壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

馴致

 仕事の内容が近頃キツくなる一方だ。従業員が一人減り、単純に人手が足りない状況であるというのがまず第一の原因だ。そしてそれだけでなく、盆休み前で仕事の量が通常よりも多いということも重なっている。それらに加えて、取り扱っている自社商品が検品やパッケージ交換、シール貼り付けなどが必要な欠陥だらけのガラクタばかりだというのが致命的だ。

 他社製品よりも自社製品の発送や出荷に関する作業が業務全体をかなり圧迫している。そのため、作業場は一日中かなり切羽詰ったような状況となり、居心地が相当悪い。技術もノウハウもなく、マーケティングもせずに作っている者の自己満足か何かのために製造されたガラクタの為に動作確認をやらされるのが嫌だ。また、箱の表記の不備などで注意書きのシールを貼り付ける作業もまた相当骨が折れる。

 業務を圧迫する馬鹿げた瑣末事が無くればいいのにと思う。自社製品のガラクタがもし全て販売中止にでもなれば、それだけで仕事はだいぶ楽になる。それだけでなく、面倒な得意先などとの取引もなくなれば、仕事の時間に余裕ができるため俺としては大変嬉しい。そのような空想を頭のなかで思い描きながら俺は、日々の苦役に耐え忍んでいるような有り様だ。

 だが、仕事が楽になることが俺にとって本当の望みだと言えるだろうか。多少楽になったとしても、会社が別物になるわけでもなければ、労働環境が著しく改善されるわけでもない。職場の人間関係において、居なくなればいいと思っている者どもがいるが、それらが消え失せるのでもない。にもかかわらず、俺が心底望んでいるのが「仕事の量が減ること」だというのだろうか。

 答えは断じて否だ。俺は今の会社そのものを嫌っている。本当の望みとは苦役を少しでも軽いものにすることではなく、それ自体からの解放だ。しかし、単に仕事をバックレて会社を辞めることによってではない。俺が解かれなければならないのは下層階級の卑しい身分からだ。それは突発的にいま働かされている会社から逃げることは達成できないのは言うまでもない。ましてや目下の仕事の量の多寡など問題ではない。

 

 

 自身が抱いている思考の動きを意識的に顧みる時、しばしば俺は愕然とする。気づかないうちに自分の精神が他人や環境などの外的な要因により、支配されているように思われてならない。あれがなくなれば、奴が居なくなれば、仕事が楽になるのに、という発想においては、会社という枠組みの外に己が抜け出すという選択肢がはじめから考慮されていない。

 つまり、知らぬ間に俺の頭の中は会社に雇われて生きることが当然で疑う余地が無いことだと見なされている。そのことを日ごとに苦しさを増す仕事の中で思い知らされ、俺にとってそれは青天の霹靂のようだった。与えられた枠組みの中で少しでも楽になろうという発想が骨の髄まで身に付いているのは、我ながら信じがたいことであり、また悲しむべきことのようにも感じられた。

 家畜のように馴致された労働者としての自分がそこには居た。いつからか、俺は自由や幸福を志向することを諦めてしまった。そしてそのことを自覚もせずに、半ば眠ったように唯々諾々と辛苦の中でただ無為無策で耐えるという愚かな生き方をしてきてしまった。俺は学校や実社会で自身の望みや願いを挫かれる経験があまりにも多すぎたから、そのようになってしまったのかもしれない。

 物心ついた時から、俺の人生には雇われずに生きるという道が示されてこなかった。生きるということは働くということであり、また働くということは赤の他人に雇われ使役されることを意味していた。子供の頃の俺の周りに居た大人たちは皆そのようにして糊口を凌ぎ暮らしていたし、彼らは躾や教育などにより俺を自分たちの隊列に加えようと試みた。何者かから雇用され一日中働かされ、給料を貰いそれをやりくりして死ぬまで生きることは自明であり当然のこととされていた。

 俺自身、それに大きな疑問を抱くことはなかった。漠然と前述のような生き方を厭う気持ちだけはあったが、それは仕方がないことだと思い己をただ納得させ、他人に従うことを俺は選んで生きてきた。他人に使われずに生計を立て生きる手段を講じることもなく、俺は被雇用者として労働に従事するための教育を受けた。そして俺はめでたく、くだんの生き方をするしかない、弱く情けない、下らない人間となって今ここに存在している。

 

 長い時間をかけて俺は雇われて生きる者として精神を鋳型に填め込まれるようにして、仕込まれてきた。俺は生活習慣から考えや思い、願いといったものまで他人の思惑により定められ、それらから自由になれずに人生を無意味かつ無駄に費やした。中小零細企業の劣悪な労働環境から抜け出そうとも思わず、その中で如何に苦しまずに楽に就労時間をやり過ごすかに心を砕いているのが、その何よりの証拠だと言える。

 俺が通っていた大学は実質就職予備校のようなところで、就職をゴールにして4年間を過ごす事を前提とした学校だった。俺は学生時代、その校風に腹の底では「嫌なもの」を感じていて、それで色々とやる気が起きなくなり塞ぎ込んで引きこもり気味になりながら毎日をただ無為に過ごした。他人に使われずに済むような行き方、自由な身分になるために具体的に何をどうすれば良いのか、道筋も指針も無く、当時の俺は途方に暮れた。

 大学を放り出された俺は職を転々とし、正規雇用であれ非正規であれ、誰かに屈服し苦役に耐え忍ぶような生活を強いられた。労働がもたらす心身の疲労と、過去への後悔と未来への絶望、現在で被る汚辱。俺の20代はただそれらだけが満たされた代物でしかなかった。俺はどこの職場でもどんな仕事を理不尽で不条理な目に遭わされてきたし、それはいま働いている会社においても全く変わっていない。

 俺はあまりにも長い間、他人に扱き使われ過ぎたのかもしれない。大学から放り出され学生という身分を剥奪されてからこっち、俺は他人に使われることで糊口を凌ぎ、雀の涙ほどの賃金により爪に火を灯すような人生を送ってきた。それこそが俺にとっての日常であり、そうでない生き方など遠い彼方の別世界の話のようにしか思えなかった。

 

 

 貧困と自己同一性が、俺の中では完全に不可分なものとなっていたのだ。苦しい仕事に貧しい暮らし、それらこそが自身の人生であり、逃れられない宿命だといつしか俺は信じ込んでしまっていた。さらに言えば、赤の他人に献身や奉仕することを常とし、時間や労力を乏しい賃金に変えて生きることを当然のことと捉えていた。それを嫌がることすら、俺はすっかり忘れてしまった。

 本当に避けなければならないのはガラクタの検品や嫌な客と対応、好ましからぬ社内の人間などではなく、俺がそれらを被らなければならない環境そのもののはずだ。つまり、下層社会で低賃金労働者として生きる事を前提とした境遇そのものからの脱却だ。先に挙げた諸々の事柄は、謂わば枝葉末節のどうでもいい瑣末事に過ぎず、それら一つ一つに不平不満を言い立てることは建設的でない。

 別の会社に転職しようと思った時期もあるが、それもまた皮相的な対処だ。これまで俺は、一体何度職場を変えたか知らないが、それによって自身の暮らしぶりや就労環境が好転した例がない。下層階級の被雇用者という身分である限り、どこのどのような仕事に就こうが、根本的な解決には到底なりはしない。俺が勤め先を憎みながらも辞められないのは、そこから逃げたところで同じかそれより酷い仕事をさせられるハメになる、ということが明らかだからだ。

 今働かされている会社の中で待遇を改善することも、転職して別の職場に移ることも、俺には何ももたらさないだろう。それは容易に想像できることだ。金銭的かつ時間的な余裕を自らにもたらす方法があるとするならば、俺は他人に雇われたり使われたりして生活せずに済むようにする必要がある。最早職場でどのような目に遭おうとも、俺の生涯における大勢には何の意味もないことだ。

 目先のことに目を奪われ、目指すべき所を取り違えないようにしなければならない。貧困や賤業から抜け出す為に、己が何をすべきで何を考えるべきか、逆に何をすべきでなくどのような考えや思いにとらわれないようにすべきかを常に自問しなければならない。仮に目下の仕事が多少楽になり、待遇がマシになったとしても、俺は絶対にそれに喜んだり満足したりすべきではない。俺が達成すべき目標はそれではない。枠組みそのものから自らを解くことを第一に考え、それだけを見据え見失わないよう、ゆめゆめ心に刻みこむべきだろう。