壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

希望の船

 出来の悪い息子として産まれ落ちたことを、両親には申し訳なく思う。私なりに社会というシステムに順応しようと躍起になって今日まで生きてきたと、恥も外聞も衒いもなく言いたい。しかし、それは完全に無駄骨を折ったに過ぎず、私の人生は無意味に空費されただけだった。そんな我が半生を振り返れば、虚しくまた物悲しい。しかし、こんな生き方を私に強いた諸々の事柄なり者どもの方が逆に間違っていたのではないかとも感じられる。そんな私はやり場のない憤りを人知れず腹の底で蓄える毎日だ。

母の勧め

 小学5年生の夏休みに、母は私に一枚のパンフレットを手渡した。それは精神薄弱児がどこかの海上に浮かぶ船の上で集団生活をして根性を鍛え直すという謎の合宿か何かの案内だった。母は常日頃から私の知能を疑い、他ならぬ自分の子供、それも長男がである私が普通やマトモの範疇に属していないのではないかと不安がっていた。そして夏の長い休みを利用して私の性根を叩き直そうと画策したというわけだ。

 当時の私は母の勧めに対し、頑として首を縦に振ることはな買ったが、今となってはかなり後悔が残っている。それは私にとってまたとないチャンスであった、稀有な経験を積むための。それは小学生だからこそ参加できる類いのイベントで、いまの私が仮に例の船に乗りたいと思ったところで、その願いは聞き入れられないだろう。もしそれを実際に経験していたとしたら、私にはいい経験になっていたかもしれない。少なくとも酒の席に興を添える小話のレパートリーにはなっただろう。

「なんでそったこども分からねんずや! なんでそったこどもできねんずや!」

 父も母も子供だった私に向かって、そのように言ったものだ。私は彼らの言には「スンマセン」などと返すのが精一杯で、それ以外にはどうのしようもなかった。実際、私は他の子供に比べて明らかにデキが悪かったし、性格は内向的で家の中で孤独に過ごしてばかりいた。そのような性質の一切合財が両親には理解できず、またいけ好かなかったのだろう。そしてそれらの念が積もり積もって、冒頭で挙げた船のクダリと相成ったのだ。

 家でも学校でも私は出来損ないの落ちこぼれだった。小学校5,6年において、私がいたクラスの担任だった教師は絵に描いたような体育会系であり、私のような人種を心の底から蔑み、嘲り否定するタイプの人間だった。家では親になじられ、学校ではその教師に始終責められた私は小学生の分際でありながらイッパシに精神を病み精神安定剤を処方されるほど疲弊してしまっていた。クソ生意気な子供だと我ながら思う。

 社会不適合者が怪しげな船に載せられるというのは某漫画のようなシチュエーションだが、実際に船に載せられた出来損ないどもが一体何をやらされるのか気になるところではある。しかしやらされることが限定ジャンケンだろうが鉄骨渡りだろうが、そんな船に一ヶ月かそこら乗せられ共同生活したところで、夏休み明けに人格が改造されて社会復帰できてメデタシメデタシとは恐らくならないだろうと、いち出来損ないとしては思う。

 三つ子の魂百までというのは残酷な現実だ。親や周りの人間がどのような願望や理想を抱いたところで、その対象である個体としての子供には、どうのしようもない。登校拒否児は登校拒否児であり、いじめられっ子はいじめられっ子だ。そして更に度し難いことに、少年期の学校生活でつまずくような人間が社会に出て人並みになれるなど殆ど夢物語に近いのではないだろうか。これもまたいち登校拒否児兼いちいじめられっ子としての私見である。と言うよりも、学校を出てからの方がより悲惨だと言って良い。

ボーダー

 結局のところ、更生や改善の余地などはじめから無いのだから船に乗ろうがロボトミー手術を受けようが、ハッキリ言って無駄なのだ。本当の理想を述べさせてもらうなら、ロクに育たないような人間を胎児のうちから判定するような仕組みなり技術なりがあればいいのにと思う。それに基づき、普通でない者どもは端からこの国に産まれてこられないような制度づくりでもすれば、万事は丸く収まるのだ。

 あるとき私は父親に尋ねたことがある。

「どうしてお父さんはそんなことを言うんですか?」

 父のたまわく、

「我(わぁ)、オメェの親だはんで言っちゅんだァ!」

 とのことだ。

 要するに、自分の子供からアレヤコレヤと物言いをつけるのであって、仮に実子でなかったならお前のことなど気にも留めず、指図も要求もしない。それらをすることこそが親が親、子が子である何よりの証であり、それはありがたく感謝すべきことなのだと、父は主張したいのだろうと私は彼の言を汲んで推し量る。

 厳しくしようが辛く当たろうが、できないことはできないし変われないものは変われない。それは怠慢や甘えなのではなく、歴とした事実にほかならない。しかし、親の立場としては「じゃあ仕方ない」とはならないのだろう。実際、父も母も自身の子供が普通でも健常でもないかもしれないという事実を認めることができなかったし、その兆候が表れてもそれを頑なに否定し、私の資質や能力、性向などを矯正しようと試みた。

 その矯正は様々な手段で多岐に及んだが、例の船はそれらの数多あるうちの一つにすぎなかった。それ以外にも様々なことを両親は私に課したものだ。あるとき、父は唐突にグローブと野球ボールを買ってきて、庭でキャッチボールをやろうと言い出した。私は全くノーコンで、キャッチボールがそれとして成立しないレベルの有り様で、その一事もまた父を大変落胆させた。ちなみにそのキャッチボールは全く楽しくも嬉しくもなかった。

 父や母が想定したのは自分たちの周囲で生活している津軽人としての標準や平均であった。都会に出て立派になってほしいなどとは全く考えていなかったろう。普通とは飽くまで彼らの頭のなかにある基準における普通であり、それは広い社会全体において通用するものではなかったと私は思う。だが、それが津軽という小世界においては必ずしも正当性がなかったかというと、それも違うような気がする。

 我々、つまり津軽人が生きていく世界は、標準的な日本人が生きる領域とはだいぶ異なっていると私は思う。弘前青森市などの都市部は例外だが、それに含まれない領域で暮らしている人間の性質や水準は、非津軽人が思っているよりも遥かに低劣であり、有り体に言えば遅れているのだ。私はそれを子供の頃に、母方の親戚の集まりで痛感させられた。普通とは一口に言っても、それはかなり奥深いものだ。

 想像してみてもらいたい、雪まみれの厳しい気候の土地で、全国最低の経済水準で生活する人々の生涯を。貧しく無知な人々は惨めで哀れではあっても、愛すべき点などなかった、少なくとも私が接した者どもについて言えば。テレビを見て酒を飲む以外の楽しみなど有りはせず、自身が生まれ育った世界が此の世の全てだと見なして生きている人種。それが津軽という世界における標準なのだ。

 

 両親が私に要求した普通とは、これまでに述べたような人間像であり、要するに自分たちと同類になることを求めていた。私は父にも母にも似なかった。スポーツをして余暇を過ごすことは無く、町の外のことばかりに目を向け、なにより津軽弁を話すことをある時期から拒むようになった。正直に打ち明けるなら、私は父や母、親族のようにはなりたくはなかったし、都会風の話し方をして町の外に出ようと試みていれば、それらの人間とは別種の何かになれるだろうと愚かにも信じていた。

 両親との関係は、私のその気質により悪化の一途をたどるばかりだった。私が大学に進みたいだの東京に移りたいだのと願うことの一切合財を両親は理解しなかった。父は私を頭がおかしいと評したし、それは間違いではなかったと思う。人間には生まれつき定められた分というものがあり、それに則って生きる方が正しいと私は考えている。誰もがそのようにして生きているし、私も本来ならそれに倣うべきだ、と理解はしている。

 ところが、私はそうしなかった。私は自身が志向するものや場所が間違っていると腹の底では気づいていながらそれをしないわけにはいかなかった。なぜかと言えば、私は高校時代に自動車学校に通わされ免許を取る為の講習や実習を受けていたのだが、その時に自分が自動車を運転する才覚がないことを実感したからだ。自動車を乗りこなして生活するというのも、津軽において「普通」に生きる上で欠かせないことの一つだ。私は他の能力はともかく、それについては全く適正がないことを自動車学校で思い知った。

 運転能力の欠如は私が普通でないことを決定づける事実だった。教習車のハンドルを握り、助手席に座っている教官にどやされながら私は、自分が生まれ育った町で生きていくことが能わないことを認めずにはいられなかった。一応、自身の名誉のために強調するが仮免や本免の試験それ自体は一回の受験で合格はしたと付け加えておきたい。しかし、日常的に車を運転するとしたら、恐らく自分は無事では済まないと私は実感したのだ。

 いっそのこと、言い逃れようがないほどに知能や身体に障害がある方が、私は幸せだったのかもしれない。特殊学級か何かに通い、どこかの施設が運営している作業所か何かでパンでも作るような身分だったら、と思う。私は健常者ではないのかもしれないと、自分でも懸念を抱いたのは、これまでの半生において一度や二度ではない。両親は我が子の知能を疑ったが、私はそれ以上に己自身の資質や能力が心許なく、不安を覚えながら今日まで生きてきたのだ。

 自分でも相当無理をして生きてきた自覚はある。本来ならマトモかつ普通のカテゴリーには属していないにもかかわらず、ボーダーラインのギリギリのところで健常者のふりをして生活しているのが実際のところだ。割に合わない苦しい労働を強いられ、満足に飲み食いもできず、蓄えも大してないような生活水準が、私の焦燥や心細さをよりいっそうかき立てる。本質的かつ根本的に、あらゆる能力が低いからこのような暮らしをしているのではないか、と。

クルクルパー

 そうは言っても、障害者として生きようとしてもそうは問屋が下ろすまい。第一もしそうであることを認めたら、私は今住んでいる町から出ていかなければならないのは必定だ。都落ちしたとして、障害者として津軽地方で生きるのは実質不可能で、健常であるフリをやめればそれ即ち、社会的にも肉体的にも死ぬしかなくなる。自分が津軽人でなかったら、そのような逼迫を味わうこともなかったかもしれない。都会人なら健常でなくても生きる術などいくらでもある。

 だが、津軽人でない自分が自分としての体をなしていないというのもまた無視すべきでない。私は津軽人だからこそ私なのであって、その要素や属性が欠落したとしたら、それはもはや自分ではない。それであるからこそ私は私なのであり、第一それでなくなる可能性など終生あり得ないのだから、考えるだけ無駄で無意味だ。自分が自分であることは呪わしく、また盤石で動かしようがない。

 健常でも異常でもない境界線の真上に跨っているのが私だ。どちらでもあるようで、実際はどちらでもない。そんなどっち付かずな人間が他ならぬ私という人間であり、それを否定したり正当化したりしたところで何がどうなるというものでもない。それならば、否定も肯定もせず、あらゆる判断を下さずにそのままにして、更に言えば無責任かつ放埒な状態にして、開き直ってしまえばいいのではないか。

 船に乗ろうがキャッチボールをしようが、そろばん塾に通おうがクリーニング工場で働こうが、結局のところ私には何も益するところはなく、やってもやらなくても一緒の、言うなればそれらは単なる徒労に過ぎなかった。これらは両親などが私に施した対処療法のようなものであり、それらにより私を普通の状態に矯正しようという、涙ぐましい思惑があった。だが結局、それは功を奏する事なく現在に至っている。この上で一体何をしようというのか。またしたところで一体何がどうなるというのか。

 学校に通っても何も身に付かず、免許を取っても車に乗れず、大学を出てもロクな仕事にありつけない。それらの全てが私という存在の何たるかを如実に物語っている。私は単なるクルクルパーであり、それは覆りようがなく、また改善の可能性など一切ない。私が私であり続ける限り、要するに死ぬまで、どんな苦労や努力、心がけや気配りなどによっても、クルクルパーはクルクルパーであり、オッペケペーオッペケペーポンポコピーポンポコナーの長久命の長助だから、一体何だというのだろう。

 全てのものには置き場所がある。そしてそれは良し悪しの評価を下すまでもないことだし、そもそもそんなことをすること自体が無粋で野暮で大間違い。ボーダーラインギリギリのところが私という個体の置き場所だというのなら、それにシノゴノ言ったところで何もなりはしない。それであることが両親などには我慢ならず、許容できず、耐え難いことだったとしても、それは結局そのように産み育てた側に過失があるのだと開き直ってしまって良い。また、私が非健常の側に移ることを簡単には許さない社会全体の不寛容さ、あるいは制度上の不備などにこそ責任なり原因なりの所在があると私は主張させていただく。