壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

ため息から始めよ

 停滞し淀み腐っていくばかりの人生だった。何が悪くどうすればいいか、私には見当もつかず、不毛な試行錯誤により人生の貴重な時間と金を、これまで無意味に空費するばかりであった。そのような生き方をするしかなかった私だが、このごろになってようやく自身の生に関わる諸問題における抜本的な解決の糸口を見い出すに至った。

 

はじめに呼吸ありき

 自分がキチンと息を吸ったり吐いたり出来ているか、改めて考えてみれば全く意識の外であった。厳密に言えば、中高生くらいの自分には能力開発や自己啓発にハマっておりその時期に私は珍奇な呼吸法などに凝り何やかやと無意味で無駄な瞑想やら妄想やらに耽溺し、青春時代の貴重な時代を棒に振ったものだ。私は元々、スピリチュアル系の人種であり、子供の頃はそれ系のトピックには目がなかった。全く恥ずかしい話である。

 しかし、そんな熱が冷めきってしまって、一体どれだけの歳月が経っただろう。空回りしてはいたものの、かつての私には向上心があった。それは目下の問題や向き合わなければならない事柄から現実逃避するための夢物語に過ぎなかったかもしれない。それでも、疲れる座り方をしたり特別な呼吸法を無理に覚えたりしたのは、今となってはいい思い出だ。昨日や今日より、次の日の己が少しでもマシな存在になれるようにと、子供なりに必死だったといえるのかもしれない。

 いつしかその手の殊勝さを私は失ってしまった。インターネットと安酒にひたすら溺れるようになってから、私は完全に堕落してしまったのだ。身体は醜く肥え太り、振る舞いや挙動に気を配ることはなくなった。当然、自らの呼吸などに意識を向ける法など完全に忘却し、目の前の欲や悩みや問題などといったものにただ振り回されるようなっていった。私の20代はそのようにして溝に捨てられてしまった。

 酒から遠ざかるようになってから1年ほど経ち、そんな私の生活も多少は上向いた。インターネットとは未だに縁は切れないものの、安酒を呷り日々を無駄に塗りつぶすようなことはなくなった。しかし私の人生は好転する気配はなかった。何より、気力や集中力、積極性ややる気や元気などといった類いの精神によるものを私は、一向に好ましい状態にすることができずにいた。

 酒をやめるだけでは足りないと見え、私はあれこれ試行錯誤を重ねた。睡眠時間を増やしたり精の付く食べ物をわざわざ食べたりしたが、目立った成果は見られず私の暮らしぶりは延々と精彩を欠いたままただ無為に推移していくだけだった。つまるところ私は常日頃、無気力で疲れていた。どれだけ休み栄養をとっても、それは変わる気配がなかった。何をやっても、何を食っても、改善の見込みがなく、私は途方に暮れるしかなかった。

 そんな私の生活に目に見えた変化が訪れたのはつい昨日のことだ。唐突かつ何の前触れもなく、私はある事実にふと気づいた、息苦しいと。毎日なにやら、息が詰まるような感があり、ずっと酸欠状態で生きてきたような気がした。自身の息遣いの弱さや浅さを、私はありありと自覚した。そして私はまず、肺の中に溜まっていた空気を可能な限り吐き出してから思いっきり息を吸い、数秒間域を止め新しい空気を肺の中に行き渡らせるようにしてから、ゆっくりと再び息を吐いた。

 そのとき、これまで絶えることなく私にまとわりついていた倦怠感や疲労感、行き詰まりや頭に霞がかかったような感じが、一瞬で雲散霧消してしまった。呼吸法に凝っていたのはかれこれ10年以上前のことではあったものの、それは既に経験のあることのはずだった。しかし、その瞬間に味わった爽快感、胸がすくような感覚といったら、中高生のまだ青かった時期に暗中模索で味わっていたそれとは比較にならないほど素晴らしいものであった。

息遣いは全ての源

 働きに出るようになってからこっち、私は疲れを抱えたまま生きてきた。大学が終わってから私は労働者という身分に堕し、苦しみを被り不遇をかこちながら誰かに雇われたり使われたりして暮らす以外に選択肢がなかった。その上、私は成人してから殆ど一日も欠かさず飲酒をしており、常に身体にアルコールが入っている状態でった。アルコールを分解するために余計な体力が消耗され、私は疲労困憊のまま数年を過ごしたということになる。

 肝臓と脳が限界に達し、私は安酒を絶つしかなくなった。そしてその後に私は、2,3週間はアルコールを身体から抜く際に生じる離脱症状に苦しめられることになった。自律神経が狂い、不眠や手足の震えで仕事が手につかず、気を静めるために入浴すれば心臓発作を起こし危うく死にかけるような有り様だった。現在において私は飲酒の習慣は無く、シラフで夜を明かすことに何の苦労もない。だがそれでも私の肉体は、全快というには足りないような状態で、膠着状態が続いた。

 思い返せば私の疲労感や倦怠感、無気力や注意散漫といったような気質は、酒は直接の原因ではなかった。酒と殆ど縁を断つようになってから1年が経ったと先に触れたが、断酒により私の人生や暮らしぶりが劇的に改善されたということもない。せいぜい夜によく眠れるようになっただけで、逆にいくら眠っても疲れが取れないという別の問題が浮上するに至った。

 ネギだのにんにくだのを摂取することにより、栄養面で自らを向上させようとも試みたが、それらをはじめとした野菜類をいくら食べたところでそれにより心身に目覚ましい変化が見られたわけではなかった。それどころか食事の量が増え、それを消化なり何なりするために却って肉体に負担がかかり睡眠時間が無駄に増えてしまい、結果的にそれが却って倦怠感を増す一因になってしまった。

 睡眠時間をどれだけ増やしたところで惰眠を貪るだけでそれ以外の良い効能があったとは言えなかった。眠る時間が足りなければ肉体や精神に支障をきたすのは言うまでもないが、だからと言って無闇に長い時間眠りさえすれば気分が爽快になるとか何かを精力的に取り組めるようになるとか言うわけではない。寝具類に問題にある可能性も否定できないが、そんなものに金をかける余裕などないため、それを改善することは実質できない。

 食事と睡眠という2つの側面から自らの生活を改善しようと試みたが、結果だけ見ればそれは功を奏しはしなかった。何をどれだけ食べても、どの時間帯にどれほど眠っても、疲労はたまり続け始終無気力で集中力は続かず、何もやる気が起きなかった。自分の一体何が間違っているのが、どこが或いは何が悪いのか皆目見当もつかず、漠然とした焦燥感を抱きながら、私は現状をただ漫然と過ごすしかなかった。

 食う寝る以外に生物として己を維持するために不可欠な行為は何かと言えば、呼吸である。よく考えてみれば、それは当然の帰結と言うかそれより先行する何かなどありはしなかった。余りにも無意識的にそれは可能なことで、呼吸という行動は誰かに教わったり躾けられたりするものではないため、私はそれに目を向けることを長らく忘れてしまっていたのだ。

 

 自分が殆どマトモというかロクに息を吸っても吐いてもいないということに私はと女として気づいた。自分が苦しいと思わずに済む範囲内の極めて浅い息遣いしかしていないと自覚した時に私は、まさしく天啓を得たのであえる。疲労感・倦怠感・息苦しさを感じていたのは全くもって当然のことだ。実際、私は呼吸すらキチンと出来ていないのだから、あらゆる不調に見舞われないならその方がよほど道理から外れていると言うべきだ。

 まず、私はため息を吐いた。一体これまで私は何をやってきたのか、何を見てきたのだろうかと自らの愚かさに呆れながら私は吐息を放った。肺の中の古い空気を全て放出するイメージで私は息を吐いた。とたんに苦しくなり、私の全身は酸素を欲したが可能な限り息を吐くことに専念した。生命の危機を感じる程に吐き切ってからようやく私は息を吸い始めた。自らの手の甲を見やると血管が浮き出ていたのが目に付いた。

 外気を目一杯肺に溜め込んでから私は吸い込んだばかりの新たな空気を味わうようにして息を止めた。息を止めるということもまた私にとって久々だった。呼吸は本来意識せずに行えるが、息を吸って吐く間にある「止める」という行為はかなりハッキリとした意図や意思が伴わなかければ出来ないことだ。肺からできるだけ息を吐き切り新しい空気に入れ替えた後にそれをしばらく身中に留める。これに及んだ時、私は自らの意識が明確かつ鋭敏になるのを感じた。

 10秒、20秒、或いはもっと長い間、私はその状態を維持し、そして再び息を吐く。白団に感じる安心感や安堵感、満たされるような感覚は私に至福をもたらした。特別なことなど何一つしていないにもかかわらず、私は途方もなく幸福だった。家の中でベッドの上で座り、呼吸をしているだけで私には十分すぎるほどで、圧倒的な満足感や開放感をその時、私は味わった。

 これほど簡便な方法や手段によって、積年のだるさや無気力が前触れもなく解消されてしまい、私はただただ面食らった。息苦しいと数度ここで述べたが、浅い呼吸でこれまで行きてきたのだからそれは当たり前だった。呼吸という生命体として不可欠な行為のやり方について、意識することも考えることもなかったのは、灯台下暗しというか盲点だった。と言っても、中学生の頃には多少かじっていたはずのことではあるのだが。

 学生時代において、それは私にとってあまりにも早すぎた試みだったのかもしれない。心身の疲労を溜め込み、それでいて休むことも満足にできず、やらなければならないことが山のようにあるという、逼迫した状況だからこそ、呼吸法に目を向ける必要が生じたのだ。中学校や高校に通うだけでそれ以上のことは考える必要がなかった時分にあって、思えばそれは無用の長物であった。つまり、いまだからこそそれは有用な代物として私に作用するようになったのだと言えるだろう。

正の循環を志向する

 肺機能を向上させることにこれからは専念していきたい。可能な限り酸素を体に取り入れることにより、生活は劇的に改善すると思われる。そしてそれをするには、可能な限り身体から古くなった息を吐き出せるようにならなければならない。加えて、吐いたり吸ったりする間に息止めという過程を設けることも重要だと私は実感した。呼吸を強く深く意識する為には息を止める行為は不可欠である。

 肉体と精神を強壮に保つために最も重要なのは呼吸であった。何をどれだけ食べ、どれくらい眠ればいいかなどというのは皮相的な観点にすぎない。食うだの寝るだのという前に人間は息をしなければならない。思い返せば、どうしてそれに思い至らなかったのだろうかと私は自らの愚鈍さに嫌気がさす思いだ。正しい呼吸を身につけることなくして、人は何かを成すことは能わないだろう。これまでの私の生が停滞し芳しくなかったのはその点で考えれば当然至極だと言える。

 しかし逆に言えば、これまで息をつく間もなく生きれ来られたというのは我ながら不思議でもある。肺の中の空気を循環させることもなく、必要最低限の空気だけで生活してきたのだから、それならば最低限の生き方しか出来ないのは当然のことのように思える。それは例えて言えば、満足に呼吸が行えない状態のまま、なぜ自分は走ることが出来ないのかと思い悩むようなものだった。

 人間としてと言うより生物として、呼吸は全ての礎である。それの質によって、生命体としてどのようなものになるかが定められる。そして、それを明確に意識する姿勢が本当の意味で自らを律する生き方なのだと言えるだろう。深く吐き、大きく吸い、そして味わうようにして息を止め、再び吐く。これにより血の巡りが良くなり、頭が冴え気分が爽快になる。要するに、生物として充足する。

 この一連の流れの中において、私は思考や情動から解放されるのを感じる。生きる上での最も根幹的な行為としての呼吸に集中すれば、考えたり感じたりすることに囚われることなく、少々手垢が付いた表現だが「いまここ」を見据えることができる。呼吸を意識的に行うなら、過去も未来も度外視し、現在にのみ全神経を集中して臨まざるをえない。それ以外は眼中になくなる。

 何より手間も金も要しないのが最高である。仮に食ってるものが悪く、栄養が足りないから生活が上向きにならないとするなら、私はその対策として余計に食費を捻出しなければならないということになる。事実、私は精がつくとされるネギやにんにく、卵などといったものを食いたくもないのに買い、毎日のように食べていた。それはなかなかどうして、金がかかって仕方ない。問題の本質が食生活にあるなら、その解決のために出費を強いられることになる。呼吸が根本的な原因であるなら、コストは0だ。

 糖分やカフェインを摂取することで脳の具合が良くなると考えていた時期もあった。私の経済力では、コーヒーや菓子を買う金にも困る有り様であるため、仮にそれらの欠如が問題を起こすのだとしたら、それらを身体に入れるためにやはり痛い出費が必要だということになる。結果的には、精をつけようが甘いものを食おうが、コーヒーを飲もうが何も自体は改善されなかった。

 呼吸法を極めるには先に述べたように費用は全く不要だ。栄養を摂るより安上がりで簡単な方法があるのだと私は、遂に身をもって知ることとなった。呼吸さえ整えれば、もしかしたら食費はこれまでより少なく済み、食事に関わる手間暇も劇的に軽減される可能性もある。嗜好品も不要なら尚のこと素晴らしい。無料で息ができるというのは、改めて考えてみればこの上ない恵みである。