他力斎

雑記、雑感その他もろもろ

死に甲斐

 こんな生活には何の生き甲斐もない。働かされながらそんなことをふと考えた。俺は一体何のために生きているのか、などといった月並みな疑問が唐突に頭をよぎったのだ。行きたくもない場所に赴き、やりたくもない仕事に身をやつし、雀の涙ほどの賃金をありがたがり、食うや食わずやで爪に火を灯すような暮らし。そんな人生を維持することに一つでも意味があるのだろうか。

 無論、ない。他人のために時間や労力を溝に捨てて糊口を凌ぐような人生に、生き甲斐と呼べるような何かを捏造するのはあまりにも虚しい。ないものをあると偽り、黒を白だと言い張る徒労に、俺の人生は費やされたと言っていい。自身の境遇や現状などをどのようにして正当化すればいいかと俺は四苦八苦した。しかし、それは全く無意味な悪足掻きだった。

 稼ぎが平均や標準より多いというのならまだ救いがある。会社や他人どもに人生を切り売りして、それ相応の対価があるなら苦役に耐え忍ぶのに一応は値するだろう。我慢料として正当な額の金銭が支払われるなら、俺も文句は言わない。しかし、実際の労働においては、そのようにはなっていない。俺は結局のところ、赤の他人に屈従し都合よく利用されているだけだ。

 では俺はもういっそ、死んでしまった方が良いのだろうか。俺が自殺したとして、死体が腐敗して異臭騒ぎになり、発見され事件になったとする。その場合、他人は俺の死をどのように処理するだろうか。せいぜい、人生に行き詰まった独身男が将来を悲観して死んだのだと見なされるだけだ。そこには何ら劇的な要素もなく、それに同情したり心を動かされるような者など存在しないだろう。

 いまの俺がくたばったところで、全く死に甲斐というものがない。生きている甲斐がないからといってすぐに死を選ぶのはあまりにも安直だ。むしろ、生きるために必要な意味や理由よりも、死に対するそれらの必要性の方がより大きい。にもかかわらず、自身の死を正当化する何かが乏しいのが俺という存在だ。死に甲斐がない以上、作為的に無理をして死ぬ必要もない。

 

 

 殉ずる理由が明確にある人間がもし実在するなら、俺はそれに憧れるだろう。人間は遅かれ早かれ、どのような形であれ死を免れないが、それを完全に必然かつ正当なものたらしめるような確固たる何かを有する人間を俺は心の底から妬む。その人物にとっての死は最早、恐れるべきものでもなければ忌むべきものでもない。むしろそれは心待ちにした礼賛すべき瞬間なのだろう。

 普通に生きている最中においては、死に甲斐があるような生活など望むべくもない。ある日突然、死に直面したとするなら、我々は一体何を思うだろうか。おそらくは恐れおののき、これまでの生涯を悔やみ、無様に命乞いをするかもしれない。それの仔細については想像が届かないとしても、少なくとも従容と死に臨めるような人間など余程の傑物だけのはずだ。無論、俺はそれには属さない。

 生きることに理由が要るように、それは死に対しても同様だ。此の世における大概の者共にとって死が恐怖や苦悩の源なのは、自身の生活や生き方が死に甲斐のないものだと思っているからに他ならない。要するに我々はみな死ぬ準備が出来ていないのだ。そのような生活は生き辛いと同時にまた死に辛いものだと言えよう。言うなれば進むも退くも地獄のような状態だ。

 そんな只中にあって、生と死のどちらか一方に偏った姿勢を取ることは愚かしい。生きることはバカバカしいが、死ぬこともまた然りだ。俺にとって生死はともに執着すべきことではなく、その仔細にもこだわる必要を感じない。生きることも死ぬことも俺にとっては本意ではない。どのような死であれ、また生であれ、俺にとっては不本意なものにしかなりえない。

 思うように生きられないと、俺は子供の頃から嘆き不服に感じてきた。しかし少なくとも、俺の今生における生の実相は畢竟、どのように心がけ万策を講じたとしても、本意を遂げるような方には向かっていきようがない。それに俺は近頃になってから愚かにも気づいた。そしてまた、俺は不本意に死ぬことを時たま恐れるが、納得でき満足のいく死に様などもまた俺にとっては端から望むべくもなかった。

 

 生に執着する理由もなく、死に急ぐこともない。そのような態度であらゆる局面や瞬間に臨むなら、その中で深刻に畏まる必要はない。生き甲斐もしくは死に甲斐があるような生など、俺にははじめから無縁であった。それならば、生にも死にも偏ること無く、ただ泰然自若としていればいいということになる。生死一如の境地は別段、どうということもないのかもそいれない。

 この命は生きるにも死ぬにも値しない。それならば人生の最中で起きたことやこれから見舞われるであろうこともまた塵芥に等しい。これまで生きてきて、数限りない不愉快な思いや心残りがあったが、生死ともに甲斐がないと思い至れば、その間の事柄などもまた最早どうでもいい。俺は生きるわけでもなく、死ぬわけでもない。どちらでもない中庸な状態で俺は今ここにただ在るだけだ。

 生き死にの上での目的や意味を模索するのは俺の性に合わない。いや、それは俺に与えられた運命に反する試みだとさえ言える。俺の人生にはじめから意義など存在しなかったし、また後天的にそれを付与することなどどんな努力や心がけによっても不可能であった。他人に利用され、都合よく使い捨てられるだけの個体として俺は生まれてきた。せいぜい、他人に使役される道具としての意味しかない。

 それに然りと言えなかったから、俺は無用な苦悩や葛藤を被ることになった。俺は相当長い期間、アルコールに逃げて7年ほど酒浸りであった。その根本的な原因も思い返せば自身の過去・現在・未来に無意味さや無価値さを感じていたことにある。それを否定したくてもどうしてもできないというもどかしさややるせなさが俺を連続飲酒に駆り立てたのだ。

 無価値な生や無意味な死に如何にしてそれでも良いと言えるか、俺の存在はその一点にかかっているような気さえする。有意義で価値ある生を謳歌する者共を脇に見やりながら、俺は常に劣等感に苛まれた。学生時代からそうだったし、社会に出てからは低賃金で長時間高速の仕事で他人に扱き使われながら、自身とは対極の人生を送る連中に怨嗟の念を抱いた。

 

 

 自分の生もまた、その者共のようなものであったならと俺は夢想した。それはこの上なく愚かな羨望だった。 自分の人生が有意義なものであってほしいという願いが、今にして思えば俺を苦しめていた根本の原因であった。生きることに価値があり、自身の命が尊いものでなければならないというある種の強迫観念が、俺の精神を縛り付ける桎梏となっていたのだ。

 翻ってそれは死に対しても同じだ。俺は事あるごとに死にたいと思いながら、なぜいま、この瞬間のこの状況において死ななければならないのかとも思った。それは自身が死に臨む時に、それ相応の意味を見出そうとしていたからだ。自分が死ぬことに何らかの意義が無ければ、なぜ喜び勇んで死ねるというのか。俺がオメオメと今日まで生きてきたのは、無意味に死ぬのを厭ってきたからだ。

 それらはどちらにしても誤った考え方でしかない。生と死に過剰に意味や価値を求め、それらが見出だせずまた付与できないのを恐れたり焦ったりすることは間違っている。大願が成就し満を持して生まれてくる人間など存在せず、また全てのお膳立てが整った万全の状態で死に臨む者もまた極めて稀であろう。我々は無意味に産まれ無駄に生き、そして不意に死んでいく。それが実相であり、そのことから目を背けるべきではない。

 人間は意識がある限り、万物に意味付けを行いそれを生存する上での判断や選択の基準とする。それが生者のあらゆる営みの根本を為し、それがなければ人間は身動きが取れなくなる。生きる意味が分からなければ生きられないと感じ、自分が無駄死にすることを思えばそれを恐れる。しかしそれはそもそも、生きるための実利や便宜の為に行っているだけの謂わば方便でしかない。意味付けや定義付けをしないという道も選ぼうと思えばできるだろうし、当然それに及ぶべき者も存在するだろう。俺のように。

 とどのつまり、生きていても死んでいても同じようなものだ、俺にとっては。仮にもしそうであるならば、生死の合間に在る一切合財もまたあってもなくても、どのような形であったとしてもまた「同じようなもの」だと喝破してしまえなくもない。その方が生存上有利だというのなら、俺は臆せずに虚無感や無価値感を積極的に肯定し、然りと言うべきだろう。