壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

生きる力

 今日をやり過ごしてもすぐに明日がやって来る。そこには一切の逃げ場がない。行くあてもなく誰にも頼れず、何にもすがれずに一日一日をこれまでやり過ごしてきたが、そんな身の上にも終りが近づいているような、そんな不安に襲われる。此の世で、この社会で私という個体が普通の人間として生きられるのは、そう長くないように思われてならない。

 

わるいやつら

 他人に正当な対価を支払わずに拘束し、使役するのは悪事ではないのだろうか。私はそれが当然のように世間でまかり通っているのが不思議で不思議で仕方がない。赤の他人にタダ働きをさせるだけでは飽き足らず、それを喜び勇んで「自分の意志」に基づき目下が行うことを要求し、時に無理強いする。なぜ、そんなことをしたがるのかがまず理解できないが、それよりもそれが当たり前のことのように取り扱われているこの国を、非常に好ましくないと感じている。

 私が他人に隷従し苦役に甘んじるのは単に生活のためだ。それ以外に理由は一切なく、己の社会生活を維持するという目的を私は一瞬たりとも忘れること無く就労している。しかし、そのような態度を表明するようなことがもしあれば、私は社会不適合者として職場から排斥されてしまうに違いない。実際、これまで私は幾つもの職を転々としてきたが、その生来の気質がどうしても表に出てしまい、それが他人との軋轢を生む原因となったことは、一度や二度ではない。

 だが、それ以外に人間が他人の下で働く理由などあるだろうか、またあるべきだろうか。「仕事舐めんな」「俺を舐めてんのか?」といった類いの台詞を様々な連中に私は言われた経験がある。しかし仮にもし舐めていたとしても、それが一体何だというのだろうか。私は労使契約に則り、嫌いな場所に自らの足で赴き、他人に屈服し、言われるがままに使われる。それに加えて、私の内面の気持ちや心情まで己の都合よく改造し操作しようとするのは悪いことではないのだろうか。

 私は他人に何かを強要するのはどんな関係の上であっても悪いことだと思う。会社の中でのことだから、上司だから先輩だから、だったら何だ、と言いたくなる。何処であれ何であれ誰であれ、私にとって少しの興味も関心もない場所で行われることでしかなく、誰であれ何の繋がりもない赤の他人でしかない。そういう間柄で何らかの強制性がある命令をある者がある者にするのは不当であり、それを通そうとするのは悪事以外の何物でもない。

 私はなにも悪い奴らを槍玉に挙げるというか、愚痴を言いたいのではない。そんな馬鹿なことではなく、私が言いたいのは悪事を働くなら、せめて悪人としてそれらしくするべきだろうということだ。悪党の分際で、さも自分が正当でマトモな主張をしているかのような口ぶりでモノを言ったり指図したりする者が、此の世にどれほどいるだろうか。少なくともこの国にどれだけそんな手合いがそんざいするだろうか。

 日本人は慎み深いだの礼儀正しいだのと当人たちは言うが、自己陶酔や自惚れが過ぎる。実際の我々の社会、我々の生活の中で接触する同国人、つまり日本人の言動にうんざりさせられたり、呆れ返るより他ないといった気になったことは、誰しも数え切れないほどあるだろう。私たちが本当に先に挙げたような美徳を備えた民族だと言うなら、なぜこの国の社会は至る所で問題を抱えているのだろうか。それも不可抗力や止むを得ないような類いの問題ではなく、明らかに不道徳や不見識、更に言えば悪心に由来するものであることが実際はかなり多いように思えてならない、私は。

寄る辺ない世の中

 私は別に悪い奴が居なくなればいいなどと幼稚な主張をしたいのではない。私もまた悪を為すことはママあるかもしれないし、それをしたところで別段どうとも思わない。生きるということは大なり小なり誰かや何かに迷惑をかけたり危害を加えたりする所業だと私は思っている。したがって、生きることを肯定するということは即ち悪を為すことも、やむなしだと言わざるを得ないのである。

 問題は、己が為す所業への自覚の有無だ。本講において私は自分をこき使った人間について悪しざまに言ったが、自分がもし使う側だったとしたら、それらと同じように、いや、それらを上回るほどの鬼畜の所業を他人にするかもしれない。私は他人を使った経験がないため、人を使う時にどのような気持ちになるかを知らない。もしかしたら、自分でもゾッとするほどの悪人に変貌する可能性は十二分にある。

 仮に私が何者かを使役する立場になり、なおかつ不当に酷使するような結果になったとしても、私は己の悪事を自覚するだろう。ともすれば私は、他人に一切の対価を支払わず、心身ともに己に心服随従することを誰かに強要するかもしれない。そのような所業に及ぶとしても私は、自分が不当な要求を他人にしているということは決して忘れないだろう。

 要するに悪人は悪人らしくしなければならない。それは悪を為す上で果たさなければならない義務だろう。例えば人間が食事をして栄養を摂取するということは、どのような形であっても他の生き物の命を奪うことになる。我々がしなければならないのは菜食主義者に転じたり、肉食に反対したりするようなことではなく、己が日常的に行っている事柄について正しく知り、それを踏まえて生きることだろう。

 自分が悪人だと思いたがらない感覚が私には理解できない。第一、悪いことをしているのに。完全な意味で清廉潔白で非の打ち所がないような人物だと言うのであれば悪人呼ばわりされたくないというのも分からないでもない。しかし、人間が人間として生きるということは即ち、大なり小なり悪を為さずには成立し得ない。動植物を糧にし、他人に迷惑をかけたり負担を強いたりすることが、とどのつまり生の営みの本質である。

 生者はそれである時点で悪人にほかならない。にもかかわらず、なぜ自分を善良だと思おうとするのだろうか。結局のところ自分が常日頃から行っている所業について何も分かろうとも知ろうともしていないから、という単にそれだけのことでしかない。要するに自分自身に対して暗いのだ。だから自分の言動を棚に上げて他人を平気で批判したり攻撃したりできるのだ。

 恥知らずも良いところだ。それが正しい、善い人間の正体だと私は喝破したい。善良部って正論を言っているかのような素振りをするような御仁は、これだから腹立たしく、より強い言葉で言い表せば醜い。思えば私は、その手の人種にいつも悩まされてきたし、嫌いで悪くて仕方がなかった。慎みもなく堂々と振る舞っているがその実、傲慢で尊大で、救いようがない無自覚の巨悪でしかないのが連中の正体だ。

 

 ところが、この社会で市民権を得ているのはそのような者どもだ。だからこそ世の中は常に居心地が悪い。と言うよりもこの世は、どのような時代においてもそんな極悪人どもが所有しているように思われてならない。私もできることなら、世を捨てて隠棲でもしたいものだ。誰も彼も煩わしくて仕方がなく、どうして己を無謬で正当だと確信しながら厚かましい要求を次々にできるのだろうかと、却って感心してしまう時さえある。

 自分の気分や感情が常に尊重されるべきだと信じて疑わない厚顔無恥さが、此の世でイッパシに生きるための条件なのかもしれない。私の感覚ではそれは単に醜悪さでしかないが、むしろそれこそが生きるために必要なたくましさや強さだと捉えられなくもない。子供の頃に私は両親から、ズルさが足りないだの融通がきかないだのと評されたことがある。それもまた私の生活能力の無さの発露であった。

 己を省みることなく他人を責め立て、自身を無謬かつ正当で善良だと確信して一生涯をやり通す能力。これが私には欠落しており、それが私が常々感じている生き辛さの本質なのだろう。しかし、その資質を備えた人間というものが完成された存在として世の中を渡り歩くことが、本当に望ましいのだろうか。悪人である自覚もなく、それとしても不十分で、それでいてその有害さは自覚ある悪人を遥かに上回る、そんな連中がのさばる世界が。

 その世界に順応できない者は消えるしかないのだろうか。私は時折り、自分が病院日刑務所に隔離される未来を妄想する。実際にとある者に面と向かって、お前は将来逮捕されて前科者になる、などと言われて脅されたことがある。私が一体どのような咎を受けて刑務所に収容されるとその者が断じたのかは定かではないが、私はその言を聞き内心では戦慄したものだ。

 畢竟、私には生きていく力がない。傲慢さや尊大さを備えず、己の愚かさや醜さを自覚せずにはいられないような人間はこの社会では順応できないのだろう。適応障害、そんな言葉がふと私の脳裏に浮かぶ。生活の中のあらゆる局面において、その四文字が事あるごとに私の頭のなかでちらつくのだ。生きていけない、生きていては行けないのかも知れいないという思いにどうしても囚われてしまう。

 そもそも何故私は此の世で生きなければならないのだろうか。これもまた両親から言われたことだが、そんなことでは生きていけいないと、幾度となく忠告されたのを思い出す。それは恐ろしい予言のように思われたが、実際にそれは的中しているといえるだろう、残念なことに。こんな思いをしてまで生きなければならない理由が、本当にあるのだろうかと自問せずにはいられない。

 私は社会から隔離された空間の中にしか、存在を許されない出来損ないなのではないかという不安。他人をどれだけ非難したところで、私はそれらを駆逐することもできず、実社会においては逆に屈服させられている現状を、私はどのように解釈すれば良いのだろうか。認めたくない連中の勢力や権勢に脅かされながら、いやいや生きていかなければならない現実に、一体どうすれば順応できるのか。

命運尽きて

 無自覚に悪を為す邪悪さ。それがこの国で生きるために必須の資質であり、私は遂にそれを身に付けることができなかった。この社会はそれができる人間のためにある舞台であり、私はやはりそこから退場する以外に道がないのかもしれない。私もまた現在進行形で他人に迷惑をかける有害な存在でしかなく、それを自覚して肩身の狭い思いをしている。

 だが、その思いを抱かずに生きられる人間が大半で、そちらの方が正しいのだろう。私はいつでも、どんな場合においても間違っていて、此の世の何処にも居場所がなく、他人から責められ追い立てられ、いつかの誰かが言ったように刑務所日病院の中で死んでいくだけの社会不適合者にすぎないのかもしれない。弱気にならずにいられようか。もう打つ手もなく、居場所に逃げ場も一切ないように思える。

 誰も居らず、誰の手も届かないところに行きたかった、煎じ詰めればただそれだけだったのかもしれない。もう何もしたくなく、誰とも関わりたくない。なぜなら私はそもそも、この世に居てはならない人間であり、そのことは世間の連中が口を酸っぱくして幾度となく私に言い聞かせてきたことのように思える。最早すべての道が絶たれ、やはり私は塀の向こう側に追いやられるだけの存在なのかも知れない。

 私を騙し、こき使った者ども。私を責め立て追い詰めた連中。あざ笑い蔑み、愚弄した一人ひとりの顔が、思い起こされる。結局、あいつらが正しかったのだ、自分の方がおかしく、間違っているのだ、近ごろはそんな気にさせられる。市井の人々の群れの中に紛れて生活するのは、もう限界が近づいているような感がある。厚顔無恥な鉄面皮に私は近々葬りされるのかもしれない。

 他者、ひいては世間そのものと私は常に対立してきた。私にとっては他人が間違っているとしか思えなかったが、逆の立場から振り返れば私の方が集団から排斥されるべき異物だった。この世界は私にはあまりにも過酷で、大きすぎ、私はどんな場面でも存在が許されなかった。強引に無理をして、馴染める素振りをして己を偽装して今日まで誤魔化してきたが、命運はもう尽きかけているのではないか。

 生きられない、生きていてはいけないのだという気にさせられる。本音を白状するなら私だって助かりたい、救われたいと願っている。だがそれは如何なる時も無下にされてきたし、最早どのような望みも残されてはいない。これ以上世間に溶け込もうとしても辛く苦しい時間がただ延々と続くだけのように思われる。土台、私には生きるという能力が先天的に欠如していたのだろう。

 しぶとくなかった、一語に尽きる。恥も外聞もなく、図々しく生きる能力がどうしても会得できなかったことが、悔やまれる。自分の本性を曲げて余人に紛れて込んで生きる以外に選択肢はないのだが、それもいい加減無理が生じてきているようで、私はもう長くないかもしれない。刑務所に入れられるだの前科が付くだのといった、他人に投げかけられた無神経な言葉が頭のなかで延々と反芻され、私の頭の中で不気味に響き渡り続ける。