壺中有天

弁ぜんと欲し 已に言を忘る

離人考

 誰も彼も煩わしく、また疎ましくて仕方がなかった。だから俺は、学生時代から他人とはできるだけ、深く関わらずに済むよう生きてきた。だが、そんな半生が間違っていたと、この頃は反省するようになった。しかし依然として人間というものが、やはり俺は好きにはなれなかった、どうしても。この世にあまねく存在している有象無象の者どものうち、果たしてどんな奴が最も忌々しく、いけ好かないか。実のところそれは、他ならぬ自分自身であった。

 

非人道的所感

 愛とは無条件の肯定である。そのように定義するなら、俺は生まれてこの方、誰ひとりとして何者も愛したことはない。単に利害が一致するだとか、何となく好感が持てる、もしくは性欲を催すなどといった、そのような感情を愛と呼ぶなら、俺だって誰かを愛したことはある。しかし、愛をそのように定義すること自体、根本的に俺は間違っていると確信して言える。愛というのはその手の、世俗的な情動とは一線を画する、更に言えば人間的でない世界や領域に位置づけられる概念や情緒なのである。

 翻って、俺は誰かに愛された経験はない。それは言うまでもなくクダンの前提を踏まえた上での話でだ。無条件に他者から肯定されるようなことが、果たして人生で一体何度あるというのか。たとえ親であっても、どんな条件もハードルも設けず、限りなく肯定されることは相当に稀なことだろう。愛することと同様、愛されるのもまた人間の生においては極めて珍しく、そんなことを願い心待ちにして暮らすなど荒唐無稽だと結論付けるより他ない。

 俺は人間の営みそのものが、土台どうしても好きになれない。俺は最近、遅ればせながらようやく気づいた。俺は人間という存在そのものが嫌いなのだと。それは他人や身内に対してはもちろんのこと、他ならぬ自分自身にも当てはまり言えることだ。人がやることなすこと、言ったり書いたりすることも、考えること感じることも何一つとして俺にとっては、全然いいものだなどと思えない。

 人間から、人間であることから、人間然とした振る舞いから、俺は離れることを欲す。逆に、非人間的で人間離れした、更に言えば世俗の理屈や因果律、実利や合理に適った当たり前で正しい世界から、限りなく遠ざかりたいとさえ思っている。冒頭に触れた話にしても、俺は本心では何かを愛したかったし、自身が愛されることを求めた。しかし、それは前述した通り余りにも非人間的な次元の願望だろう。

 愛は言うまでもないが、自由もまた究極的には人間的な領域には存しないモノのように思える。俺が求める自由とは、あらゆる一切から囚われない状態を指す。俺は愛と同じくらい、それもまた心の底から欲したものだ。だが、それもまた俺にはまったくもって縁遠く、現実的な暮らしや考えの中には見い出すことも浴することも適わなかった。厳密な意味での自由な人間など、俺は目の当たりにしたことはなく、自身もまた全き自由というものを知らずに生きるしかなかった。

 人としてどのような生き振る舞おうとも、愛や自由には縁がない。これは何も俺に限った話ではない。もっともそれは、愛や自由といったものをどのように定めるかにも由るだろう。無条件かつ無制限の肯定、ありとあらゆる一切から解かれたアリサマ。そんなものを普通の人間としてマトモに生きながら感得、享受、満喫するなど到底できるはずもないのだ。

 それらは定石どおりの正攻法なやり方では決して手に入れられない。愛も自由も、言ってしまえば神の域に属する。そしてその域は有り体に言ってしまえば非人道的である。愛や自由を求めれば最終的にその者は、人間性と対立しなければならない。正当で真っ当な、言い換えれば尋常な世界と袂を分かつしかなくなる。人の世、人としての理、その手の一切から遠く離れる茨の道を歩む決意が必要だ。

誰から遠ざかるべきか

 俺は割と厳しく躾けられてきたし、行儀よく生きていた方で、少なくともそう自負している。俺はまっとうな国民、市民、労働者として役割を全うするための教育を受けてきた。それは単に働けるというだけでは十分ではなかった。正規雇用者として勤労と納税の義務を果たすだけではなく、社交などの社会生活を十全とし、結婚したり子供を作ったりすることを社会全体から要求された。

 俺はそれができなかった。だから両親をはじめとしたあらゆる他者は俺を出来損ないの役立たずとして蔑み貶し、罵った。俺は他人から愛されたことなどなかったし、自由のなんたるかを身をもって知ることもなかった。出自も能力も標準未満であったため、俺はどんな所においても忌み嫌われ侮蔑され、嘲笑された。俺にとってこの社会は過酷で、ただ情け容赦ない環境に過ぎなかった。

 人には良心があり、愛したり愛されたりするのだと教わった。しかし俺にはそんなことは到底信じられない。なぜなら、俺はそれを体験したことなど終ぞなかったからだ。また、この国において、全ての人間は自由が保証されているということになっているが、それもまた信じがたかった。子供の頃から俺は肉体はもとより精神的な自由もなく、周りの者どもに押さえつけられてばかりいたからだ。

 此の世に愛や自由があるという建前に、俺は絶対に与しない。俺が持ち得ず、与えられもしなかったものが、この世界にどんな形であれ存在していいはずがない。それに、その建前が表向き通用するような関係性や状況というものが仮に実在したとしても、そこに誤魔化しや欺瞞というものが、全く無いのだろうか。どんな条件も制限もなく肯定され、どんな縛りもないような、そんなことが有り得るか、起こり得るか。

 人間が人間であり続け、かつその者どもによって為される諸々の事柄によって作られる社会に、愛も自由も望むべくもないだろう。人である限り厳密にそれらに達することは不可能だと断言する。愛や自由に限らずあらゆる理想や幸福、法悦といったものは、普通の人間として在る以上は、手が届くことはない。それならば、人であることに頓着しない道を探し求める道を歩みたいと、俺は最近は思うようになった。

 人間など下らないと、本気で考えるようになってきている。他人など言うまでもないが、自分自身もまた人であることを辞められず、その分に甘んじる不服さを感じるのだ。一体全体、何がどうなれば、何をどうすればいいのか、我ながら見当もつかない。山ごもりでもして神仙の道でも進めば良いのだろうか。自分で書いていても、何やら途方もなく思えてくる。

 別に世捨て人になりたいだとか隠遁したいだとか言うのではない。第一、そんな状態に近い暮らしを仮に営んだところで、それは人間として隠棲しているだけだ。煩わしいことから物理的に遠ざかったところで、人間としてそれを避けているにすぎない。それは形や上辺だけ人から離れているだけだ。無論、俺が求めているのはそんな浮世離れした仙人じみたポーズを取ることでは決してない。

 

 俗世にあって自他ともに「人間」からある程度の距離を置く道を見つけたい。思えば、他人との関わりを避ける傾向は昔からあった。それで何かが解決したかと言えば、それは一々書くまでもないことだ。此の世のあらゆる人間関係から解放されたとしても、自分自身という人間からは逃れたことにはならない。どんな者であれ、自分自身という他人と、自覚なく連れ立って生きている。

 結局のところ、己の人間としての欲や願い、憂いや煩い、悔いや恐れといった人間的な心の動きに縛られるなら、引きこもりになったところで例の無自覚に伴う自分自身の他者性からは一向に自由になることはない。それでは全く意味がなく、実際引きこもりに近い生活を送っていた時期もあるのだが、それは俺の人生を困難にしただけであった。

 俺が離れ遠ざかり、克服すべきなのは単なる他人ではなく、己の内にある「人間」であった。自身の人間的な煩悶や懊悩、葛藤などといった人間的な悩みや苦しみの一切から、どのようにして解かれるか。詰まるところ、この俺の生における主題はただそれのみであると言い切って良いだろう。全ては内なる自己、自身の人間性との戦いであり、それ以外の個体としての人間など、物の数にも入らない。

 何かが無く、至らず、得られないから己が満たされないなどと考えるのは根本的な誤りである。俺は愚かにも外側にあらゆる問題の源を見出し、それが消え失せれば全てが解決すると考えていた。それはこれまで述べてきたように、見当違いの間違った見方にすぎなかった。どこにいようが、誰と関わろうとが、そんなことはハッキリ言って、どうでも良い。

 要するに克己である。自身が持つ人間性、人間的な悪しき要素から離れること、その手の一切と己を同一しない姿勢を身に付けることが、この俺の今生における修行なのだと、思っている。俺は労働者としてとある会社に努め、働かされている。そこでの人付き合いが相当に苦痛なのだが、それもまた勤め先で接触する他人や職場や従業員を擁する会社の問題なのでは断じてない。

 そこには自由も愛もなく、俺が好み求めるものなどただの一つもありはしない。ただ、毎月の給料欲しさに労働力を差し出しに行っているだけだ。心身を拘束され、甘えや妥協が許されない仕事上の人間関係に神経をすり減らしている。こんな仕事から解放されればと、俺は働かされながら常々思ってきた。だが、会社を辞めることは極めて容易く、それだけならいつでもできる。

 これまで、居たたまれなくなる度に俺は、幾つもの職場を転々としてきた。社会に放り出されてからこっち、俺は居心地が悪くささくれ立った人間関係と、不自由と理不尽を被らされる労働に耐えるばかりだった。その最中、俺は周りの人間や社会が悪いのであり、自分は全く悪くもなく、改めることなどありはしないと臆面もなく信じていた。それは重ねて言うように誤りであった。

自身の人間性から

 いま勤めている会社は依然として大嫌いではある。しかし、そこから逃げ出したところで一体なにがどうなるというのか。辞めれば一時は清々するだろうが、ただそれだけのこと。貯金を食いつぶし、失業保険を使い果たし、それから先は悲惨の一語。ただ嫌だからと逃げ出しても、しばらくすれば結局はどこかに雇われて食い扶持を稼がなければならない。結局は同じことだ。

 他人を責めたり避けたりしても、何も変わらない。変わるべきなのは俺自身であった。己の人間性を己とせず、それを他者とみなせば、心の内面には常に滅尽すべき「人間」が存在している。それこそ克服すべき真の意味での悪人であり、敵だった。この獅子身中の虫と無縁となったとき、俺は自身の人間的な要素から解かれ、本当の意味での愛だの自由だのを我が物とできるかもしれない。

 人間が人間である限り、望むべくモノや境地には決して至れはしない。それに近づきたいならば人であること、人としての立脚点から離れなければならない。そしてその人とは、他ならぬ自分自身であった。この段にあっては最早、他人など一体どんな意味を持つだろうか。愛せず、また愛されないことなど表面的な問題でしかないのだ。その抜本とは即ち、人間性からの脱却にあるのだから。

 人であること、人としての根本や前提から離れること。これこそが俺が目指すべき唯一の到達点であった。限りない肯定も全き自由も、その向こう側に存するのだということは、今の時点においても分かる。それならば、現時点に留まり続ける理由など何一つない。人間としてどのように生き、振る舞い、在るべきか、などといった世間におけるありがちな問いや悩みなど、ないも同然。

 是非も損得も、善悪さえ問題にならない。それらは全て人間としての葛藤の元であり、人であることから離れたい俺には一顧だにする価値もない。それは一見、愛だの何だのからは真逆に見えるだろうが、実はそうではないのだ。人間を克服してこそ、人は愛に達しうる。なぜなら冒頭で書いたように、それは神の次元の感情だからだ。加えて、これも既述のことだが、愛とは非人間的にして非人道の概念であるため、やはり人間は克服されなければならない。

 冷たく、血も涙もなく、息苦しく荒み切った生。人間として生きるということは結局、そういうものであり、またそうなるしかない。限りある生命と財産、時間と機会を人間は有効に無駄なく活用しなければならない。人間が人間である限り、それから逃れたり目を背けたりはできないだろう。寒々と汲々とした振る舞いこそ人間なるものの実体であり、それを良しとしないなら、人であること自体から離れたく思うのは必定というものだ。

 己自身が内に備えた人間から解かれること、それだけが俺に与えられた唯一にして最大の課題である。人間性を排した非人道の向こう側にこそ、神仏の次元の感情や境地といったものが存するのだと俺は確信している。自由平等博愛といったような青臭い理想の一切は、「そっち側」に所在している。その類いの代物を本気で追い求める気があるのなら、人として良いの悪いのと論じている場合ではないのだ。