壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

実用的でない文章

 毎日仕事で業務日報を書かされている。俺が働かされている会社では、その日ごとにやったことや関わった事柄について従業員は詳細にメールで上役と社長に報告しなければならない。ハッキリ言って、他のどの業務よりもその業務日報メールを作成することの方が骨が折れる。俺にとってそれは仕事上でかなり嫌な部類に入る作業の一つだと言って良い。

 その日報は、昨日と同じような内容であってはならない。その日ごとに別々のことに気づき、それを報告しなければならない義務を従業員は負わされている。しかし、毎日従事させされている仕事の内容は大体ほぼ毎日同じような作業の繰り返しだ。だからといって殆ど同じような文面の日報を提出するとそれを上役共は問題視する。だからこそその作業は面倒この上ない。

 毎日書かされ提出する日報は文字数にして約1500文字ほどだ。内容が薄すぎるとそのことでまた上役連中に攻撃材料を与えてしまう。だから俺は当てつけとばかりに事細かい内容を日報に書き綴ることにしている。具体的な作業の手順を一つ一つ、一挙手一投足まで事細かく叙述するほどのつもりで、俺は念入りに念入りに日報を書き、それを3年半ほど毎日続けている。

 同じことを繰り返しながらも、報告する文章は同じ内容出会ってはならないという矛盾。それを成立せしめるために俺はあの手この手の姑息な方法を弄する。気づいたことを書く項目を箇条書きにするにあたり項目ごとの順番を入れ替えてみたり、メール一通FAX一通送信するだけの作業を大仰に書き起こしてみたりといった具合だ。日報の文章が前日と比べてできる限り違う様相を呈するよう、俺はアレヤコレヤと心を砕く。

 また、一応それは仕事上の文書であるため、当然堅苦しく形式的な内容や文体となる。それは言わば実利的かつ実用的な文章であり、それをしたためている最中には何の面白みもあるはずもない。それは単に上司などの目に触れる上で俺自身を攻撃する材料を与えないようにするために保身の行為にすぎない。それは自然と硬質な文章となり、文法や文体も定石通りにするしかない。

 

 

 だが、それは正直に言えば全く無意味な作業でしかない。どのような大御心に基づいて業務日報をメールで提出する慣習が例の会社にあるのか、俺には知る由もない。それを従業員に課すことにより、会社側にどんな得があり、組織を運営する上でどのような利点があるのか、皆目見当もつかない。上司も社長も、なぜそんなことを従業員に義務付けているのか依然、明らかにはしていない。

 恐らく、実利的な意味などない。単に拘束時間を長くし、組織に忠誠心や帰属意識を植え付けたり刷り込みをするための効果を狙ってのことだろう。 そんなもののために貴重な時間を割かなければならないという自身の境遇が、時折り悔しくてたまらなくなる。その上、少しでも手を抜いた内容にすればすぐにそのことで目上の者に責め立てられるのだから堪ったものではない。

 前職の会社でも日報を作成しなければならなかったのを思い出す。現職でも前の職場でも俺は実務的な文章を日常的に作成することを無理強いされ続けた。実用に適った文章を俺は特に意味もなく作ってこなければならず、前職においては誤字脱字などの細かい推敲まであった。それについていま思い出しても億劫な気持ちになる。文体などの指定までさせられた始末であった。

 これまでの人生において、会社で書かされてきた文章は全て実用的な形式張ったような作法や定石に則ったものしか無かった。会社の仕事で書くものである以上、砕けた内容にすることも出来ず、一字一句に神経を尖らせ無ければならなった、特に前職のそれにおいては。現職における日報は流石に添削じみたことはないが、それでも作成に相当な時間や労力を要するという点で違いはない。

 いわゆる正しい日本語の綴り方で書く文章を作ったところで、全く楽しくない。しかも、実利や実用に適っているのは文章のみであり、先に触れたように日々それをやらされることに具体的な意味や価値などはないに等しい。あると言えば、できるだけ会社を会社らしくするための儀式的な意味合いをその作業は持っていると考えることも出来なくはない。

 

 俺が目下書いている文章それとは全く異なる意味や性質の代物であることは言を俟たない。実利や実用に適っていなかったとしても誰に何を言われることもない。また、他人に強要されて書かされているものでもなければ、何者かの評価や査定を気にする必要もない。そう思えば、同じく日本語で文章を書いているにもかかわらず、随分と本質的には異なる行為をしているということになる。

 また、俺は文章教室に通っており、そこで出される課題としてエッセイやら小品やらを提出することがままある。そこで書かされる文章とくだんの日報との間の明確な区別というものが自身にキチンと出来ているのだろうかとも俺は自問する。つまり、文をしたためるという上辺だけの行為だけを見てそれら及びブログなどの文章を十把一絡げにしているところが、もしかしたらあるかもしれない。

 小学生から作文などを習い、学校や会社などでいわゆる正しい日本語の文章を俺はこれまで幾度となく書かされてきた。それの一つの弊害として、俺は文章を作る時にどうしてもフォーマルなものしか書けなくなっているきらいがある。業務日報やビジネス文書などならそれで一向に問題はないだろうが、ブログだの文章教室だのでもその形式から抜け出せないのであれば問題だろう。

 毎日俺は練習と称してブログで文章を作っているが、それにはかなりの労力と時間を要している。それをやるために一日における時間の相当な部分を掛けていると言っても良い。詳細さや正確さ、さらに言えば精緻なないような表現などを求められる必要がない場での文章でも正式な形のものにしようとするのは明らかな誤りだ。第一、それのために四苦八苦できるほど俺には時間的な余裕はない。

 正しい書き方に固執するあまり、文を作るという行為のハードルを自ら無意味に高くしているところがあると自省する。また、その害は文章講座の課題や何かに応募する作品などを作る際にも生じている。硬い内容の文章しか書けないから、俺はそれらにおいて芳しい成果を出せずにいる。それは俺が文を作ることに常に、どんな局面でも悪い意味で真面目だからだ。

 

 

 少なくとも、ブログごときの文章なら畏まることはないだろう。日ごと仕事でさして重要でもない日報などを無闇矢鱈に書かされているのだから、それでない場面においてももっと力を抜いても良いような気がする。書き言葉として正しくないだとか、文章全体の内容にほころびが見られるだとかいうことにはもう、こだわらずに気楽に済ませなければ、俺の人生は日報とブログを書くだけで終わってしまいかねない。

 遊びでやっているくらいの気持ちで良いのかもしれない。ともすれば、俺の人生のあらゆる全てに、俺はあまりにもシリアスに真面目くさって臨んでいるがために、却って上手くいかなかったのではないかという気さえする。対して大切でもないことにバカにこだわり、時間や手間を掛けてきたがそれで俺は一体何を得たのだろう。少なくともブログの文章に凝る意味など差し当たり存在しない。

 ずいぶん前に俺は、自ら毎日3000字の文章をコンスタントに作り続けると自らに課した。俺はそれをバカ正直に続け、一応はそれを達成し続けてはいる。それを続けるにはそれなりの労力と時間を必要としたが、それは本当に必要だったのかと振り返って思う。3000字書くことはそれはそれで構わないとしても、文のディディールにあまりにも心を砕きすぎ、それのために膨大な時間を無駄にしたような感がある。

 カタカナ語を使うべきでないだとか、文章全体の意味が一貫していないだとか、余りにも枝葉末節すぎることを気にしすぎて、自ら自由を失い自身を苦しめるような有り様になっていたのかも知れない。無論、実用的な文章ならばそれらを気に留めなければならないかもしれない。また、講座の課題や懸賞に応募するようなものならばそれらに最新の中を払う必要はあるだろう。しかし、気楽に書いていい場面も多々あるだろうし、ブログのごときは正にそれだと言えるだろう。

 仕事での文章を気楽に書くことは許されないのだから、それ以外の場における文は気軽に、さらに言えば楽しく作れるようになりたい。思い返せば俺は、何事も楽しむという気持ちが欠けている。とにかく真面目に真剣にやればそれで首尾よくいくと思いがちなところがある。それはそれらの態度で万事に臨むように俺がかなり厳しく躾けられてきたからなのだが、子供の頃に施された教育や条件付けなどといったものの全てから、もういい加減に解かれてもいい時期に差し掛かっているだろう。