壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

書くことについて

 実を結ぶまで続ければ必ず成功するだとか、継続は力なり、雨垂れ石を穿つ、愚公移山などと世間ではよく言われる。しかし、単に何かを続けるということが、人間にとっては容易いことではないことを、我々は自らの人生において経験として知っているだろう。どれほど取るに足りないようなことであっても、毎日欠かさずに継続することはそれだけで大変骨が折れる作業であり、実行に移す前においては途方も無いことのように思える。だが、実際に習慣と化してしまえば、それはやる前に思っていたほどのことでもなかったりするのだから奇妙である。

 

出力としてのライティング

 文章の書き方について色々と習う学校に通っている。学費は総額27万円で講義は週1回であるが、正直に言うと金を払ったことに少々、いや大分後悔している。そもそも、はじめからあまり期待はしていなかったのだが、大した内容が学べないからだ。せいぜいカルチャースクールに毛が生えたようなもので、現役の作家だの物書きだのが教鞭を取っているのが売りの学校であったが、だから何だというのだろうか。

 学生として大学に席をおいていた頃、講義やゼミなどにおいて思い知ったことがある。教える当人ができるということと、それを学生などの他人に教えられるとということは、必ずしも一致しないのだ。ある分野で素晴らしい結果や成果を挙げているはずの人間の下で色々と教えを請うものの、その人物は教授法を身に付けていないというか、教える気がないのでは、という気にさせられたことは一度や二度ではなかった。

 というよりむしろ、特にこれといった工夫や努力もせず専門分野で人並み以上に成果が出せる者は、教えることには向いていないのではないだろうか。教える技術はそれ単体の、さらに言えば独立したスキルであり、プレイヤーとしての能力の如何と抱き合わせで個人が習得しているとは限らないのが実情だろう。加えて、講師だの教授だのといった肩書を持っていたとしても、それを行う技術を有しているわけではない。これこそが私が大学で学習した最も実のある事柄であったというのは皮肉なものだ。

 それは文章を作るという分野でも同じである。現役の作家だのクリエイターだのを自称している人間が、人に何かを教える時に自身のノウハウをそのまま口頭で完全に受講生に伝達できるだろうか。言うまでもないがそれは難しい。教授法については、それ自体が独特の技術であり、それを習得したものが此の世に一体どれほどいるだろうか。少なくとも、文章教室だの講座だのといった場にはそんな人物は甚だ稀である。

 やれ、作家としての目を養えだの切り口がどうの語り口がどうの、文豪の名文を書き取りすれば文体やリズムが云々……。どれもこれも的が外れているようにしか思えない。文章を書く能力を向上させるために第一に、何を差し置いても行わなければならないことは何か、納得がいく指導が得られないまま受講を始めてから半年は経っている。その一事こそが最も重要であるはずなのに。

 そのため、私は自らその答えを出さなければならなかった。これでは一体なんのために27万円も学校に支払い、毎週末の貴重な時間を割いて講義を受けているのか、分かったものではない。文章というより、どんなことでも腕を上げるにはまず、やることだ。文章で言うなら書くこと以外にない。書き方やコツよりもまず、上達するには一日も欠かさず文章を作り続ける習慣を身に付ける必要がある。それについて、不思議なことに冒頭で触れた文章の学校における講義では殆ど触れられもしない。

 形式や内容を問わず、とにかく書き続ければ嫌でも文章力など向上するだろう。にもかかわらず、それについて強調されることは皆無に近い。文章教室という場において、それは言い過ぎることはないほど重大であるはずだろう。それは毎日まとまった文章をコンスタントに出力できるような力だ。要するに頭の中のものを確実に出力できるようになりさえすれば、文章は確実に上達するだろう、前述の諸々はそれより先の話だと思われる。

面の皮を厚くする

 しかし、やり続けるというのはそれ自体が骨だ。毎日書く、なんという簡単かつ単純な響きを持った言葉だろうか。しかしこれが、なかなかどうして難しいのだ。それは口で言うのは非常に易しい。加えて、現代において文章を作ると言えば、紙の上に筆を走らせ、一文字一文字手書きで言葉を紡いでいくというのではなく、せいぜいパソコンのキーボードを叩いて文字を入力するだけの行為にすぎない。

 創作という部類に属する行為の中で、文芸は恐らく最も勘弁とされる行為だろう。実際、絵や音楽に比べて文章を書くという行為は誰でもできると思われがちだ。そしてそれはあながち間違いではない。今の時代、読み書きができない人間など居ないし、学校などで作文などを書く経験をしたことがない者もまた存在しないだろう。誰にでもできる、簡単なことをもって創作だと言い張るなど馬鹿げているとさえ、思う者もあるかもしれない。

 しかし、単なる文字の読み書きと文章の読解や作成は似て非なる行為だ。文章とは書くものではなく作るものであり、単に文字の集合体というわけではない。文章というものは言うなれば形而上の構造体のようなものであり、文字はそれを形作る部品に過ぎない。建材を手に入れられるからと言って、誰でも建物を作れるわけではないように、文字が書ける能力があるからと言って、文章が書けるとは必ずしも言えないのである。

 また、小学校の作文などではなく、ある程度まとまった文章を書くとなると、当然完成させるのは難しくなっていく。メールやSNSなどでやり取りされる短文ではなく、2000字3000字、あるいはそれ以上の分量の文章を作るとなると、技芸というものがどうしても要求されるだろう。そのレベルの文章を作る能力が果たして本当に「誰にでもある」だろうか。私はそうは思わない。

 そのようなわけで、長い文章を作ることはやはり骨が折れる作業である。その上で、それを毎日執り行うという行為について言及するなら、やはりそれは困難だと言えるだろう。私は文章教室に入学すると決めた折、それの為に捻出した学費が無駄になることを恐れた。そして、私は学校に通うだけでは不十分だと考えた。よって私は文章教室に通いながらブログを更新することを自らに課した。私は当初大したことではないと高をくくっていたが、はじめて見れば先に述べたように簡単には行かなかった。

 毎日続ける、書いたり言ったりするのは簡単だが、実行し続けるのは難しい。別段これは私だけに限った話ではない。ネットを渉猟すれば、毎日ブログを更新するだの数千字書き続けるだのと宣言しているものは多くいる。だが、それを実践し続けるものは思いのほか少ないのだ。この2017年9月の時点で、日本語のブログやら何やらを徹底的に虱潰しに調べてたとして、コンスタントに数千字の文章を量産し続けているサイトが、一体いくつあるだろうか。

 高尚で勇ましい目標を掲げたところで、頓挫したのではダラシない。数千文字書くのはともかく、毎日ブログを更新するという行為すら、達成できずに放置されたブログが星の数ほどあるのが現状である。毎日書くということは、このような実情を鑑みて分かるように、誰にでもできる簡単なことではないのだ。仮に毎日数千字のブログやらサイトやらを書き続けられる人間が居たとしたら、それは書くことが仕事である者か、せいぜい学生かニートくらいだろう。

 

 翻って、私は学生でもニートでもなければ、ましてや文章書きではない。その上でブログを毎日欠かすことなく更新し続けているし、一記事あたりの文字数は数千字を数えるほどである。これは私が筆まめだとか速筆であるとかといった、そんな馬鹿げた主張をしたいわけではなく、通常の場合において長い文章を毎日生産する大変さや困難さ、ハードルの高さについて言いたいだけであるということは付記しておきたい。

 それが私において可能であるのは、単に私が恥知らずだからなのだろう。普通の人間は情報を発信する段で、何らかの躊躇いが生じるはずだ。ましてや匿名でもなくそれなりに長大でまとまった文章を全世界にさらけ出すブログなどの媒体でのことならなおさらだ。通常はそれに適うクオリティのものを作り上げてから公開しようと思うのが人情であり、この一点が余人と私という個体の間における唯一の際であると言えよう。

 私はブログの文章を書きアップロードする際、垂れ流す。時間がない場合においては推敲を行うことは殆ど無い。その為、誤字脱字などはご愛嬌、支離滅裂であったり同じことを繰り返し書いているような場合でもそのまま、といった有り様だ。通常の官製ならばそんなものを公衆の面前で晒すような愚は犯さない。私は単にそのような恥さらし行為を臆面もなくしでかしているにすぎないのだ。

 だが、モノを言ったり何らかの表現や創作などを行う上で、鉄面皮になれるかどうかは分かれ目ではないだろうか。ましてや、文章教室などに大枚をはたいている身であるならば、情報の発信に躊躇などをしている場合ではない。それこそ呼吸するように文章を書き連ね、積極的にそれを公衆の面前に晒せるくらいでなければならないだろう。それも毎日。

 結局、美文名文、クオリティの高いコンテンツなどといったものを、どのようにして造っていくかではなく、どれだけ日常的に恥を恥とも思わない愚行に及べるかだ。文章家になれるなどと謳い頭の悪い人間をそそのかして学費を巻き上げて学校などを運営するなら、それについて明言しなければならないのではないだろうか。もっとも、恥をかけだの嫌な思いをしろだのと言って生徒が集まるとは到底思えないが。

日産5000文字というハードル

 当初、このブログは毎日3000字の文章を後悔するという目標を掲げて立ち上げられた。私はそれを実践し続けてきたのだが、始めのうちは3000字に達する文章を毎日作り続けることが苦痛で仕方がなかった。2chのレスや動画サイトのコメントなどを書くのとは全く異なる苦労がそこにはあり、私は働きながらそれを継続することが実際はかなりハードルが高いのだと身をもって知ることになった。

 ところが、人間は大抵の環境には順応するものだ。働きながら学校に通い、なお且つ長い文章を毎日書きネットで後悔するという日々に、いつしか私は順応していった。それが毎日のこととなれば、やれキツいだの辛いだの、面倒だのやる気がしないだのと言ってはいられない。なにせ27万円も払ったのだから、金だけ無くしてモノにならなかったでは済まされない。どうにか文章学校に払った学費分の何かを身に着けたいという思いが、その貧乏性が私を突き動かし続けた。

 その結果、日常的に長い文章を出力し続ける能力を身につけられた。しかし、それだで話は終わりではない。3000字を下限としてブログを更新し続けていた私だが、それだけでは次第に物足りなくなっていった。そしてある時を境に自らに課す毎日書く最低文字数を4000字に引き上げることとした。これは我ながら不安を伴うものであった。高すぎる目標を設定したせいで、それに挫けてしまい結果的に3000字毎日書く習慣も潰えてしまうのではないかと懸念したのだ。

 だがそれは杞憂に終わった。4000字を毎日書くことも私は特に問題なく継続して行えた。仕事や学校にも支障をきたすことなく、私はコンスタントにそれだけ長い文章を書き続ける能力を会得したのだ。毎日毎日、たとえどれほどの悪文駄文の類いであっても、それだけの分量を書ける人間はなかなか居ないのではないか。案ずるより産むが易しということもあるものだ、と自分でも思った。

 ところが、どういうわけか現在は日に5000字も書き続けている始末だ。ここまでになると最早、単なる惰性であり努力だの苦労だのとは呼べないような行為と言える。4000字は最低書こうと思っても、キリの良いところまでやろうとすればどうしても5000字を超えるということが一度あったのが始まりだった。その次の日においても、昨日は5000書いたのに今日は4000でいいのか、と言う思いが頭のなかに生じ、翌日も明後日もと言う具合で、いつの間にか毎日5000文字書く習慣がついてしまった。

 今の私には怠けることも続けることも同義になってしまった。毎日やっていることだから、やらないと却って違和感があり気落ちが悪くなってきて、禁断症状のような感情が惹起して時間がなかろうが疲れていようが、何かを書いているという、さながらブログ中毒とでも呼べるような状況に陥っているのは滑稽である。数ヶ月前は3000文字の文章を書くだけで汲々としていた私が。

 たかがブログ、それも単なる思いつきの発露としての文章であっても、5000字を超えるものを毎日欠かすことなく作れる人間は稀だろう。私は別に、それが偉いだとか優れているなどと言いたいのでは断じてない。単にそれが可能な人間はこの世にそう多くはなく、その点に限って言えば、私は他人に伍せるだけの能力があると言えるだろう。そしてそれを何らかの形で利用すれば、明るい見通しが一切ない我が生涯に何らかの吉兆が仄見えるかもしれないと、愚かな期待をしてもいる。