他力斎

雑記、雑感その他もろもろ

非人道

 俺は果たして、人間と呼べる代物なのだろうか。社会的な意味合いで言うところの人間の定義に、自身が含まれているのだろうかという疑念に駆られることが最近ある。いわゆる普通の人間としての人生を、俺は全くと行っていいくらいに歩めていない。それを不都合だとか不本意だなどとは思わない。だが、悪い意味で普通でない人間は、そもそも人間としての範疇に含まれていないのではないかと思うと、ふと不安になる。

 他人よりも秀でていて普通だというのならまだ救いはあるが、俺の場合はそうではない。人並みの水準に様々な面で達していないという点で、俺は普通ではない。そして俺はマトモな人間としての生涯を歩んでこなかったし、これから先もそれはどうしても能わないだろう。当たり前の経歴や青年期、家庭を築くための相手や経済力、また精神性などの諸々が、俺はやはり普通ではない。

 正常な人間が送るべき人生を謳歌している者どもが街なかに溢れているが、俺はその一群に加わることは有り得ない。普通の学校に通い、普通の恋愛をし、普通の会社で働き普通の結婚をし、普通の家庭を築き、普通に生きて死んでいく。疑問も葛藤もなく、当然のようにそれらの一連の流れに沿い生涯を過ごす個体こそがやはり「人間」豊部に相応しい。

 翻って、その意味で俺は人間ではないと結論付けられてしまうのだろう。人間が人間として生きるには必要な経歴や人間関係があるだろうし、経済力や社会的な地位というものも必要だ。通常なら生まれてからの長い歳月をかけてそれらを身に付け、人間は人間となっていく。その常道や定石から俺は外れてオメオメと生きてきたから、俺は人間になり損なった個体なのだ。

 身長や顔立ちなども普通と比べて俺は劣っている。言いたくはないが俺は背が低く、顔貌も好ましいものではない。外見だけで他人から低く値踏みされ、侮られた経験は、俺にとって一度や二度ではない。その点でも俺は人間ではない。普通の人間となるために備えていなければならない身体的な条件すら俺は満たせていない。さらに言えば俺には生殖能力すら先天的に欠落しているということも付け加えておく。

 

 

 種無しで容姿が劣り、経歴が傷や曰く付きで金も地位も持っていないような者は畢竟、人間失格だ。その一事が俺をこれまで延々と苦しめてきた、ただそれだけが。要するに俺は、公明正大に自分自身を人間に他ならないと胸を張って宣言することが出来ない。俺は社会的な意味で人間ではない、人非人に過ぎない。この劣等感や疎外感というのは平均以上の境遇や生涯を送ってきた人間には絶対に理解できないだろう。

 俺は「人間」という指標や基準にこだわり、それに達しているかどうかが常に気がかりだった。平均未満であることが露呈したり自覚させられたりすることを、俺は極度に恐れ続けた。他人に侮られたり蔑まれたりする度に屈辱を味わう時に俺は、さながらそれらの念を向けられる者どもから「お前は人間ではない」と言われているかのような気にさせられるのだ。

 しかし、自他共に自らを人非人だと見なされたり思い知らされたりすることが、本当に問題なのだろうか。優れていようが劣っていようが、単に俺はそれでないというだけだ。俺が人非人であったとしても、それを反射的かつ無条件に憂いたり嘆いたりすることは必須なのだろうかという疑問もまた湧いてくる。俺がこれまで抱いて北感情が、実のところ不必要がない心の葛藤や迷いにすぎないのだとしたら、全くお笑い草だ。

 普通の真っ当な人間、あるいは日本国民として生まれ育つことも生きることもままならないというのは、悲しむべき不幸せなことだろうか。少なくとも俺自身はそのように考えいたが、それがそもそも間違っていたのではないかという気も最近はしてくる。自分が真人間の域に達しておらず、あらゆる点でそれから逸脱した存在であることを認めるのは、ともすれば目もくらむほどの自由を俺にもたらすのではないか、とも思うようになってきた。

 俺は何かにつけて自由を志向してきた。それは極めて曖昧であやふやな夢想に過ぎなかったが、具体的で明確な自由というのは、ともすれば非人道な振る舞いや在り方の中に存するように思えてきた。人としての道や枠組みから外れた領域で生きているからこそ実践できる無軌道さや野放図、通常とは相反する全てが自由の本質であり、また実相であると言えるのかもしれない。

 

 俺は人並みのキャリアを形成できていないが、それは見方を変えれば過去に執着する必要がないということを意味してもいる。経歴に加えて俺には、個人的な思い出という面でも、振り返って懐かしんだり誇らしく思ったりするものなど一切ない。俺は自身の半生を惜しむ気持ちなど一切なく、だからこそ虚無感や悔恨の念を抱いたりもしたが、思えばそれは過去の一切から自由であるということを表してもいる。

 他人と悪い意味で違い、異なっている自分を恥じる気持ちもまた考え一つで雲散霧消してしまう。他人と自身を比べ劣等感に苛まれるのは自然の摂理でも万物を司る法則でも何でもない。単に俺が人並みで真っ当な人間として不適格だということを勝手に、自らの裁量や判断に基づいてのことでしかない。他人とは異なる原理原則で生きられるのだと考えればそれだけで気が楽になるし、実際に俺は今日までそれに則り生きてきたのだから、転向は極めて容易いだろう。

 普通や平均、標準などの尺度を絶対視して物事を捉えたり見なしたりするのは、正当でも妥当でもない。仮にそれに基づいて全てを認識して数多の恩恵が得られるならば、そうすれば良いだろう。だが、そうでないならば、例の尺度など大して当てにならない。それどころか却って人を苦しめ痛めつけ、雑多な害悪をもたらすだろう、この俺の生がこれまでずっとそうであったように。

 人として相応しくない自身のあらゆる要素を自覚する度に俺は屈辱を感じずには居られなかった。俺の欠点をあげつらうだけでなく、決めつけに基づき下衆の勘繰りであれこれと邪推し、俺の精神を完膚なきまでに痛めつける普通の人々を、俺はどんな瞬間や局面においても憎み、そして恐れた。普通の、マトモな人間でなれないことが暴かれ、思い知ることは、俺にとって死ぬより辛いことのように感じられた。

 言うまでもなく、普通でないことは罪でも悪でもない。そのことを恥じるのは義務ではない。また、それに罪悪感を持たされるのは摂理でも法則でも原理に基づいたことでもない。人間として正常で真っ当で、標準以上であることに大きく特別な意味を見い出す心が、俺の中に単にあっただけだった。その一事が覆り消え失せてしまえばそれでそれに関する苦悩や葛藤は消えて無くなるどころか、はじめから存在すらしなかったということを俺は知るだろう。

 

 

 人間として並以上で、善良で、正当であることを権威付ける必要など俺にはない。それに依って立つ立場や身分の人間ならそうすべきだが、俺がそれでないことはここまでに重ね重ね述べてきた通りだ。それならば、俺はその例の範疇や枠組みに自身の内面においてあらゆる権威付けを行いさえしなければ、俺はこれ以上苦しむ必要が全く無いということになる。

 何に依って生きるべきかは自らが選び決断すべきであるし、それは飽くまで自身の都合や適性に応じて判断すべきだろう。俺は自分にとって適切な判断の基準を持つことができなかったから、今日まで無用な懊悩を抱え込んできたのかも知れない。自分に何ももたらさない物事を深刻ぶってあれこれ思い煩うことはバカバカしい。第一俺がそれをしなければならない筋合いはどこにもない、今頃になってようやく俺は愚かにも気づいた。

 人としてどうかというのは要するに人道である。マトモな個人として歩むべき生き様があり、振る舞いがあり、超えなければならないハードルがある。それを達せないことへの劣等感や罪悪感に俺は責め苛まれてきた、四六時中だ。人としての道がこの俺を延々と苦しめてきたし、またそれにより俺は幾度となく痛めつけられてきた。他者や外界に属する一切が俺に牙を剥き俺を害しているように感じられてならなかった。

 人道から逸れることを肯定し、積極的にそれを志向することに活路を見出す以外で、俺に与えられた選択肢は存しないと言っても過言ではない。非人道と言うと何やらおどろおどろしく、後ろ暗い印象を抱いてしまいがちだが、俺は単に正道の人間とは違う生き方という意味でこの言葉を用いたい。普通の基準や範疇の中で幸福や自由を享受できないならば、それらの外であり続けることに然りと言う以外にどのような道があるというのか。

 俺は非人道、人非人という大仰な思い切った言葉で自身と自らが歩むべき道を言い表したい。正常な普通のルートでは生きていけないということを俺はこれまでの反省において嫌というほど身に沁みて分かっている。その道は俺にとって歩むべきものでもなく、またそれをしたいという願望は錯覚や思い込みの類いでしかなかった。俺は自身が「人間ではない」ということを自覚し、それを積極的かつ意識的に肯定しなければならない。それだけが天が俺に与えた道なのだ。