壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

速読に適う形

 文章というものは単に文字の集まりや塊ではない。そのようなことをハッキリと感じたり思ったりしたことなど、白状するとこれまで終ぞなかった。筆者は先天的な無知無学、浅学非才のためにそれについて考えが及ばなかったのだが、これから先はその生得的な愚考からの転向をしていかなければならないと実感している。本稿からそれを踏まえた構造を成した文章を生産していくことを意識するように心がけていきたい。

 

志向すべき文章への一応の指針

 本日から、ブログにおける記事の文章を項目に分類し、各項目ごとに見出しを付記することとする。本ブログは3章構成で記述する形式をとっているため、見出しも本稿より3つ設けることにした。見出しは各章ごとの本文全体の要約として機能する文面とし、より読み物として読みやすい形の記事をコンスタントに生産できる体制を整えることと当面の目標と定めている。

 これまで筆者はこれまで文章を作成するにあたり、シド・フィールドなどが提唱した三幕構成を参照し三分割の構造と成るよう意識してきた。確証の比率は1:2:1となるようにし、更に中間部は2つに分割することにより、実質4等分の文章を一つの記事としてこれまでブログを更新してきた。これよりそれの章ごとに大文字の見出しが加わることとなる。

 予め断っておくが、筆者はブログのアクセス数を増やそうなどという魂胆でこれを行うのではない。相当長い期間に渡りブログを運営しているにもかかわらず、殆ど誰も読んでいないという事実を好ましくないとは毛ほども思っていない。ブログ自体の趣旨が元来筆者の文章生産能力を向上させるという、極めて私的な理由に基づいていることは何でも強調しておきたい。というより自らに言い聞かせたい。

 要するに少なからず方針を変更することとなるのだが、これには一応の理由がある。この度筆者は、文章作成において自らが目指すべき地点をハッキリと自覚するに至った。それは主題として据えているように速読でも読める体裁の文章にするというものである。速読というと何やら大仰というか胡散臭い印象を抱く者もいるだろうが、つまるところそれは手早く本を読む手法にすぎない。

 早く読んでも内容を理解できるような構成の文章を継続して量産できる能力を身につけることをこれより目標とする。それは見出しだけでなく文章全体を形作る上で常に意識しなければならないことだ。更に言えば精読する必要のないもの、極端な話だが読まなくても達意が損なわれない文章を量産していく。それを先日掲げた最低4000文字の文章を作りながら達成していくのだから、かなりハードルが上がっていると言える。

 読者に読む気がなかったとしても、問題なく伝わるほどの内容の文章を相当な文量で生産できるようになれば、それなりに文章が達者であると自負しても自惚れとは言えまい。文章で生計を立てられるようになることを当面の目標して勉強なり読書なり、執筆なりを行っているのだから、この程度は難なくこなせるようになれなければ話にもならないだろう。誰に言われたわけでもないが。

 

速読と文章作成

 速読とは要するに文章全体を概観して内容を把握する技能である。細かいやり方には複数の種類があるようだが、潜在意識だの右脳だのといった眉唾な言葉を用いて歌うような代物でない一般的な読書術の範疇に収まる現実的な速読法というのは、一冊の書籍の情報を効率よく得るための手法だ。それは超能力じみたものではなく、ライフハックや生活の知恵に属する。

 筆者が掲げている「速読に適う形」の文章というのは前述の現実的な方の速読法で読解可能なものを指す。現実的かつ一般的な速読みをした場合でも、精読するのと同じくらいに内容が理解できるような構成の文章を作れるようになることを筆者は現状の目標としている。

 何故そんな気を起こしたのかというと、筆者自身が近頃、速読の訓練を始めたからだ。文章の学校に通うことを決めてからというもの、つまり今年の2月ごろから、読書をする必要性に迫られるようになった。現在、図書館に通う習慣を自らに課し、毎週数冊の本を借りて読むようになっている。借りた本には返却期限があり、当然それまでに読み切らなければならない。

 ここで問題になるのは、読書スピードである。限りある時間内で複数冊の本の内容を読まなければならないのだから仕方がない。本音を言うなら、読み書き以外の全てを放擲し、それらだけに専念して修行じみたことをしたいくらいだ。しかし、一般的な社会生活を営んでいる身の上であれば、それはできない相談というものだろう。本来ならそれは、学生時代にとっくにやっておくべきことなのだが。

 自身が無産者だという現実が、最近は特に煩わしく思える。俺がニートか何かであったなら、たかが数冊の本など一字一句精読して読むことができるだろう。しかし、先に述べたように「一般的な社会生活」をしている身分であるため、それは不可能と言うしかない。他人と雇用契約を結び、朝から晩まで、月曜から金曜まで、会社という空間に拘束され僅かばかりの賃金を得て生計を立てているのが筆者の現状だ。

 普通なら賤業と読書は両立し得ない。一般的に下層階級に属する人間は本と縁遠い生活をしているとされているが、それは偏見でも謬見でもない。それは単に識字能力や知能の問題だと片付けてしまうことは簡単だが、筆者はそれ以外にも理由があると考える。筆者自身、卑しい生まれに傷だらけの経歴を持つ底辺労働者の端くれである。だから下層階級という存在に対しては一家言ある、と言うより実体験から語ることができる立場だ。

 

 その立場から私見を述べるが、その階級に属する者は読書の仕方を根本的に誤っておりそれは知性や読解力以前の問題だと言える。書籍というものにどうやって向き合うべきかというリテラシーや方法論を身に付けていない者が下層階級の大半であるため、我々の殆どは正しい読書ができていない。それが大きな要因となり、我々は読書から遠ざかる羽目になっているのだ。

 案外、本の読み方を知っている人間はそう多くはない。我が国における識字率はほぼ100%ということになっているが、その一事をもって全国民が本を読む能力を備えていると考えるのは早計であろう。文字を読めるということと本を読めるということは必ずしも一致しない。それというのも、我が国の学校教育では文字の読み方は教えても、本の読み方を手取り足取り教えるようなことは基本的にしないのだから、それは無理からぬことではある。

 筆者もまた文字は読めるが本は読めない人種であった。公教育において本を効率的に読解する能力は完全に自力かつ独学で学ばなければならないケースが大概だろう。そして、それを習得できるかどうかで個人の運命と言うか社会的にどの階層に属するかがある程度決まってしまうのは無視できない事実である。俺は一体なぜ成功できなかったのかと、筆者は自身の人生を振り返って自問し、悔恨の念を抱くことがよくある。畢竟、その最大の原因は何かと言えば、それは本が読めないからに他ならない。

 書籍というものとどのように臨み、その中に収められた情報を効率よく摂取する能力だ。それを備えていない人間は、惨めで貧しい人生を送らなければならなくなる、筆者がそうであるように。そのことに今頃になって愚かにも気づいた筆者は、速読法という技術を身に付けようと躍起になっている次第である。今はその手法を用いることで、週数冊の本を読める程度の能力を身に付けられるように四苦八苦している。

 くだんの方法で本を読む訓練をしていると、速読に適した文章とそうでないものがあるということが分かってくる。また、ある文章の巧拙を判断する上で、速読できるかどうかが基準となり得ることに気づいた。全体の構造というか構成が速読みに適している文章は基本的に上手い、良いと感じられるようになった。この一事を持って文章の良し悪しを断ずることは的外れではあるまいと思った。加えてそれは、自らが文章を作っていく上での指針としても極めて有益なのではないかという結論に至ったのである。

 

見出し以外でも意識すること

 そのような理由から、元々3章に分けて作成している本ブログの記事の要所々々に見出しを設けることにした。速読に適う文章は見出しを見るだけで内容を理解できる。つまり、そもそも見出しがあるかどうかが文章の品質を問う上での判断材料となり得るだろう。逆に言えば、見出しもなく書き連ねられているような文章、昨日までこのブログに載っているような代物は駄文もいいところだったというわけだ。文章を文字の集合体だと見なすのは皮相的すぎる見方だ。文章は形而上の構造物であり、単なる文字の羅列として存在してるのではなく、明確な意図でもって組み立てられるべきものなのだ。

 そして、その明確な意図というのは見出しの有無や内容に限らず、本文においても気を配る必要性を認識することでもある。単に見出しがありそれらが適切な文面でありさえすればそれで及第ではなく、本文の組み立てもまた速読できるものになっている文章が良い文章であると筆者は実感し、それを自ら実践することで文章作成能力を向上させようと試みているのだ。

 読書法でよく唱えられるテクニックの一つにトピックセンテンス法というものがある。それは文章の各段落の先頭の文を読むことで段落の文全体の内容を理解するという手法だ。そしてそれは単に読解の方法としてだけでなく、文章そのものを評価する基準としても有用である。つまり、その読み方で全容が分かる文章が良い文章であり、それをもってして理解できないなら悪文なのだ。

 これを書く場合にも応用するなら、トピックセンテンスを明確に意識した構成で文章を作成することになる。詰まるところ各段落の全体的な要約として、段落の先頭の一文が機能するような書き方を心がけるのである。段落が集まったものが文章であるため、各段落ごとの先頭の文、つまりトピックセンテンス同士が有機的に結びつくようにすれば文章全体の構造なり構成なりを意識することとなり、全体的なクオリティが向上していくという算段だ。

 問題はそのような意識や指針でもって長い文章を毎日欠かさず生産できるかどうかだ。単に週に一回、月に一度の作文でそれをやるというのなら大した労力ではないだろう。ところが筆者はコンスタントに日ごとその手法を踏まえて毎日文章を量産する気でいるのだ。もしかしたら高すぎる目標かもしれないという一抹の不安がよぎってくる。だが、それを難なく日課にできる能力がもし、自身に身に付いたとしたらそれはそれなりの文章力を習得せしめたということを意味している。それを達成することを目指してこれからは長々と書いていくことにしよう。