壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

困憊

 図書館から本を借りすぎて窮地に陥っている。次の日曜日までに返却しなければならない本が5冊あり、そのうちの2冊は貸出期間の延長が出来ない。よって、延長ができないものは返却日までに読了しなければならない。そして、今この時点で、2冊のうち読み終わっているのはわずか1冊のみ。月曜日からは仕事をしなければならず、仕事の合間に読書をしなければならないということになる。

 読み切った1冊も日曜日の全ての時間を費やした。それは文庫本であったため読了できたが、残りの1冊は単行本でしかもかなり分厚く、内容も平易でないときている。俺は手元に置いてある四谷図書館から借りてきた本を前に焦燥の念にかられている。貸出期間の延長可能なものは保留するとしても、それが出来ないものは是が非でも次の日曜までに読破しなければならない。

 もしかしたら無理かもしれない、という懸念が俺の頭の中に浮かぶ。朝から夜まで働き、食事を摂りブログの文章を作り、選択やら何やらをしながら、それらに割かずに済んだ時間を読書に充てたとして、読み切れるかどうか甚だ怪しい。加えて俺は睡眠にかなりの時間を割かなければならず、それもまた不安材料となる。ブログの記事の更新をサボればもしかしたら間に合うかもしれないが、それだけはどうしても罷りならない。

 土曜日は国会図書館に行き、そこにしかない本を読まなければならない。そのため土曜日はまるまるその場所で別の本を読むことに費やされる。そこに所蔵されている本は館外へ持ち出すことが出来ないため、俺はわざわざ毎週末には永田町まで自転車で出向き、閉館になるギリギリまでそこで読書をする。これは土曜日には絶対に欠かしてはならない行動なのだと、俺は自身に強く戒め、課している。

  要するに、俺にはとにかく時間がない。俺は毎週日曜日に千代田区と新宿区の図書館に毎週交互に通い、各々の図書館で借りた本の返却と新たな本の貸出の申請をする。各図書館の貸出期間は2週間で、それらに交互に赴く度に本を3~4冊借りているから、俺の手元には常に7,8冊くらいの借り物の本が常にある状態となっている。働きながらそれだけの本に目を通すのはかなりの労力を要する。

 

 

 働かずに済めば今以上に本を読めるのに、と俺は最近いつも思う。労働に費やす時間が俺にとってはムダで無意味なものに思えて仕方がない。また、世の中には賃金労働などという馬鹿げた愚行に及ばずに済む人種というものが掃いて捨てるほど存在しているのだということも頭によぎる。そして、俺自身は何故そのような身分ではないのか、後天的にそれに成ることが出来なのか、何故生まれながらにそれでないのか、といった不平不満が胸中で渦巻く。

 資本主義社会において、他人に雇われなければならない身の上というのは問答無用で負け犬であり不幸な存在だ。俺はその認識について、絶対に誤魔化してはならないと思っている。それは当人にとって、と言うより俺にとっては極めて不都合な事実ではあるが、それを仕方がないだとかそれが当たり前なのだから、などと正当化すべきでないと考えている。それは精神的な敗北だと言える。

 端た金で人生の大半の時間を他人に捧げることが、良いことであるはずがない。俺はかつて販売や積極の仕事をした。工場や倉庫でも働かされた。オフィスでも働いたし、清掃業の職に就いていた時期もあった。そしてそれらのどの職場も、単刀直入に言えばクソ以外の何物でもなかった。給料は平均未満で拘束時間は平均以上、組織や上役への忠義や献身、滅私奉公を当然のこととして要求する最低人間の巣窟だった。俺が目下、働かされている会社もまた例外ではない。

 時間だけでない、それらは俺から多大な体力と精神力を搾取する。それらの職場で苦役に従事すれば、それ以外のことを日常でやる気力などとても湧かない。それは俺が単に物臭で根性がないということもあるかもしれない。だが、そもそも働かずに済めばそんな問題は端から生じないということもまた無視すべきではない。有限な生涯の大半を他者へタダ同然で明け渡すことを、仕方がないの一言で済ますことなど俺には出来ない。

 かつて俺は先がない苦しい労働に耐えながら生活を営む為に酒の力を借りていた。それは俺の意思が弱く、精神的に問題を抱えていたということも理由の一つではあろうが、大本の原因は仕事が辛く将来における明るい兆しもなく、その現状から抜け出す術が差し当たり見当たらないからだった。下らない仕事で被る疲れも悔しさも酒を飲めば取り敢えず棚上げにすることはできた。酒の唯一の効用とはまさにそれであり、俺はそれに頼らずには生きられなかった。

 

 今の俺は酒とは縁を切り、文章教室に通いながら読書をすることに余暇の全てを割いている。働きながら困憊の中、良い文章を作ろうと悪戦苦闘している。そしてそれをする上で当然、読書という行為を避けて通ることは出来ない。文章力を向上させるには可能な限り多くの情報を得なければならず、それはネットで得られるものだけでは十分ではない。そのため、体力的に辛くても図書館に通わなければならず、精神力を振り絞り疲労を感じながらでも紙面に視線を投げなければならない。

 働くことを詭弁により正当化することは罷りならないとしても、現状の生活が疲労と不可分なものであることを隠したりそれを誤魔化す必要はないだろう。読むことも書くことも俺にはやはり骨が折れる。どちらか一方だけならばまだどうにかなるが、インプットとアウトプットを自らに課し、日常的にそれらを継続して行うのは苦しみが伴う。酒に溺れている暇など、いまの俺には一切ない。

 休む時間も欲しいし、本を読んだりものを書いたりする時間も欲しいが、それは叶わない望みだ。働かされている時間の全てが自分のものだったなら、俺はどれだけ色々なことが出来るだろうかと妄想する。そしてそれが実現しない現実に幻滅されもする。労働が俺の人生から自由を失わせ、新しい何かをする時間や新たな情報を得る機会を奪っているのを感じずにはいられない。

 そのような思いを一生涯することもなく、好きなことに興じ道を極められる人種を、俺はたまらなく妬ましく思う。また、その手の連中と俺が何かの分野で勝負したとして、勝ち目など万に一つもありはしないとも思う。好きなだけ本を読めたり創作をする時間がある恵まれた人間だけがそれを専業に出来るのだとしたら、俺には一切の望みがないということになってしまう。

 疲労困憊でも、現状の生活から抜け出すには何かをしなければならない。その何かが俺にとっては本を読むことであり、また文章を作ることなのだと今は考えている。それ以外の方法で俺が浮かび上がり貧しさと卑しくキツい仕事から解かれ自由な身分になる方法はない。他のやり方ではどうしても無理だ。それはこれまでの人生が証明している。真っ当な方法で、俺が幸福になれる可能性は皆無だ。

 

 

 その真っ当な方法とやらで俺が目下の苦境から脱しようとしても、やはり疲れを感じながら何らかの行動を、仕事以外の何かに及ばなければならないことは必定だ。向いておらず、好きでもないことで疲れながら無理をするくらいなら、多少は適性や興味があると思しき分野で勝負したい。望みがどれだけ薄くても、俺は疲労困憊の中で読み、書き、それらと並行して不本意な労働に耐え忍ぶ必要がある。

 無産者のワーキングプアである限り、俺には時間も自由もない。その現状を好転するには、多少の無理には甘んじる必要があるのは言うまでもない。それを厭うなら俺は一生涯、低賃金労働者として生きなければならないだろう。重ねて言うように、それを肯定したり妥協したり、ましてや正当化するようなことは絶対にしてはならない。実人生というものに於いては本来、仕方がないは禁句だ。

 逆に言えば、追い詰められているからこそ具体的な行動に出られるという側面もあるのかも知れない。今日のことでも、借りた本の貸出期日が迫っていなければ、俺は一冊の本も読むことはなかっただろう。俺に限らず、人間というものは必要に迫られなければ何もしようとしないものだ。時間や気力が有限で、心身の限界がすぐ背面にまで迫っている状況は何かをするには却って好ましいと捉えることもできる。

 何かを為すには人間は苦しまなければならない。能動的であることを肯定するならば、それに伴う苦しみや疲れといったものにも、また抱き合わせで然りと言わざるを得ない。現状に甘んじることは容易い。書くことも読むこともせずに安酒を呷り卑しい職業に就くことを正当化することは楽ではある。泥酔し、酩酊の中にいれば苦しみもなければ不安も焦りも恐れもない。

 それを潔しとしないからこそ俺はわざわざ七面倒臭い諸々の事柄に手を染めている。このブログですら、本来なら続ける必要などない。毎日苦しい労働に従事しているのだから、それに加えて無意味な文章を書き連ねて余計に気力や体力を浪費するのは馬鹿げている。しかし、俺はすでに書かなければ不安であり、読まずにはいられない。このまま何も為せずに停滞して年老い、他人に使役され屈辱の中で死んでいくのは、疲れるよりも辛いことだ。

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