壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

弱み

 納品書は荷物に同梱したはずだ。にもかかわらず、昨日職場から発送した荷物にそれがなかったなどという連絡が取引先からメールで送りつけられてきた。そしてそれが悪いことに上役の連中に知られ、俺が仕事でミスを犯したかのような印象を持たれてしまった。昨日の仕事でのことであったため、ハッキリと記憶に残っているが、確かに送り先への荷物に納品書は同梱したはずだ。

 しかし、受領した取引先の人間は納品書がないだの商品の点数が正しくないだのと妄言をメールで寄越してきた。そしてそれが上司などの目に触れてしまった。そのことで職場で一悶着あり、最終的に俺があたかも業務においてミスをしたということになってしまったのは遺憾であった。しかし、俺が何を言おうが却って火に油を注ぎかねないと思い、俺は結局自身の非のなさをあまり主張できずに終わった。

 仕事でミスを冒したと見なされれば、評価や査定に響く。業務上の不手際で上役の心象を損ねることを俺はかなり気にしている。成り行き上、俺の過失として見なされた今日の件は恐らく有耶無耶にはならないだろう。万が一、同じようなことが何度も起これば最悪の場合は減給もありうる。俺はそれをどんなことがあっても避けなければならない。

 俺は職場でどのように思われようと頓着しない。仕事上の人間関係など俺にとってはどうでも良いからだ。また、他人が俺を無能で間抜けな役立たずだと見なしたとしても、そのことで一々気に病んだりはしない。要するに、俺が労働中において気がかりなのは減給や拘束時間の延長などであり、それ以外のことはどうなろうと一切気に留めはしない。

 しかし、金や時間を他人に不当に搾取される事をことさらに恐れる精神にどれほどの正当性があるというのだろうか。金や時間を不当に奪われたり正当な対価や余暇が与えられなかったり、それらを奪われる可能性をちらつかせられたりする度に、俺は逐一慌てふためき、怖気づき、悔やんだり嘆いたりしなければならないのだろうか。それは俺にとって一体どれほどの意味があるのか。それが俺に何をもたらすというのか。

 

 

 濡れ衣を着せられて、俺は給料を減らされたり会社に居づらくなることを恐れる。そしてそれから遠ざかろうとして、俺は八方手を尽くす。それを倦み、厭いそれを避けるために神経を尖らせ、汲々とし、常に真面目かつ深刻ぶる。実際にそれが実現してしまったとしたなら、俺は困り果てるだろう。日々の苦しい暮らしぶりがよりいっそう困難なものになり、労働力の搾取はその苛烈さをひときわ増すだろう。

 それは俺という存在にとっての最大の弱点だ。失いたくないものを損なわないようにすることで、それに人は縛られる。仮にもし俺が賃金などにこだわりを持たずに済むような身分であったなら、上役どもにどれだけ無能だと見なされても痛くも痒くもないだろう。濡れ衣を着せられても全く動じないに違いない。それに囚われずいられるなら、それこそが自由と呼べるだろう。

 しかし、実際はそうではない。なにより、俺が他人に雇われ気に食わない連中に頭を下げやりたくもないことを必死でやるのは単に金欲しさだ。それが脅かされかねない懸念材料など、一つでも減らすべきだし、むしろそれはない方が望ましい。金のために働いているのだから、それを重視するなというのは到底不可能だ。大切なものを蔑ろにすることは出来ない。

 結局、あるものを大切だと思うことこそが問題の始まりだ。大事なものを守ろうとするからこそ人間は苦しみを被る。それがもし大切でなかったなら、なくしたところで何の感情も湧かないだろう。また、それを自分から奪おうとする者共を恐れることもその加害を警戒する必要もない。金の心配が要らなければ上役にどう思われても構わず、そもそも俺は会社などに拘束されはしない。

 人間は守るべき大事なものが多ければ多いほど苦しみ、また弱くなる。逆に一つも大切でなく、守るべきものが全くないなら、その人間は無敵となる。強さとはこだわらないことであり、弱さとは執着心や未練だ。俺は金銭への得失に固執しているが故にそのことで逐一悩み、他人に弱みを握られている。金が得られないことなど上辺だけの問題に過ぎない。

 

 他人が所有している会社に所属する時点で、俺はその持ち主に精神の弱みを握られている。自分が最も執着し、重視しているものを他人に依存することがどのような意味を持つか、俺はこれまでの人生で終ぞ深く考えたことはなかった。仮に会社の人間共が俺をどのように見ていたとしても、正当な対価を支払わざるをえないなら、俺は連中の評価など一顧だにする必要はない。

 そもそも、金のことで悩んでいなかったなら、生殺与奪を他人に委ねることも有り得ない。そうでないならば、そうなろうとするのが本来望ましい。給料が少なく、生活が苦しく、嫌いな連中に頭が上がらない。それら全ての根本的原因は、俺が金への執着を捨てされることが出来ないからだ。さらに言えば、金に困らずに済むような能力や何らかの手段があれば、それでことは足りる。

 会社でどのような目に遭わされ遇されているかなど、瑣末なことだ。さらに一歩踏み込んで言うなら、他人よりも自分の側の問題であるとも言える。金に固執し、それの不足を嘆いたり恐れたりする自身の精神や資質に根本的な原因がある。金に困らないようになれば、俺は会社で働かされる謂われもなく赤の他人に無闇に頭を下げる必要もない。

 そのような境遇に身を置けない自らを恥じなければならない。他人に弱みを握られているというのは飽くまで例え話だ。本当は弱みとは常に自分自身のうちにある。それに縛られ、囚われ、自由になれないのは自身の精神や能力、資質による。他人の思惑や都合など跳ね除けられるほどの力がもしも俺にあれば、金の問題など端から生じることはない。

 何かに悩まされたり苦しめられるとき、人は自身の内面の欠落や未熟さに直面する。克服しなければならない対象はどんな局面においても己だ。外面に問題や障害があるように見えてもそれは上辺だけの見せかけだ。人生とはどこまでも個人的なものに過ぎず、他者という存在など風景のようなものでしかない。たとえそれがどれほど有害で邪悪な代物であったとしても。

 

 

 正されるべき何かは常に自身の内側にあり、外側に現れる諸現象はそれが表立って現れた一つの形でしかない。それは例えるならば水面に立つ波のようなものだ。波は表面に現れるものでしかなく、その奥深くには深い水底が控えている。人間が日常で認識する世界は水底ではなく波であり、波をどうにかしたいと欲するならば水底に深く潜る必要がある。

 他人や自分の外側の何かに苦しみや悩みの原因があると見なすのは、浜辺で波浪だけを見やり、大海を知ったかのように錯覚するに等しい。それは容易いことではあるが、海を知ることとは程遠い。また、海にまつわる問題を解決しようと望むなら、それは何の意味もない。会社が悪いだの上役が悪いだの、妙なクレームをメールで寄こす取引先がクソだなどと言ったところで、俺には全く益のないことだ。

 それらが問題となる他ならぬ自分自身が置かれた状況やそれを打開できない自らの能力や資質の方にこそ目を向けなければならない。それこそが沖に出て海の深くを覗き込むことに当てはまる。そして、一度奥深くに潜ろうとして海底に視線を投げれば、最早海原の大波小波などは眼中になくなってしまうだろう。

 金のために汲々とし、それが得られるか失うかで一喜一憂させられるのは間違いなく己の弱さ故のことだ。それは会社のせいでもなければ他人に非があるわけでもない。仮に企業や個人に問題があるとしても、それらと縁を切れずに利用されたり屈したりする自分自身の程度の低さにこそ問題の本質を見出すべきだ。

 それに執着する自身の心の有り様と、それを実際に苦労しなければ得ることが出来な能力のなさや機転の利かなさが全ての大本にある。理想としては、それを難なく手に入られると同時に、それに大きなこだわりを持つことも頓着もしないと言う状態が望ましい。しかし目下の俺はそのようにはなれていないし、なれる兆しもない。それを志向する為に具体的に日々の生活の中で何を行い何を考えなければならないかを常に自問しなければならない。

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