壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

今にして思えば

 振り返って分かることは沢山ある。後悔先に立たずというのは手垢まみれの言葉だが、正鵠を射ている。自分の人生というのもまた、ことが終わってからでなければ実のところよく分からないものだ。私は他人からどのように定義され、また自身では己をどのように見なしていただろうか。この歳になってようやく朧げに理解しつつある。

 

親が想定した私

「工業高校のぉ土木科さ入ってぇ、測量技師になればぁ、月30万も貰いにいンだぁ」

 父のこの一言は私に課せられた宿命を一言で表した名台詞だ。だがそうは言うものの、この発言の背景を明らかにしなければ、それが指している具体的な意味やニュアンスなどを読み手に伝えることは不可能だと思われる。まず、この言葉が放たれた時間と場所について事細かく述べていくこととする。

 私が中学二年生だった頃、進路を決めなければならない時分の話だ。当時の私は特に将来というものを深く考えてはいなかった。世の中学生というものは大抵そうだろうが、取り敢えず普通科の高校に進学し、学校に通いながらどのような人生を歩もうかジックリ徐々に決めていけばいい、くらいに思っていた。今にして思えば、これは極めて楽観的というか浅薄な精神であった。

 そのような愚劣な息子を一蹴したのが冒頭で述べた父の言であったというわけだ。父と母は、「普通科は大学に行く人が行くもの」と固く信じて疑わず、それに同調しない私の不見識を徒党を組んであざ笑った。続いて母は2階から父の給与明細を持ってきて、それを私に突き付けていった。

「オメェ、大学なんて行けるどでも思っちゅんずな? バカでねんずなオメェ!」

 津軽弁の話者である両親の発言を一々標準語に変換する必要性の有無については私も迷うところではある。しかし、くだんの方言も一応は日本語に属している言語であるため、私は敢えてそれを行わない。と言うより、文字に起こせばどの地方の方言であっても日本語を解する者なら読解可能だと思われるので、しない。とにかく、父と母はまだ中学二年生に過ぎない私にそのような発言をしたということを踏まえていただきたい。

 つまるところ、他でもないこの瞬間において、私は己の宿命についてハッキリと知ることとなった。これは私にとって社会的に死亡したイベントのように思えてならない。よって、社会的な存在としての私の享年は14としたい。なにはともあれ、その日をもって私の普通の人間としての命運は尽きたと言っても過言ではあるまい。ここで私が述べている普通という言葉は、標準的な日本国民として、という意味で用いている。

 私はその瞬間、自身の人生に絶望したが両親は私の気持ちなど全く介さないようで、その方がより一層、絶望的であるように思われた。何故彼らは私の気持ちが分からなかったのかは明白だ。父も母も高卒であり、さらに私たちが日常的に接触する人間の殆どが中卒ないし高卒の人間であったため、両親は私が何を嫌がっているか想像できなかったのだ。

 両親は端から私を高卒社会人にする算段でいたのだ。母はその腹づもりで私を産み、父はそれを前提にして私を躾け育てた。生まれつき、私は高校さえ出ていればそれで十分な存在であり、それ以上を望むのは不適切な願いでしかなかった。それならば高校にも行きたくないなどと私が身勝手を言うと、それもまた罷りならないと両親は言った。要するに、両親は私をどのような存在にするか、かなり明確な展望を持って子供に接していたのだと言える。

私が想定した私

 翻って私は前述した通り、己をどのように処するか定めてなどいなかった。自身を何者であるか、定義することは重要である。これは自己完結した自画像ではなく、他者や自分を取り巻く環境や社会などを俯瞰して明確に認識し、それを立脚点として個人としての自己の経歴や能力などをどのようなものにしていくか、言うなれば人生の戦略を練っていかなければならなかった。その点で両親は私自身よりも私についてよく知り、また考えてもいた。

 私は農村にある貧家の、長男としてこの世に産まれ落ちた。出生したその瞬間に私という個体がどのような振る舞いをすべきか、あるいはしなければならないか、9割9分は予め決まっていたと言って良い。父も母も貧しく、父方も母方も血筋がいいとはお世辞にも言えなかった。そのような星のもとで生まれてきた私は、前世で一体どのような悪行を成し遂げたのだろうか、気になるところだ。

 愚かにも私は自分を普通だと思っていた。津軽という場所を日本国内においては有り触れた一地方と捉えていた。また、自身の生家についても金持ちではないものの別に貧しいというわけでもない、可もなく不可もなくといったところだろうと、重ねて言うが愚かにも思っていた。言うまでもなく、これは謬見である。自他ともに普通であり、マトモな生き方ができると考えるのは、私のケースで言うと誤りであった。

 子供の頃はなんでもでき、何にもでなれると思っていた、重ね重ねになるが愚かにもそう思っていた。小説家にもゲームクリエイターにも、放送作家にもなれると思っていた。未来は未知数にして無限大で、一流大学でも一流企業でも頑張れば入れる、行けると浅はかにも思っていた。それが根本的に間違っていたということを私は中学二年の進路決定の折に思い知るハメになった。

 いつかは、と頭の中で延々と念じた。大嫌いな習い事も小学校も、故郷の弘前も、今を耐え忍べばそれらから解放される、自由になれる日が訪れるのだと若い頃の私は固く信じていた。中2の例の瞬間を経ても、私は以前その幻想を手放すことができずにいた。まだまだ人生はこれからであり、前哨戦にもなっていないのだと。実のところゲームは始まる前に終わっていた、というのは笑い話だ、他人事であったなら。

 中学校の授業内容など、私には完全に無用の長物とかした。此の世の全てが無意味に思えてならなかった。大学にも行けず、高校が終わり次第、働きに出されるのだと思うと、私は嫌で嫌でたまらなかった。中学時代に於ける後半を私は、落ちこぼれとして過ごした。私は一切を諦め、全てを斜に構えるようになった。それは思春期特有の態度であったようにも思えるが、世間一般の中学生と比べ私の場合、少々ペシミスティックな要素が強くあったようだ。だが、それがどのような性質のものであれ、その時から私は既に人生に失敗した社会の落伍者であった。

 

 職業科の高校に通いながらも、私は妄想の世界の住人だった。ラジオ番組の投稿コーナーにネタを送るハガキ職人として、私の高校時代は費やされた。今にして思えば、これもまた『いつかは』という念が私を動かしていたのだろう。小説やシナリオを執筆するならまだしも、ハガキ職人というのは今にして思えば志が低すぎると、自らにツッコミを入れたくなる。ラジオに投稿するどんなネタよりも、自身のほうが滑稽極まりない。

 公共の電波で自分が書いた文章が音声として全国に放送されるのは、当時の私としては快感だった。私が高校生だった頃には既に社会全体にインターネットが普及し始めていた時代で、ブログやホームページで情報を発信することは大して珍しいことではなかった。そんな時代に属しているクセに、何故私がラジオへのネタ投稿などというアナクロな手段に固執したかと言えば、これもまた家庭的な事情であった。

 私の実家にはインターネットがなく、現在ひいては未来においてもそれは絶対に導入され得ない。ネット環境の有無が私にはかなりマイナスに作用してしまった。津軽地方においてはテレビは民放3チャンネル、雑誌などは全国よりも発売日が遅れる始末。そのような環境下にあって、インターネットとも縁がない生活をしているなら、情報の摂取は自ずとラジオに頼ることになる。また、受信だけでなく発信の手段としてもラジオという媒体は不幸なことに私にとって魅力的だった。

 官製はがき一枚書くだけで、自分が書いたことがラジオで全国に流れるのは、自己顕示欲と世間知らずを兼ね揃えた高校時代の私にとって、至高の瞬間で、栄光の日々のように感じられた。津軽の外を知り、インターネットという情報のインフラに疎くなかったなら、ラジオという媒体にのめり込むことはなかっただろう。そしてそれこそが私を調子づかせ、夢や希望を抱かせるという最悪の結果を招くに至る。

 私は東京に出て花形の仕事をすることを夢見た。それができるような気がした。なぜなら私が書いている文章が東京のラジオ局を介して全国に放送されており、全国区の知名度を誇る人物が私が書いたものを褒めそやすののだから。自分はヒトカドの人間ではないにしても、田舎でくすぶり不本意な労働をしなくていい存在に、将来は成れるのではないかと夢想した。母の言葉を借りれば「バカでねんずなオメェ」といったところか。

 分を弁えずに奇妙な夢を見ることは月並みではあるが、私には端から許されてはいなかったため、それはマズイことだった。一応大学には進んだものの、私は高校時代に味わった栄光の日々()を忘れられずにいた。自分には特別な何かがあり「いつかは」それがやって来るのだと、大学生になっても思い続けた。そう思いたかった。そうでなければ生きられない気がした。普通に働くことを延々嫌がった私は就職活動に失敗して社会の最底辺を這いずり回るハメになった。

社会が求めてくる私

 高卒社会人になる定めを持って生まれてきた私は大卒なるという愚を犯し、その咎を現在も受けている。例の宿命を背負っている私がなぜ大学なんかに行けたのかというと、これまた月並みではあるが奨学金を貸与されたからだ。それには返済義務があり、奨学生OBは卒業した瞬間からそれを借金として返済していかなければならない。私が大学に行くために学生支援機構から借りた金は総額308万円弱ほどだ。

 東京で一人暮らしをしながら労働に従事し、それを返済することはかなり難しい、と言うよりも現状ではほぼ不可能に近い。生活するための必要な金額のギリギリしか稼げない状況にあっては、それを払えと言われても無理ですと言うしかない。そしてその言い訳を社会は決して許さない。社会は私に容赦なく金を返すことを要求と言うよりも強要してくる、世知辛いことだ。

 加えて、社会が私に要求するのは金のことだけではない。社会は私に対して、労働者としての役割を果たすことを求めてくる。一日中、一年中働くことを私は強いられる。それもナレッジワークではなく、低賃金にして長時間拘束の割に合わない卑しい仕事だ。失業者に転じ失業保険や住宅補助の申請などをすると、区役所やハローワークから発破をかけられる。社会は私に絶えず働けと言うばかり。

 今にして思えば、大学に行かなかればよかった。大学に行かせようとしなかった両親は完全に正しかったのだと今にして思う。彼らは自分たちの息子がどのような存在として世間に定義され、どのような役割を求められるか、先に触れたようにかなり明確に見当が付いていたのかもしれない。それに適った人物に育て上げることこそが彼らの目標であり、私が目指さなければならなかったことであった。それに背いたのは、やはり大間違いであったと今にして思う。

 現状に抱く不満というものは即ち、社会などの外的な要因が求めてくるものとセルフイメージの齟齬がもたらす不快感だと捉えられる。私は日本社会の底辺に属する労働者として予め生まれつき、育てられ、教育されてきた。にもかかわらず私は、それを忌避し抗おうとした。これもまた今にして思えば、若さ故の過ちというものだろう。大人しく工業高校の土木科を出て測量技師になっていた方が、案外私は幸せに生きられたのかもしれない。そんな能力があったかは甚だ疑問に思うものの。

 外部から見なされ求められる人物像こそが己の真の姿である。それは決めつけや偏見ではなく、むき出しの現実に他ならない。世間が底辺だと見るながら、自画像がどのようなものであれそれは世間の見立てが正しく、手前が抱く幻想はどのような代物であれ間違っている。問題は、間違ったものをそれはそれとして肯定するか、否定してしまうかだと私は考えている。デタラメで大間違いな失敗そのものである自身の生を、一体どのように定義するべきか。