壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

面白きことも無く

 何をしても楽しくないというのは、俺にとって長年の悩みの種だった。できることなら俺だって、面白おかしく生きてみたいと願ったし、そのような心持ちで物事に臨もうと試みたこともあった。しかしそれは結局空回りにしかならず、結局何に対しても俺は楽しいとは思えずに、今日に至っている。しかし、楽しくないというのは本当に問題だといえるだろうか。面白くなかったとしても、取り組むに値することも世の中には多々あるはずで、それを見極めるには別の視点が有効となるかも知れない。

 

楽しくない日々

 本当にどこで何をしていても全く面白くも楽しくもない。会社でやらされている仕事はもちろんのこと、通っている文章教室の課題や自主的にやっているブログを書くことも全然楽しいと感じないのは我ながら問題だろう。通勤中や仕事の休憩時間に読書をするようにしているのだが、それまた単に面倒くさいだけでこれっぽっちも面白いと思えない。うつ病か何かなのだろうかと自分でも訝しく思う。

 文章を書くのは不得手ではないと思いたいが、実際は甚だ疑わしい。学校でエッセイなどの課題を書いても全く振るわず、それどころか言葉選びなどで割りと手厳しい評価を講師から貰うことが結構ある。プロの文章家になるには、俺の文章ではダメだと面と向かって言われる度に俺は、嫌な気持ちになる。掌編小説を投稿しても鳴かず飛ばずだし、テレビ評論の文章を書いて提出してもナシのつぶて。

 ハッキリ言って、文章を書くことが最近は楽しくない。俺は文章力を磨くためにこのブログを毎日更新し、記事1つあたり最低5000字の文章を作ることを自らに課している。その日課も俺には負担でしか無く、正直に打ち明けると面倒くさく感じており、やらずに済むならその方がいいとさえ思うこともある。自由で何の制約もないブログという場においても、俺は書くことを億劫に感じてしまう。

 文章の学校に通い、一応はプロの文章家になりたいと思っている身分でありながら、これである。教養がないだとかテクニックが足りないだとかいう理由で行き詰まるのならまだ救いがある。俺が目下ぶち当たっている壁は、そもそも書くという行為そのものが実はあんまり楽しくないのではないか、という思いなのだから始末が悪い。第一、俺は文章を作ることが本当は好きじゃないんじゃないかと。

 物書きを目指さないなら、例の学校に行く必要などない。毎週末、貴重な時間をそこに通うために割いているのは、全くの無駄ということになる。いや、それ以前に結構な額を俺はそこに支払っている。それが死に金だというのは、俺としては相当まずい。加えて、金や時間以外にも問題はある。書くことから離れて俺が生きていくとして、どんな人生が待っているというのだろう。

 ワーキングプアとして社会の最底辺を這うだけの、それだけの人生。出世も栄達も何もなく、ただ日々を汲々と生きるだけの生活しか、俺には望むべくもない。文芸の道を志さないならば、俺は死ぬまで割に合わない労働に身をやつす孤独な男として暮らすしかない。その生活には意義もなければ楽しみもない。結婚もできないし、蓄財をするだけの稼ぎも絶対に得られない。

 作家志望ということにしておけば、それらを正当化できる。逆に文章で身を立てることを諦めてしまえば、本当に俺は何の取り柄も夢も希望もない、底辺労働者としてのんべんだらりとした暮らし以外には、なにもないのだ。それは御免被るが、かと言っても毎日文章を書くことが楽しいとも思えないのだから、我ながらどうしたものかと考えあぐねている。

楽しかった頃など

 思い返せば、俺は何かを楽しいと思ったことなど一度もないかもしれない。文章に限らず、俺は何かをやっていて心の底から楽しいだとか面白いだとか、感じたことがたった一度でもあっただろうか。俺は子供の頃から全く遊ばなかった、というわけではない。それなりにたくさんの遊びをしたはずだが、それらを「楽しんで」やっていたかと自問してみると、それがどうにも怪しいのだ。

 俺にとってはどんな娯楽も現実逃避や憂さ晴らしに過ぎなかった。それに興じる時、いや興じるという言葉を使うことさえも、もしかしたら適切でないかもしれないが、その最中、楽しんでいたかと言えば、答えは否だ。大抵家や学校のことで、見たくないことや考えたくないものが最初にあり、それを忘れるためにゲームだのテレビだのと言ったものに没頭していたような感がある。

 幼い時分から俺は何も楽しんでこなかった。そのように考えれば、仕事が面白くなく、文章学校やブログの更新が楽しいと思えないことなど、大した問題ではないような気もする。学校でも会社でも、仕事でも余暇でも、俺は生まれてこの方、何も楽しいと思わずに今日まで生きてきた。それは無視できない事実である。それがいいか悪いかは取り敢えず置いておくとしても、俺の人生の実体はそんなものだったのだ。

 とは言っても、俺も余人と同じように人生を謳歌したかった。斜に構えずに生きることを楽しみたいという思いが、俺の胸中に全く無かっただろうか。俺も人並みの情緒を持っているはずだから、そのような願いが潜在的にはずっとあったはずだ。それが叶わなかった理由はいくつもあるだろうが、それについていちいち列挙する意味を俺はあまり見いだせない。とにかく俺は楽しみたかったが、それができなかった、そして今もできずにいる。

 テレビゲームをやっていても、酒に溺れていても、俺は全く楽しくなかった。それらはどちらも、何であれ単なる現実逃避でしかなく、目を背けたい何かが、まずあった。それができている間はゲームにも酒にも、無我夢中でのめり込めるが、それらが用をなさなくなれば、俺はとたんにそれらに飽き、ウンザリさせられる。思い返せば、どんな趣味もそうやって俺は投げ出してきた。

 俺はブログを毎日書いているが、それも放擲してしまいそうになっている。文章を書くことは俺には単に面倒で骨が折れるだけの作業でしかないのだろうか。そうならば俺は、生活を維持するための労働をして、それ以外は飯を食って眠るだけの生き方をするしかないということになる。それもまたどうしようもなくつまらなく思える。会社の仕事が面白く感じられるようなことは、おそらく永遠にないだろうし。

 どんなことでも、無心になってただ楽しんでやるということが、どうして俺にはできないのだろう。子供の頃に与えられた娯楽、それどんなものであれ前述の通り単なる憂さ晴らしや現実逃避の域を出ず、楽しいからやっていたのではなかった。内心、俺はそれが好きでも何でもなかった。漫画を読んでもアニメを見ても、小説を読んでもラジオを聴いても、どんなことも俺は別に楽しみはしなかった。

 

 これを書きながらも、未だに暗中模索・五里霧中と言ったところだ。文章を書くのは辛く苦しく、面倒くさい作業にしか思えない。楽しくも面白くもないことを、惰性と意地で続けているだけだ。なぜ楽しくないのか、それはもしかしたら能力がないからなのかもしれない。人並み以上にできないから、達成感も何も感じられず、それのために俺は何をやっても面白くないのかも知れない。

 つまり、俺が無能だから悪いのだろうか。仕事がつまらなく楽しくないと書いたが、俺が職場で無双できる才覚があったとしたら、もしかしたら不本意な労働すらも、俺は楽しんでやれるのかもしれない。結局、給料分の仕事やるだけで精一杯だから、首にならないようにするだけで汲々としているから、おれは仕事が楽しくないのだろう。何をやってもつまらないのは、俺がどんな分野に対しても能力が低いからなのかもしれない。

 これは大変不都合な現実で、俺はそんなことを認めたくない。俺は親から出来損ない呼ばわりされて育った。実際学校では優秀な方ではなかったし、高校は普通科にも行かせてもらなかった。どこで何をしても俺は人並み以下だったような気がする。それを思い知る度に、やはり俺は面白くなかった。文章を書いている時も、筆の進みが遅く他人に見せても芳しい評価もしてもらえない。よって、やはり楽しくない。

 先天的な能力の低さが、俺の人生をつまらないものにしているのだとしても、対策の立てようがない。俺が時分の才覚について、嫌というほど知っているし、これはもうどうにもならない。だから俺の人生のつまらなさは、改善の余地など一切ないということになる。その結論に至るしかないということもまた、俺にとってはどうしようもなく面白くなく、要するに俺は不服である。

 死んで生まれ変わって有能になる以外に、手などないのかもしれない。俺が俺である限り、このどうしようもなく面白くない生から解かれることはない。自分が自分であることが、俺にはもう窮屈で仕方がないのだ。生きているのが面白くない。働いていても休んでいていも、読んでいても書いていても、何も楽しめず、面白いとは全く思えない。

 何かをつつが無くやれたことなど、思えば一度もなかった。何をやっても他人よりもできなかった。文章についても同じで、学校に通い課題を出しても、他の生徒より俺の文章が抜きん出いているということもない。むしろ逆で、俺が書いた文章の評価は決して高くはなく、俺の文才などは実のところ皆無であった。だから俺はブログを毎日書いていても時間を相当かけなければならず、それが生活の中で負担となっているのだ。

 楽しいことをやって生きたいと思っていても、それはどうしても実現し得ない。その理由はこれまで述べてきた通りだ。俺が俺として今生を生きる限り、楽しい生活など望むべくもないのだ。己から逃れるために、俺はあらゆる手を尽くし、それはどれも場当たり的な現実逃避でしかなかった。どんな気晴らしも、俺を救いはしなかったし、何の解決にもならなかった。

楽しくなくても

 望んでも仕方がないことをアレコレ考えるだけ時間の無駄というものだ。何かをする時に、それが面白いかだの楽しいかだのと自問するのはナンセンスだ、俺の場合は。文章を書くことを俺は投げ出す訳にはいかないのだから、最低限ブログの更新だけはどうしても自らに課した分だけこなせるようにならなければならない。それが楽しくも面白くもなくても、それは別に問題ではない。

 一応文章の勉強をしていて、それで身を立てるために学校に行ったり実際に色々と読んだり書いたりしてはいる。それをしていることが重要なのであって、それが内心ではシンドイだけの作業だとしても、それでもいいと思えばそれまでの話だ。どうせそれ以外の何をやっていても糞面白くもないのだから、煎じ詰めれば同じことだ。少なくとも働いて他人に使われている時間よりは、文章を書いている方がまだマシだから、取り敢えず学校もブログも、それ以外のことも続けることにする。

 究極的には嫌かどうかで判断すればいい。文章を書くのは別に楽しくないが、嫌いではない。嫌々やっているというのであれば、それはもうやるべきではないが、そうでないならば取り敢えず続けるに値すると言えるだろう。仕事は嫌いだしイヤイヤやっている作業に過ぎないのだから、頃合いを見て辞めるべきだろう。どんなことでもそうだが、人間にとって重要なのは好きかどうかよりも、嫌いかどうかだと思う。

 嫌いかどうかで何かをすべきかどうか判断すれば、人間は間違わない。損得や体面、体裁などではなく、自分自身がそれを嫌っていないかどうかを良く良く考えてみることだ。文章を書くことが俺にとってすぐに金になるわけでもなければ、誰かに褒めて貰えるわけでもない。しかし、俺はそれが嫌いではない。その一点だけで、書くという行為は俺にとって続けるだけの勝ちがあるのだと断言して良い。

 子供の頃から、色々なことを他人に強いられてきた。将来役に立つから、恥ずかしくないように、義務だから、云々……。それをやるのが己にとって嫌かどうかなど二の次で、俺は随分といろいろなことをやらされてきた。そしてそれらのどれもが、俺の人生にはマイナスに作用したのは特筆すべきだろう。やりたくもないことは、どれだけ実益や功利に適っていても、所詮人間にとって有害な代物でしかない。

 文章を書くことなど、一円にもならないことがほとんどだ。しかし、それが俺にとって嫌なことでない限り、それは続けるべきことなのだと信じたい。これまで嫌なことを無理強いさせられてきたが、その結果として俺は社会の最底辺で好まざる職に就かされて酷使されている。これだけ見ても分かるように、嫌々何かをやったところで、それは当人に何一つもたらしはしない。

 面白くなくても、楽しくなくても、嫌でないならばそれに向き合うべきだ。俺にとって書くことは少なくとも嫌ではないのだから、その事実だけで十分だろう。目に見えた成果が一つもなく、生活上多少の負担を強いることがあっても、それは継続して取り組まなければならないのだと自らに言い聞かせたい。嫌いじゃないと思えるだけでそれに対してはもう、十分過ぎる。