他力斎

雑記、雑感その他もろもろ

無産

 勤め先の従業員のうちの一人が辞めた。昨日までは普段通り出勤し、仕事をしていたため、俺にとってはまったくもって意外であった。と言うよりも、退職の意志を表明してその次の日から現れないことの方に俺は驚かされた。引き継ぎやら何やらがあるのだから、最低でも1日は会社に来るべきだと俺は思うのだが、その者は突如職場から姿を消したのだった。

 どうもその男は会社でやらされている仕事の内容に不満があったようだ。上司の口ぶりから察するにそのような理由で辞めていったと思われる。彼は自分用の机も与えられず、雑務ばかりやらされていた。その点では確かに同情には値するかもしれないが、逆に言えば簡単で責任を負うこともない立場で給料を貰っていたのだ。人間関係の軋轢なども生じないほどの閑職だった。俺からして見れば却って羨ましい立場であった。それでも彼はそれが気に入らずに退職してしまった。

 その辞めていった元従業員の労働者としての資質について俺はあれこれ述べるつもりはない。有為であろうが無能であろうが、いなくなってしまえばそれまでのことだ。それよりも問題なのは、突然抜けていったその者の穴埋めを残った従業員で分担してやらなければならないという一事に尽きる。前述の通り引き継ぎをせずに例の者は消えたため、色々と難儀することが多々あった一日だった。

 俺は突如として辞めていったその男に対して、ある種の羨望の念を抱いた。この職場を去った彼が、その後どのように生計を立て、何をして生きていくのか、俺には全く想像が届かない。しかし、何であれ彼は少なくともこの職場からはオサラバできた。彼は長い目で見れば不都合に見舞われるとしても、短絡的には開放感を味わうだろう。俺はそれがほんの僅かばかりではあるが、羨ましく感じた。

 自己都合退職の場合、失業保険は退職してから3ヶ月も待たなければならない。俺はどの職場に身を置いている時でも、それだけがいつも気がかりでならなかった。例の男も早晩それで苦労することになるだろう、失業保険が貰えるかどうかも定かではないが。賃金労働者は会社を辞めればすぐに生活に行き詰まる。それが明白だから下層階級の労働者はなかなか職場を去ることが出来ないでいるのは言うまでもない。例の男はあっさり辞めてしまったが、普通はそうはいかないのが実情だろう。

 

 

 俺はいわゆる無産者だ。無産と言うよりもワーキングプアと称した方が適切かもしれない。とにかく、とりあえず有産階級でないことは確信を持って言える。他人が興し経営している職場に拘束され、安い対価で労働力を売り渡し、有限で掛け替えのない人生を他人のために犠牲にしている。そのようなことをしなければならないのは、単にそうしなければ生活が成り立たないからだ。

 俺はどんな仕事であったとしても、働くことが心の底から大嫌いだ。赤の他人のために自分の時間や労力を無意味に捧げるのはどうしても耐え難い。端た金で他人の献身を買えると信じて疑わない連中を俺は、一人残らず憎んでいる。加えて、金を払っている若しくは払おうとしてるという立場を悪用して居丈高に振る舞う「お客様」も反吐が出るほど軽蔑している。

 つまり、仕事上で接触するあらゆる人間を俺は忌み嫌っている。おまけにやらされている仕事自体も世間一般の社会通念と照らし合わせればとても誇りを持てるような代物ではない。そのような事情が俺の労働忌避感情をより一層強いものにする。拘束時間も平均よりも長く、時間外労働を強いられても残業手当など貰えもしないのに実質強制的に使役される。

 このような仕事を好きになれる人間が居るとしたら、それは異常者と呼ぶしかないだろう。宝くじで数億円当たったら、などといった月並みな妄想を俺は勤務時間中に無意味にしてしまう。金があっても仕事はやめないなどと宣う御仁がこの世にいるのだと何処かで見聞きした時の反発感も同時に頭をよぎった。一体誰が好き好んで働くというのだろうか。誰かに雇われて。

 ここで注目すべきなのは、他人の会社に使われるということと、仕事をするということを俺は完全に等号で結んでいるという一点だ。仕事をする、あるいは働くということが必ずしも雇われるということだとは限らない。個人事業主として仕事をしているものは大勢いるだろうし、財産管理や資産運用もそれで生計が立てられればそれ自体をもってして働いていると言っていいだろう。

 

 つまり俺は、他人に使役されることが嫌なのだ。赤の他人に時間や労力を破格の安値で売り渡し、労働力を搾取されていることこそが問題の本質だ。無産であることと他人に雇われなければ生きられない状況は殆どの場合において実質不可分だろう。しかし、先に述べたような例えの通り、雇われなくても生きていける道などいくらでもある。現にそうして仕事をしている者は現行の社会において決して少数ではない。

 俺は子供ころから働くことを絶対悪だと考えてきた。俺は両親や公立学校の教師などから、雇われる賃金労働者になる為の様々な躾や教育を施された。そして、それを強いる周囲の大人たちに俺は反感を抱いた。親や教師が提示し誘導しようとする未来は、俺にとっては少しも魅力的でなかった。遠からず、苦役と屈辱を被るという自身の将来を思えば、俺は青春を謳歌することさえ馬鹿げているように思えた。

 俺は職を持ち仕事をすることをただ闇雲に厭う人間になった。俺は自身が資産家の息子か何かに産まれなかった事を心の底から悔やんだ。安い賃金でやりたくない仕事をさせられ、他人に頭を下げ続ける人生など、俺には地獄としか感じられなかった。また、それをしなくても終生やりおおせる人種が存在する世間を俺は不平等だと思ったし、自分がそれでないことが不服でならなかった。

 しかし、有産階級に属しているものであっても、その大半は何もせずに済むというものでもあるまい。本当に厳密な意味でただ単に遊んで暮らしている人間など極めて稀だろう。資産家には財産の管理や運用という仕事があり、それは被雇用者がやらされるそれとは性質は異なるものの、働いているという点で見れば本質的な違いはない。有産者でなくてもフリーランス個人事業主もまた、雇われていないだけで働かずに済んで居るわけではないのは言うまでもない。

 仕事をしている時間は自由がなく楽しくもないと俺は思っていた。だがそれは、俺が仕事と雇われることを不可分だと見なしていたことに根本的な原因がある。辞めていった例の男も、被雇用者という身分を脱してそれではない別の道を模索しようと試みたのかもしれない。俺が知らないだけで、彼には手に職があり会社に雇われる必要がない状態であった可能性は否定できない。

 

 

 無産者であることよりも、雇われるしかないという個人的な資質や性向が俺を苦しめている。先に触れたように、俺は被雇用者として生きることを前提に教育を受け、俺は自身が施されたそれに疑問を抱くことはなかった。働きたくないとは思っても、労働即非雇用という図式に対しては当然のことと受け止めていた。実際にはそうでないということは本稿では何度も述べた通りだ。

 無論、有産者として産まれてきた方が無産者として生まれ育つよりも何億倍も楽であり、有利ではある。色々と得なことがありすぎて困るくらいだろうが、それについて俺が想像したり妬んだりしてもそれは俺に何ももたらさないだろう。恵まれた裕福な連中がどのような人生を送り、如何なる心持ちでいるかなど俺には全く無関係であり考える必要が無いことだ。

 俺は無産者だから生きることは楽でも幸せでもない。しかし、だから何だというのか。それで不遇を託つだけで済ませてきて、ただ仕事が嫌だだの働きたくないだのと不満を抱くだけで終わらせてきたのが俺のこれまでの半生であった。具体的に行動に移すことを前提としない思考や感情など、一円の得にもならず、人生には何一つもたらすことはない。

 無産者として産まれ、生きなければならないのは不本意ではあるがやむを得ない。それならば、その上でどのようにして死ぬまでの間に今生をマシなものにできるかが俺にとっての課題だ。そのためならば必要な自己投資もしなければならないだろうし、日常的にやらされている仕事以外に加えて、何か別のことへの労力を厭わない姿勢も必要になるだろう。

 不本意のまま、本願を遂げられなくてもそれでも命が尽きるまで生きる以外に生者には選択肢などない。目下の暮らしから抜け出すために、会社を辞めるという道も絶対に選べないわけではない。実際、俺が働かされている職場の従業員は既に一人いなくなった。その後の彼がどのような人生を歩むか、正直に言えば全く興味が湧かないものの、俺自身もまた機が熟せばそうしたいという気持ちだけは持っている。無産者としてマシな生き方がしたいと欲するなら、他人の会社で雇われたまま人生を浪費し続けることは少なくともベストな状況ではないというは火を見るよりも明らかだからだ。