他力斎

雑記、雑感その他もろもろ

この気分の国で

 私は何のために働くのだろうか。会社というものは何のために存続し運営されているのだろうか。金のためだけに仕事というものがあるのだとしたら、此の世はもっと単純で明瞭な様相を呈していることだろう。だが、現実はそのようにはなっておらず、仕事と名のつくものには実利とは無縁な行為が多分に含まれている。それに対して私は一体、どのように臨むべきなのだろうか。

 

つみつくりなものつくり

 またぞろ仕事場での話になってしまうが、日常生活の殆どの時間を会社の中で過ごしているのだから、これはもう仕方がないことだ。会社で新商品が発売されると、私がやらされている作業の量が格段に増える。単純に取り扱っている商品の種類が増えるのだから当然なのだが、それだけならば一々不満を抱いたり文句を行ったりはしないだろう。その新商品とやらがキチンとした代物であったなら。

 私が勤めている会社は一応メーカーということになっている。自社ブランドを掲げ、オリジナルと銘打った商品を数多く作り世に送り出している、というのは真っ赤なウソだ。実際は同業他社の売れている商品の類似品を独自の商品として見よう見まねで造って売っているに過ぎない。それは別に構わないのだが、その自社商品が非常に粗悪なのが私にとっては相当に大きな問題なのである。

 まず、動作不良を起こす不良品が多い。各商品の製造元は主に中国の工場で、ごく一部の商品のみが国産となっている。しかし、国内外の何処で造っている商品であっても、不良品が多いという点では全く同じだ。それによるクレームだの交換対応などをするのは私が属しているセクションである。因みに、粗悪品をドヤ顔でデザインしたりプロデュースしたりしている者どもは、一切お咎めなしだ。

 私が働いている会社では、自社商品として電化製品を好んで作りたがる。これが私には気に入らない。粗利が多いのはサプリメント系の商品なのだが、商品の開発に携わっている連中ときたら、そちらは疎かにして専ら充電式だの電池式だのといった機械モノの商品をやりたがるのだ。もしかしたら、利潤追求などの企業的な理屈ではなく、何者かの個人的な興味や関心、趣味といったものが社是としてまかり通っているのではないかという気さえしてくる。

 正常に動かないというのならまだ我慢できるが、それ以上に許せないのは商品パッケージの印字ミスだ。バーコードが読めないだの間違っているだの、更には商品名が載っていいない、文字が潰れていて読めない、ここまでになると一体どんな了見で商品を造っているのかと問いただしたくなる。もっとも、私の立場上そんなことは出来ないので結局は造っている連中の尻拭いを黙ってしなければならないのだが。

 本来ならパッケージの印字ミスなどが発覚したら即刻、新商品の注文受付など取りやめて作り直すのが筋というものだが、会社は販売を強行する。それでどうなるかと言えば、出荷する人間、つまり私が例の新商品を出荷できる状態にするという余計な仕事をすることになる。ガラクタの動作チェックをし、JANコードや商品名のシールを商品パッケージに貼る、エトセトラエトセトラ……。毎度毎度、新しい商品が発売される度にくだらない問題が次々と発覚し、一円にもならない余計で面倒臭い作業を私はやらされることになるのだ。

 形式上だけでも上の階、と言うのも企画や開発の部門は私がいる作業場の上の階にあるのだが、上の階の連中が謝るなり何なりして来るなら多少、ほんの僅かでも溜飲が下がる。ところが、上の連中は下の出荷をしている人間のことなど一顧だにせず、ただ単に検品しろだのシールを貼れだのと指図するだけで悪びれたり申し訳なさそうにする素振りもない。奴らは自分たちの不手際の始末を私にやってもらうのではなく、やらせているといった具合なのだ。

勤勉という気分

 ものつくりをしているから立派な仕事をしている気にでもなっているのだろうか。造るという行為が、この国ではあまりにも美化されすぎているように思えてならない。確かに素晴らしいものつくりは現実に存在はするだろう。だが、本稿で話題にしている会社が造っている製品など、前述した通り単なるパクリの粗悪品、自己満足だけで此の世に送り出される、不当に高い値段が付けらて流通しているどうしようもないガラクタでしかない。

 そんな程度の代物しか造れない連中が、クリエイターだのプロフェッショナルだのと自負しているのだとしたら、甚だ噴飯物である。しかし私の目には、どうもそのように見えるのだ。それはデザイン関係の者はもちろん、広報関係の人間にも見受けられるような傾向だ。自分が携わっている仕事が他人や世間に誇れるようなイッパシの何かだと思いたがるその精神が、私には分からない。

 それは私が己の仕事に金銭以外の何かを見いだせないからではない。そんな情緒的なことではなく、連中がやっている仕事の質については先に触れた通りであるにもかかわらず、そんな程度の仕事を誇る感覚が私には分からないのだ。本当に価値あるモノを造っているなら、私も文句を言ったりはしない。会社の者どもがそのような仕事などしていないというのは、これまで言い過ぎてきた程だから私はこれ以上は言わない。

 仕事に精を出している気分に浸ることが、実際に利益を上げることよりも、彼らにとっては重要なのかもしれない。自分が勤勉で一生懸命に働いていると自らに言い聞かせることが、実際にどのような実利を生み出すかよりも、連中にとっては重要なのかもしれない。それは企画や開発、広報などの花形っぽいことをやっている人間に限らず、どのような業種や職種、階層に属している人間であっても持ちうる悪癖だ。

 仕事を愛し、全身全霊を尽くし、組織や目上には滅私奉公、何かや誰かのために己を犠牲にすることを至高とする価値観を持つ、おぞましい人種はこの国には数多いる。それは本人が勝手に自己完結して過労死するなら何なりするなら、せいぜい好きにすればいいだろう。しかし、この手の手合いは自身がやったり思ったり信じたりしていることを、赤の他人に無理強いする。だから私はそのような傾向の人間を死ぬほど嫌っているのだ。

 この国にはいわゆる「勤勉」な人間があまりにも多すぎる。それは本当に勤勉なのだろうか、私にはそうは思えない。その手の者どもは自分が「それ」であるという気分を味わいたく、その気分を実感するために仕事や会社などを手段として利用しているのではないだろうか。そうでないなら、少なくとも私が働いている会社の商品開発()はもっとマシなクオリティになっているはずだろう。

 だが結局、先に述べたような有り様なのだから世話もない。畢竟、それは単なる気分でしかない。自分が勤勉かつマジメで熱心に、素晴らしい立派な仕事に取り組んでいるという気分を感じたいだけだ。そんなもののために、赤の他人の自己満足のために、一円にもならないような余計な仕事をやらされるのは不本意極まりない。そしてそれを強要する職場の人間を私は心の底から憎む。私にそれを強いる連中には正当性など絶対ないと言い切れる。

 

 頑張っているという実感や気分のためにやる仕事など、大したものではない。実益や利得のためと割り切ってやる行為の方がまだ潔く、価値があり意義深いと私は思う。金は誰にとっても値打ちがあるが、赤の他人が抱いている気持ちや気分など当人にしか意味がない代物だ。私は職場で接触する人間に対して特別な感情など何一つ持っていない。そんな者どもがいい気分になるためだけに、私が余計なシール貼りだの検品業務だのをやる謂れなど、本来ならあるはずがないのだ。

 金のためならまだ話は分かる。重ねて言うが金は誰にとっても価値がある、言うまでもないことだ。そもそも企業や会社というものは実利や実益の為に存在しているし、あらゆる企業活動はそれらが根本義のはずである。だが現実には、それよりも重んじられるのは気持ちや気分の方であり、これは大変問題だと私は考えている。事実、私はその手の悪癖の犠牲になり、他人の満足の為に無駄な作業をやらされているのだから。

 果たして会社というものは、自分が高尚なことに携わっている上等な人間だという気分に浸る為に存在しているのだろうか。まさか、と言いたいところではあるが、もしかしたらそうなのかもしれない。国中がその気分を称揚しており、国民の相当数と言うか大部分がその気分を味わう為に額に汗しているのだと断じれば、この社会における労働に関わる問題の多くは、腑に落ちる説明や納得ができるように思えてならない。

 なんのために働いているのか、と他人に聞かれたり自問したりする時、「ただ金のみ」と言うことは未だに憚られる世の中だ。実際、会社の中において行われることの全てが金銭のためだと割り切れはしないだろう、殆ど全ての日本人は。金に変えられない気分や気持ちを満たすための儀式めいた行動を指して仕事としているところが、我々にはありはしないだろうか。

 私は多分にあると思う。実際、私は勤め先の会社がメーカーである必要性を全く感じない。会社は利潤を追求するために存在しているのであり、良い物を造る為にあるのではない。そもそも良い物など造っていないから、私は不必要で無益な作業をやらされているのだが、それにはどんな意味があるというのだろう。メーカーとして存在しているという既成事実が欲しいだけで、それは金のためではないと私は考える。

 知ったことではない、と私は言いたい。そのメーカーであることが会社としてのブランドイメージを向上させ、それが利益を生む遠因となる可能性は否定できない。だが、それはメーカーとしてマトモなものを造る技術やノウハウがあればこその話だろう。バーコードや商品名を正しくパッケージに印字することさえキチンと出来ないなら、それは却って会社のイメージを傷つけるのではないだろうか。

 要するにやるだけムダで損でしかない。それをオリジナルを一から企画だのデザインだのしているという満足感を得るために、強引にやっているようにしか私には思えない。そしてそれは恐らく私の妄想などではなく、本当にただ大掛かりなことをやっているという気分欲しさで上の連中はあれこれ造ったり企画しているに過ぎないと確信を持って言える。

他人の気分と付き合わない

 会社において、造っている側の気持ちや気分は十二分に尊重されており、それは私も嫌というほど思い知らされている。それでは翻って、私の気持ちは一体どのように取り扱われるのだろうか。私は他人のせいで余計な作業を強要され、嫌な気分になっているが、それを一体誰が尊重するというのか。それを被ることで何らかの恩恵なり手当なり何なりといったものが、私に与えられるというのだろうか。

 無論、そんなものはなく単刀直入に言えば私の気持ちなど無視され踏み躙られている。もし私が仮に、上の階で好き勝手にガラクタを造った連中の尻拭いなどしたくない、自分たちの不手際は自分たちで対応せよ、と言ったとしてもそれを少しでも社の人間たちは聞くだろうか。言うまでもないだろう、連中は聞く耳を持たないどころか、一笑に付すだけで終わりだろう。最悪私はクビを切られる。

 自分を尊重しない相手は尊重する必要がない。自分よりも立場が上だろうが優れていようが美しかろうが価値があろうが、そんなことが一体なんだろうのだろうか。私にも私に割り振られた仕事があり、それだけで手一杯であるにも関わらず、他人の見栄やプライド、自尊心や自己満足の為に一銭にもならないタダ働きをさせられている。ただその事実があるばかりであり、単純に私はそれが嫌だ。

 会社が造っている製品を、私は毛ほども良いと思わない。こんな会社の、こんな商品にカネを払うような人間はモノの価値が分からないバカだと思っている。そしてそれを堂々と企画・デザインし、製造・流通させ悦に入っている奴らはバカであるだけでなく恥知らずだ。そんな者どもの気持ちや気分など、尊重したり配慮したりする必要も義務も全く無い。

 手を汚さず、手間も被らず、小綺麗な立場で花形っぽい立ち位置で仕事をしているという赤の他人が快くなるためだけの気分。そんなものは糞の役にも立ちはせず、一円の値打ちもありはしない。それどころか、ゴミやガラクタに値段をつけて他人に売りつけているのだから、明確な社会悪として糾弾されてしかるべきだろう。私も生活のために仕方なくその仕事しているだけで、本音を言えばやりたくないし勤めたいとも思っていない。

 勤勉に頑張っていると思いたいがために為される自慰行為が仕事という美名を冠して罷り通るのがこの国の実情だ。そのマスターベーションは営利も利潤も生み出さない、当人の気分を良くするためのものでしかない。世間で言う仕事の結構な部分は、そんな類いに属しておりそれは問題だとも見なされていない。金よりもどこかの誰かの気分のための営みが優先され賛美されているのが実社会なのかもしれない。

 金銭や経済、実利や実益を度外視してでも、誰もがいい気分に浸りたいのだ。そのために多くの人間は仕事をしている。これは自己陶酔的な感情であり、やりたい者が好き勝手にやればいいことであり、私はそれに可能な限り関与したくない。来週の月曜日は検品だのシール貼りだのが待っている。私はそれを心底バカバカしいと思いながらそれを行うことだろう、単純に給料のためだけに。他人の気分など、どこ吹く風だ、気持ちの上では。ただそのためだけに。