壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

ナメラレと自惚れ

 他人が俺のことをバカにしてくるのは、一度や二度ではない。そんなことにいちいち心を動かすほど俺は繊細な人間ではない。しかし、バカにしてくる者どもが、その念を向けている対象たるこの俺に対して、やれ尊敬の念がないだの献身や奉仕が足りないだのと不満がる気持ちについては、奇怪に思いながらも興味や関心を抱かずにはいられない。人間というのは時として、不可解で醜いものに気を取られてしまいがちだ。

 

精神的奇形を持つ自惚れ屋

 たしかに俺は、他人からバカにされても仕方がないに人間かもしれない。だが、その理由について逐一こと細かく述べるのは時間の無駄だろう。仮にもし、自分のような人間が赤の他人であったなら、俺は間違いなくそれを見下し蔑み、嘲ることだろう。俺のことを下に見てバカにしくさる連中には、ある程度の正しさのようなものがあるということは、遺憾ではあるが、認める。勝手にするが良い。

 しかし、そのような念や感情を受けて、こちらがどのように動くかもまた、勝手である。これほど自明な関係性が果たして此の世にあるだろうか。明白な理由に基づいてある者がある者を貶し嘲笑する。それをやられた側が自分が遭った災厄に対して対策を講じる。その一連の流れに、疑問や議論を挟む余地などどこにもない。これは世の習いであり、自然の摂理というものだろう。

 ところが、これに異を唱えるものがいる。俺のことを面と向かって罵倒したり侮蔑したりする連中がそれだ。それらは自分から俺にケンカをふっかけたり危害を加えるようなマネをしておきながら、それを受けた俺がそれらを敬遠したり忌避したりすると不満や文句を言ってくる。それどころか、連中は俺のことを格下だと思っているからなのか、俺に奉仕や献身まで要求してくるのだ。

 学生時代はこんな目には遭わなかった。その手の人間とは基本的に接触したり深く関わったりしないように努めていたからだ。ところが社会に出ればそうもいかなくなる。俺は被雇用者だのワーキングプアといった身分で社会の最底辺を這い回るような人生を強いられているが、そのような身の上で労働などをしていると、職場の上役や社長などといった存在から筆舌に尽くしがたい屈辱を味わわされるのが常であった。

 会社などの場において、連中が仕事のことやそれ以外のことで、俺のことを低く見るのは当然のことだった、彼らにとって。奴らが俺を見下し蔑みあざ笑い、不当にこき使うことは然るべきことであり、俺はそれを喜んで被るべきだとでも思っているのだろう。俺はその神経が全く理解できず、どの職場においても途方に暮れるしかなかった。本当に一体どういう精神構造をしているのだろうか。

 立場を逆にしても、少しも分からない。誰が何を低く見ようが優先順位を下にしようが、勝手であり、また個人の裁量で好きにすればいい。しかし、そのように見なされた側から反感を抱かれたくないと欲するのが俺には皆目、見当もつかないのだ。悪感情を向ければ嫌われたり避けられたり、あるいは憎まれるのは当然のことだ。互いに情緒を持つ者同士なのだから。

 反感を持たれたくないどころか、例の御仁どもは俺から慕われたく、敬われたいとさえ思っているフシがあるから、なおのことタチが悪い。連中は俺に尊敬されたいと欲し、また俺が自発的にそのような感情を抱きそれに基づいて行動すべきだと信じている。これが先ほど触れた感情よりも、輪をかけて奇怪な感情なのだ、俺にとって。そしてこの手の精神構造を持つオゾマシイ人種はこの国には相当な数いて、どんな場所でも俺にとっては頭痛の種となってきたのである。

ナメラレとして

 他人にナメられる俺が悪いと言えば、それで話は終わってしまう。他人に見下されたりバカにされないような人間になれなかった、お前の自業自得、自己責任だと断ずればそれで済むことなのかもしれない。しかし、それは低く見なされることに限ってのみ当てはまる話だ。俺はそれについては別に加害者どもについて考えを改めろなどと言いたいのではない。そう思いたければ勝手にそう思い、またそれに基づいた言動をすればいい。

 俺が言いたいのは、その暴虐に対して俺が適切な対応をすることの正当性についてだ。悪辣きわまりない加害者としての世間の連中が言ったりやったりすることを受けて、俺は自分の生命と生活、そして利益を守るために先に述べたような然るべき対処をすることは当たり前だ。自分にとって有害で何の得にもならないようなに他人と私的に付き合ったり、一円の得にもならないのに時間を割いたり労力を捧げたり、するはずがないというのは考えるまでもないことだろう。

 ところが世に数多いる自惚れ屋の連中は、それらが持つ精神的奇形によりこれを解することがない。俺は本当にこの手の者どもを厄介に感じるし、誰にとっても害悪にしかならない存在だと思う。そんな手合いは一刻も早く人間社会から隔離し、病院や刑務所などを囲っている塀の向こう側に追いやってしまいくらいだ。そんな人種とは話をするだけ時間のムダであり、顔を合わせることさえしたくない。

 自分よりも色々な面で下だと思った相手は、自分に対して滅私奉公すべきだとでも思い込んでいるのだ。俺はそんな連中とは仕事でも関わりたくない。これは俺が劣等で無価値な人間だから、ということではない。問題の本質は俺の価値の如何にはない。たとえ見下したり騙してこき使ったりする被害者が俺でなかったとして、その餌食にされる人間にとって、その者は間違いなく悪そのものだろう。

 他人をナメてかかるのは勝手だが、それでその相手から崇められたり尽くされたいと考えるのは異常だ。暴力や関係性などで組み伏せて、無理やり言いなりにして利用しようという腹づもりで生きている人間の方が、遥かに正常な感覚を持っているだろう。赤の他人に害をなし、時間や労力を掠め取るのは文句なしの悪行だ。それを実践する以上は、紛うことなき悪人として、それらしく振る舞うのが筋というものだろう。

 ところが、例の精神的奇形の持ち主どもは、悪行を働きながらも自分を悪人だとは思いたがらない。これもまた私にはとてつもなく卑怯で浅ましく、また醜く感じられてならない。他人から有形無形の様々なものをコンスタントに奪っているという自覚すら抱こうとしない、この醜悪さ。重ね重ね断っておくが、他人が俺をどう思おうと勝手であり、騙したり無理強いしたりして使役しようと企み、そうしたいと欲するなら思うまま悪党然としていればいい。

 連中は悪事を働きながら、自分を悪人だと思わない。それどころか、己を善良で寛大だと見なしているようだ。自分の徳によって俺を従わせているのだと信じて疑うことがない。俺は本当に理解できない。俺のことを見下しているというより、自分のことを過大評価しすぎているきらいがある。一体どんな生き方をしていたら、そこまで自己愛を肥大化させることができるのか、最早かえって興味深くさえ思える。

 

 これが社会全体において圧倒的に少数の異常者だと言うなら俺はまだ耐えられる。そんな連中の巣窟たる業界や分野から遠ざかればいいだけであり、それができないならそれは完全なる俺自身の過失として片がつく。ところが現実は全くもってそうではない。社会のどんな場所にも、本稿で何度も取り上げている人間は必ず存在している。それどころか、それが世間において模範的な人間であるかのように取り扱われることさえある。

 これは一体どうしたことだろう。もしかしたら、この国の社会というのはその手の人間のために存在しているのではないか。そう考えると俺は絶望的な気持ちになる。他人を自分の自信心を満たすための道具にし、嘲りながらこき使い、それでいて己自身については善人だと信じて疑わない人間。そんな輩のためにこの国が存在しているというのであれば、そんな国や社会は滅びるべきだと俺は思う。

 俺がもしも他人を使う側の人間だったら、自分が使役する側であることを失念したりはしない。仮に不当に相手を遇することになったとしても、それが悪行であることを俺は絶対に忘れない自信がある。人を使うということは大なり小なり理不尽を相手に強いることに他ならない。その本質について踏まえていれば、どうして自分のことを正当性のある善人だと思えるだろうか。

 人間が人間を使役する時に、正当性などあるはずがない。あるとしたらそれは、利用される側が利用する側について心の底から崇敬の念を抱き、心酔している場合だけだ。別の言い方をすれば、相手を慕っていて好きな時にだけその関係ははじめて成り立つ。その関係が、自分が他人を使う時に成立しうると思えるその自惚れ! 自分を客観的に見る能力が、ほんの僅かでもあればそんな精神は持ちようがないのだが。

 結局その手の者どもは、どうしようもなく危険なのだ。そんな連中といつまでも深く関わっていると、どんな災いが降りかかるか分かったものではない。俺は幾つもの職場を転々としたが、例の精神的奇形野郎どもの中には、自分の欲得のため俺に法律や条例を破ることを要求した者さえあった。俺はもしかしたら、それのために犯罪者になって、刑務所に入れられるような羽目になったかもしれない。その男は、お前は俺のために前科者になって犠牲になれなどと、平然と言いそうな人間だったことを俺は、今になって思い出す。

 今働かされている職場でも、当然のように例の人種が頂点に君臨している。言うまでもなく、その職場は俺にとって安住の地ではない。毎日俺はそこでいわゆるサービス残業を強要されているし、それ以外にもありとあらゆる心身に関わる理不尽きわまりない仕打ちを被っている真っ最中だ。ナメられているそれは俺に対して常に強気で無理難題を強いてくる。これはどうにかしなければならない目下の問題である。

我が身を守る

 とどのつまり、自分の身は自分で防衛する以外に手はない。それは悪い人間の悪しき行いというより、単なる災いだと考えるべきだ。血肉のある一個のある人間が、何らかの意図や事情があって、発言や行動に及んでいると捉えるのは、精神衛生上きわめて悪い。それは人間の所業ではないと定義づけた方が、あらゆる面で都合がいいはずだし、己の身を邪悪から守るにはそれのように捉えて然るべきだ。

 善良ぶり悪行に及んでいる自覚がなくとも、それは単に有害な個体でしかない。どんな気持ちでそれが生きているかなど慮る必要など微塵もない。極端な話、そんな人間は生きているだけでどんな人間にとっても迷惑で有害なだけだ。しかし、だからと言ってそれを世間から排斥し掃討することは到底不可能であるため、個人個人がそのような者どもに危害を加えられないよう、ゆめゆめ警戒しなければならない。

 どんな関係性においてであれ、絶対尊ばなければならない相手や自分よりも優先しなければならない人間など存在しない。そんなことも分からないような人間、どれだけの時間とどれだけの言葉を以ってしても理解することがない人間、そんな奴が実在することが俺には信じられない。俺からしてみればそんなことは考えるまでもない、言挙げするまでもないようなことなのだが。

 コイツごときは、俺が自由に使い潰して構わないだろうと高をくくり、それを態度や言葉で表す。それでいて好かれも慕われもしないと憤ってみせる。本当にそんな反応を示す個体が人間だと言えるのだろうか。やはりそれは人間ではない何らかの災いだと考えたほうが妥当だろう。それが何であるかなど、被る「人間」にはどうでもいい。ただその災いに対して防衛策を立ててそれに則り行動するだけで十分である。

 見下している相手から敬われ重んじられたいという感覚はやはり理解不能だ。それは一体どんな感情に由来するのだろう。コイツは劣等だから俺(奇形野郎)の意を汲み、身を挺して俺のために全身全霊で奉仕し、腹の底から俺のことを心服して当然。ほんの少しでも反感を抱いたり、俺よりも自分のことを優先するような素振りを見せることは罷りならない。そういう風に考えているのだろう。全くどこまで図々しく、腐り果てた心根だろうか。

 そんな災いに悩まされたり躓いたりしないよう対処しなければならない。どれほどの暴力や恫喝を前にしても、それよりも自分自身を優先して我が身を守るくらいでなければ、俺はそれの養分にされるだけだ。そしてそんな目に遭わされたとして、俺にエルモのは何一つ無く、ただその赤の他人の悪党どもが笑うだけなのだ。そんな手合いどもが喜ぶ顔など、俺はもう見たくない。

 ナメられるのは別に構わないが、己の身を守れないようではいけない。加害者が一体どんな腹づもりでいようとも、そんなことはこれっぽっちも俺には関係ない。重要なのは邪悪な他人の精神や事情、バックグラウンドではない。俺が考えなければならないのはあくまでも己の安全と利益に加え、損害や苦痛から遠ざかることだ。災いが此の世に生じる細かい因果について、最早なにも思うまい。