゆる得や楽しみ、安らぎなどを一顧だにしない時、人生は相対的なものではなくなる。かと言ってもあらゆる一切を自らに拠ると見なす考え方もそれはそれで生を深刻なもの足らしめてしまうし、窮屈だとも思う。どちらの極にも偏らない生き方が俺にとっての一種の理想なのかも知れない。少なくとも、他人と自分を比較し、自分には相対的に何かが足りないだの欠けているだのと思い煩うような精神は俺の望むところではないということだけは言える。