壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

受取拒否

 他人から侮蔑や嘲弄の念をよく向けられる。仕事などではアカラサマに見下されることがままあるし、行きずりの場で指を差されて嘲られることすらある。あらゆる悪感情があらゆる他人から俺に向けられているのを日常において頻繁に感じる。そしてその経験や記憶が、前触れもなく頭の中に去来し、苦々しく思い起こされる。両親ですら、俺を蔑んでいることを隠しはしない。

 それらの局面において、俺はどうすることもできなかった。いつも見えないフリや聞こえないフリを装うか、それらが能わなければ適当に愛想笑いで誤魔化すかだ。キレて相手に襲いかかりたくなるような場面もあるが、生来の小心なタチが幸いし、未だそれには至っていない。そんな手合いの挑発に乗り、自分から過失や攻撃材料を的に与えるような愚を、今のところは犯すことなく済んでいる。

 だが、既存され辱められた俺の精神はそのままだ。これまでの人生において、俺は一貫して泣き寝入りをしてきた。そうする以外に選択肢がなく、ただひたすら寿命が尽き此の世から説かれるまで辛抱しなければならないのだが、この精神的な負担をどのようにして軽減するかは、俺にとって決して避けて通れない問題だと言える。対策を講じなければ、いつ自身が暴走してしまうとも知れない。

 そもそも他人共は自分の心情を俺に伝えることで、一体何がどうなると考えているのだろうか。まずその点が俺には理解できない。見下し、あざ笑うことで刹那的に優越感にひたるのが、それほど快いものだというのか。それもまた俺には到底理解できない感情だ。要するに俺はナメられているのだが、そのナメる言動に一体どのような価値や意味があるのが、どれだけ頭を捻ったところで俺にはやはり見当もつかない。

 結局のところ、理解不能な挙動や思考、情動の類いでしかないそれについて、考えるだけ時間の無駄という話になる。俺にとってその手の感情を表明してくる手合いというのは、動物よりも不可解な存在で、その上きわめて有害極まりない人種でもある。そのような連中の内心や心情などといったものを慮ったり察したりすることは出来ないし、またする必要もないと言えるだろう。

 

 

 無益な感情を表に出し、何かを言ったりやったりしてくる者どもというのは畢竟、どうしようもなく幼稚なのだ。己の感情が刹那的に満たされるという、ただそれだけのために他人を害する行為のどこにも正当性などありはしない。そんな冷中が表明する気持ちになど、塵芥ほどの価値もないということは言を俟たない。俺は、そのような人種と深く関わることを極力避けなければならない。

 しかし、怨憎会苦は此の世の逃れがたい苦しみの一つだ。どれだけ避けようとしても、そういう御仁は此の世の至る所に生息しており、それらの全てとの一切の交流や接触を断ったまま生涯を全うすることは実質的に不可能なのは言うまでもない。それらは単に災いと見なすべきだ。悪徳を持った人間としてそれらを認識するのではなく、それらは事故や災害と同一視し、それらから自身を守る対策を講じるべきだ。

 それらが明け透けにし、表明してくる、それらが具有しているとされる気持ちや魂胆といったものの受け取りを拒絶すること、要するにこれに尽きる。感情や精神と思しきものを例の者どもが有しているかどうかの、それはどうでも良い。仮にそれら若しくはそれらに類するものを具有していたとしても、俺がそれらに配慮したり阿ったりしなければならない義務などない。これだけはいくら強調してもしすぎるということはない。

 俺はお前を下に見ている、バカにしている、蔑んでいる、などといったそれらの考えを逐一、言葉や行動で示してくる者どもの内面の気持ちや感覚、情動のすべての受取を俺は拒否する。第一その者どもが俺についてどのように見なし、考え、評価していようともそれは俺とは全く無関係な事象でしかない。それらの一切はそれらを有する当の本人だけの占有物であり、俺がそれらを共有して一々何かを思ったり感じたりする謂れはない。

 世間ではよく、他人の気持ちを考えろなどいう考えや文句が流布されているが、俺はそれとは真逆の道を進みたい。即ち、俺は他人が腹の底で思ったり考えたり、感じたりしていることの全てに関与も関知も一切しない。個体がその内面で抱くものは、全てそれ自らが背負い、処分すべきものであって、それの発端が仮に俺にあったとしても、それは俺とは全く関係のないものだろう。

 

 どう思われても、何を言われても、さらに言えば何をされたとしてもそれらで以って俺が何かを思ったり感じたりする必要はない。仮にそのようなことをしてしまえば、俺は敵の術中に嵌ってしまうことになるだろう。現に俺のこれまでの人生がそうであったが、それは他人に自身の主導権を握られるということに他ならない。挙動や精神活動の全てを他人に委ね、操作されていると言っても、決して過言ではないのだ。

 そのような状況に甘んじる必要性もまた一切ない。要するにそれは他人の顔色をうかがい、機嫌を取り、それの評価や心情に一喜一憂しているのだ。それは精神的にその対象に俺が隷従しているということでしかない。そしてそうでなければならない理由など、言うまでもなく一つもない。そのため、俺がそれをしないと心に決め、現にそうすればそれで話は終わってしまう。

 それが罷りならないと宣う御仁も大勢いる。実際に俺は他人の気持ちなど我関せず、といったような態度でいると、他人共の中において俺の所作や言動に気分を害したなどと言う者が必ず発生し、このようなことを俺に言ってくる。

「お前は俺をナメてんのか」

 この発言をどのように捉えるべきか。発言者は俺を己よりも格下の存在と見なしており、俺が自分(つまり発言者)を心の底から敬い崇め奉るのが当然だと考えている。またそれは、力づくで無理やり強要させた上での隷属ではなく、俺の自発的な自由意志によって自分のこと(しつこいようだがこれも発言者)を崇敬するのが望ましく、またして然るべきだと思っているのだ。

 俺の側から言わせてもらうなら、それこそ「ナメてんのか」と意趣返しに言ってやりたくもなる。どれだけ俺のことを軽蔑していればそのような考えができるのか。これは俺の被害妄想や邪推などではない。実際にそう思っていなければ、お前はこの俺を尊敬しろ、献身しろ、奉仕しろ、それを当然のことだと考えて俺に全てを捧げろ、嫌だと言ったり思ったりすることは絶対に許さない、などとどうして言えるだろうか。

 他人が俺をどう思おうとも勝手であり自由だ。それに基づき、俺に何を言い何を使用がそれもまた俺がそれを禁止することはできないだろう。しかそ、それらを受けて俺が何を思い何を言い、何をしたところでそれもまた勝手である。人間は感情を共有したり共感することができる生き物だとされている。しかしそれは、飽くまで出来るだけであり、しなければならない義務を負っているのではない。

 

 

 人間が抱いた感情は、飽くまでその当人だけが自らの内で処分すべきものだ。手前の腹の底の魂胆などを臆面もなく表に出し、他人に負担を強いたり苦しめたり痛めつけたりする権利など誰ひとりとして有していない。この一点に限れば、俺は決して間違ってはいないと胸を張って言える。俺は他人の気持ちなど関せず、逆もまた同じだ。それが正しくまた健全な精神と呼ぶべきものだろう。

 他人から何かが郵便や宅配で送りつけられた時、それが不要であれば当然受取を拒否する権利が万人にある。それと同じように、言葉や感情のやり取りでも、他人が俺に向けてぶつけたり投げかけたりしてくるものを受け取らないという選択肢は常に用意されている。俺は子供の頃から、他人から送りつけられる諸々のものを馬鹿正直にすべて受け取ってきた。先の例えで言えば、受取拒否すべき有害で危険な郵便物や宅配物を全て受領し、抱え込んでいたようなものだ。

 受け取る必要が無いものは拒絶すればいい。先の例えで言えば、受取拒否された物は郵便であれ宅配であれ送り主に返送される。受け取られなかったものは送りつけた者が引き受けなければならない。言葉や情緒のやり取りでも同じことだ。害悪となるそれらを被った者がそれらを受取拒否すれば、それらを表明した者、投げつけた者、放った者にそのまま返送される。受け取りさえしなければ、受け手は無傷のまま、送り手が全ての禍を背負うことになるだろう。

 重ねて言うが、バカ正直に他人が投げつけるものを受け取ることは愚かだ。要するに他人に何を言われようが思われようが、気にしないということで、それは一種の呪詛返しだ。すべての言動は受け取らなけば放ち表明したものにそのまま全て戻ってくる。戻ってきたものをどのように処理するかは返送された者がその全責任を負わなければならない。

 あの時あいつにあんな目に遭わされた、あんな思いをさせられた、などと逐一記憶し、反芻するのは他人の有害な贈り物をそのまま受け取り手元に置き、抱え込んでいるに等しい。一度受領してしまえば受取拒否からの送り主への返送は難しいかもしれないが、受領してしまったものを延々と手元に置き続けずにゴミとして捨ててしまうことは出来る。俺は唾棄し一顧だにすべきでない他人の感情や発言の全てを、過去のものは捨て去り、現在ないし未来のものは受取を拒否するつもりでいる。